(巻二)
11 四の君の出産
12 物忌みの夜
13 ある夏の日
11 四の君の出産
四の君が妊娠したというのに見向きもせず吉野山の峰に通う中納言の姿を見て、右大臣さまの心配は尽きることはございませんでしたが、そうこうしているうちに月日は過ぎ去り、四の君の出産が間近となってまいりました。右大臣さまは娘の出産を案じて、絶え間なく読経や修法を行わせ、左大臣さまも、できるはずの無い子供が授かったことを不審に思いながらも、世間から疑いを持たれないようにと吉日を選んで安産祈願の祈祷を始められました。
毎日、祈祷の声が邸内に満ちる程まで行った効験でございましょうか、ふだんから気分がすぐれず苦しんでいた四の君でしたが思いのほか安産でございました。
右大臣さまの望みどおり、末は后になるのではと思われる程の美しい女の子でございましたので右大臣さまは大喜びし、産屋の儀、湯殿(ゆどの)の儀と、その支度も度が過ぎる程でございました。
右大臣さまの奥方らが甲斐甲斐しくあやしている赤子の顔は、中納言には、間違いなく宰の中将に似た顔立ちに見え、
「やはりそうだったのか。宰の中将は、美しい四の君を娶りながら睦みあうことも無い私の事をさぞかし奇妙で愚かな男だと思っているに違いない……」
と胸が痛くなる思いでございました。
白一色に調えられた産室の中で、白衣に綿を頭に被って窮屈そうに伏している四の君のところに近寄り、
「少し聞きたい事がある」
と声を掛けますと、四の君は普段でも顔を合わせにくいのに、何を言われることかと目線を合わせる事が出来ず顔を伏せておりました。
この世には人のかたみの面影を我が身に添へてあはれとや見ん
(この世にある限りは、他人の面影を宿した子を、我が子として見続けなければいけないのでしょうか)
と中納言がささやかれますと、四の君は恥ずかしさに返す言葉も無く、黙ったまま夜具に顔を隠してしまったのも無理はないことでございました。
中納言は、四の君を責めるつもりなどございませんでしたが、言わなくても良いことまで口に出してしまう自分につくづく嫌気がさし、自然と涙が滲んでくるのでございました。
こんな慶びの時に涙を流すなど縁起が悪いと思われるのは煩わしいと、中納言は、四の君の傍を離れました。残された四の君は、他人にこの苦しみを打ち明けられるはずもなく、心中は苦しくて死んでしまいたい程でございました。
こうした様子を見て、右大臣さまの北の方が産湯の役、左大臣さまの北の方が迎え湯の役をして喜び騒いでいるのに中納言の態度は無関心すぎると思う人もおりましたが、「中納言は、人柄が物静かなので自分を抑えているのだろう」と多くの人は気にかけることもございませんでした。
大将(三の君の夫)が役となって七日目の夜の産養(うぶやしない)の祝いが行われた日のことでございました。
上達部(かんだちめ)や殿上人(てんじょうびと)がこぞって参集したのに、宰の中将だけは病気の為と参上しませんでした。
宰の中将は、四の君の出産をどうなるかと人知れず案じて無事を祈っておりましたが、他人事として遠くから見ているしかないもどかしさに、とうとう左衛門の部屋までやってきて、
「これほどの契りを分からないはずはあるまい。今宵、少しの間だけでも」
と四の君に会わせるよう左衛門を責めました。
左衛門は、
「とても無理な事でございます」
と断わりはしたものの、あまりに気の毒なので四の君の部屋の様子を伺ってみますと、年配の女房は台所であれこれ指図をしており、四の君の母君は自分の部屋で禄を確かめているようで、女房達は皆、席を外しておりました。
部屋では、四の君が湯浴みをした後、ひとりで横になっておられます。
これはまたとない好都合だと、左衛門は明かりをあれこれ工夫して宰の中将を招き入れますと、四の君は「折が悪い時に……」と思いながらも、強引に結ばれてしまった契りが心に染みてか拒む事が出来ませんでした。
小柄でほっそりとした四の君がゆらめく灯火に照らされ、隈なき白の肌で白い着物に包まれ、頭に菊の着せ綿のように綿を乗せ、豊かで長い髪を引き結んで垂らしている様子を見ながら、宰の中将は改めて「本当に美しい方だ」と心惹かれる思いがしました。
あらゆる女性を様々に口説いて我が物とするほどの宰の中将から、自分になびいて欲しいと言葉を尽くして口説かれると、四の君も拒む術を知りませんでした。
宰の中将も、ただ心弱く泣く四の君の姿に、なかなか立ち去ることができません。
外からは中納言が拍子を取って「伊勢の歌」を歌う声が興深く聞こえておりました。
「これほどの女を思いのまま妻としながら、ひどく生真面目で奇妙なくらいに身を慎み、いつも深刻に悩んでいるのはどうしてなのだろうか。中納言は、いったいどれほど重大な事を思い悩んでいるのだろうか」
と宰の中将は不思議に思うのでございました。
まだ宴が続いておりましたが、中納言は衣服を禄として脱ぎ与えてしまいひどく寒くなったので、着替えようと四の君の部屋に入ると、帳台の中で慌てふためく気配がしました。妙に思って覗いてみると、男は帳台から外に逃れ出た後でしたがひどく慌てていたらしく、扇や畳紙(たとうがみ)などを落としたままでございました。四の君も、あまりのことに狼狽したのか隠す事すら忘れておりました。中納言はそっと近寄り、枕元に落ちていた扇を取り上げて灯火の下に近づけて見ると、竹に雪が降っている絵が描かれた赤い紙が塗骨(ぬりぼね)に張ってあり、裏には気の聞いた言葉などが手習い風に書き散らしてあります。そして、その筆跡はまさに宰の中将のものでございました。
「やはりそうだったのか。こうして忍び入るつもりで祝宴には来なかったのか」
と中納言は納得しました。男ならば激しい嫉妬を感じるべきところなのでしょうが、中納言にはそういう感情は沸くはずもありませんでした。
中納言は素知らぬ振りで、その場を立ち去りました。
「男というものはこういうものなのだろうか。こんな時にも偲んで来るくらいだから、並々ならぬ愛情なのだろうが、手引きした女房も知らなかった訳ではあるまいし、予め連絡してあったはずだ。四の君は産後で深く考える事が出来ないとはいえ、あまりにはしたないことだ。
宰の中将は恥じ入るほど奥ゆかしい人に憧れているようだから、きっと四の君に幻滅しているに違いない。
私のいないもっとゆっくりとした折々もあるのに、こんなに騒がしく取り込んでいる時に気を許して逢っていては見咎める人もあろう。人目についてしまっては私にとっても四の君や宰の中将にとっても都合が悪い。
それにしても一体どうしたものか。このようなことがあるからといって、夫婦の縁を切るというのも世間体が悪いが、だからといって今のように二人が人目もはばからず密会しているのに、そ知らぬ振りを続けるのも心苦しいことだ……」
その夜は、管弦の遊びや宴が続きましたが、中納言の心は思い乱れて楽しむことはできませんでした。
12 物忌みの夜
出産の祝事が一段落した後も、宰の中将は人目を憚りながらなかなか逢うことのできない恋の辛さを嘆きながらも、四の君と心を通わせ、機会を逃さず逢瀬を重ねておりましたが、好色癖は相変わらずで、これ一つの恋だけではとても満足出来る男ではございませんでした。
何といっても宣耀殿(せんようでん)の尚侍に限りなく心を惹かれており、四の君になかなか逢えない辛さも慰められるのではないかと、尚侍付きの宰相の君という女房を口説き始めたのでございます。
宰相の君は尚侍の素性を知っておりましたが、宰の中将に言い寄られると堪えきれずに、手引きを承知してしまったのでございます。そして遂に、尚侍が物忌みで梨壺に参上なさることのない夜に、宣耀殿に忍んだのでございました。
忍んできた宰の中将を見た尚侍は突然のことに驚いてものも言えませんでしたが、思慮深く、慎ましく身動ぎ一つしません。宰の中将は心の限りを尽くして思いを訴えるのですが、尚侍は一見、弱々しげで、優美で儚げなに見えるものの、宰の中将の言葉に一向になびく様子はございません。
宰の中将が心をこめて口説いたり、恨み言を訴えているうちについに夜が明けてしまい、外に出る事が出来なくなってしまったのでございます。
おかしな事になってしまい困ったと思うものの互いにどうしようもありません。尚侍は、事情を知る二人の女房だけを残して、物忌みにかこつけて帳台の帷子と母屋の御簾を全部下ろさせ、下の局にいる女房たちが入って来ないようにしました。
宰の中将はこれを機会に、かねてから噂の尚侍の器量を是非とも確かめてみたいと思う一心で、万事を忘れて夢中でございました。
閉めきった薄明かりの部屋のうちで見る尚侍は、背は小さく、多少ふくよかさに欠けるものの、糸によりかけたようにゆったりと豊かな御髪で、顔は中納言を少しすっきりとさせたような上品さで、いっそう優美でございました。
上品で美しく、繊細で親しみ易く愛らしい四の君とはまた違った美しさで、目も眩むばかりの輝かしさは比類ないものでございましたので、宰の中将は心の限りを尽くして思いを訴えましたが、たおやかで弱々しげなけはいでありながら、まったく思い通りになびく様子はございません。そのうちに日が暮れてしまい、更にその夜も明けてしまいそうになるので、とうとう尚侍が口を開きました。
「物忌みが終わると父君も中納言もこちらに来られるでしょうから、このままここに居られてもお困りになられましょう。もし本当に深い愛情がおありでしたらここを立ち去ってくださいませ。あの志賀の浦を吹く風によせて後ほど文を下さいましたら、どれほど嬉しい事でございましょう」
言いようもなく愛らしい調子の声は中納言そっくりでございました。その声音に宰の中将はますます心を奪われてしまい、いよいよ出て行く気になれません。
後にとて何を頼みに契りてか かくては出でむ山の端の月
(後にといわれても何を証拠に約束出来ましょうか。このままでは山の端の月のように出ていくことが出来ません)
宰の中将が言い終わらぬうちに、
志賀の浦と頼む事に慰みて 後もあふみと思はましやは
(今後いつでも逢える身だとは思っておりません。あの志賀の浦を吹く風によせて文をいただけると約束した事に心を慰められております。)
「これからのことも、よく考えてくださいませ」
と、尚侍が愛らしげに言うので、これ以上は無理押しする訳にもいかず、宰の中将は魂を尚侍のもとに残して抜け殻のように帰って行ったのでございました。
13 ある夏の日
しかしその後、尚侍からの返事の手紙は全くありませんでした。宰の中将は欺かれて部屋から追い出されてしまった事が妬ましく、悔しい思いでおりましたが、時がたつにつれて、かえってこのことで、すっかり尚侍に心を奪われてしまい、次の機会をねらって自然と内裏に足が向く毎日でございました。
ある日、宰の中将は、ちょうど参内した中納言と顔を合わせました。
改めて中納言の顔を見ると、尚侍と露ほども違わぬ顔つきですが、尚侍が優雅で奥ゆかしい風情が勝っているのに対して、中納言は華やかな当世風で零れるばかりの愛嬌が勝っております。中納言の顔を見ていると、宰の中将は胸が潰れる思いで自然にほろほろと涙が零れてきました。
突然の涙に、中納言はどうした事かと宰の中将を見ると、
「幼少から分け隔てせず慣れ親しんできた貴方だから言うのですが、気分がこのところ優れず苦しくなる一方で、このまままではとても生きながらえられそうにない。そう思うだけで一層、気持ちが乱れ、心弱く女々しい気持ちになってしまうのです」
そう言って涙を拭っております。
中納言は、まさか四の君との事を告白しようとしているのではなかろうかと思いながらも
「誰しも千歳の松ほどの寿命はありませんが、どちらかが遅れて先立つ運命は悲しいものですね」
と、表面上は親しみをこめて答えてみたものの心中では、
「どんなに自分を愚かな人間だと思っているのだろうか」
と恥ずかしく思っておりました。
宰の中将はこのように思い悩む一方、愛し合っている四の君とも互いに心を通い合わせていましたが、人目を憚らず密会を続けて他人に知られてしまっては恥ずかしいと、気を配って身を謹むようになったので、実際に逢う事は夢で見る以上にむずかしくなってしまいました。
また尚侍とも、欺かれて部屋を追い出されてしまった後は、全く関係を持つすべもないほどにつれないので、枕元や足元から恋心が湧き上がっているような耐え難い気分で過ごしておりました。
宰の中将は、四の君と尚侍のことを思って嘆き暮らしていましたが、ある時ふと、それぞれにゆかりのある中納言にたまらなく会いたくなり、右大臣邸に出向いてみると、
「中納言様はお出かけになっております」
という口上でした。
宰の中将は奥の方を覗き見て、そのまま中に入って行きたい気がしましたが、それはさすがにできないので、仕方なくため息をついて、
「どちらにお出掛けでしょうか」
と尋ねると、左大臣邸との返事でございましたので、さっそく左大臣邸に向かいました。
屋敷はひっそりとしておりましたので、挨拶もせずに、いつものように中納言の部屋がある西の対に行ってみると、とても暑い日の事だったので、中納言は装束のひもも解いてくつろいでいるところでございました。
中納言が、宰の中将に気付いて、
「これはどうも失礼なかっこうをしてすみません。」
と、慌てて奥に逃げ込もうとするのを、宰の中将は、中納言が止めるのも聞き入れず、
「いやいや、そのままで構いません」
と、気安く続いて入ってきてしまいましたので、
「本当に見苦い格好で、申し訳ありません」
と、中納言は諦めてその場に腰を下ろしました。