「花からたち」

[昔香]

「そうホッペ・・・」 「かわいいって言うわけ・・・」 「そう、なの・・・」 「菊ちゃん、近頃おかしいよ。亜紀ちゃん遊びたいのに・・、全然近づか ないし。昼はどこかにいってしまうし・・・、彼女でもできたの?」 「彼女なんかいないよ。一人、女の友達いるけど、ほとんどオバサンばっ かりだよ」 「さっき出てきたところも?」 「そうだよ。あれは前の久松のオバサンの住んでいた隣のオバサン・・・」 「菊ちゃん、どこで友達出来るんだね」 「そういうわけじゃないけど、どこのオバサンもうちにいらっしゃいって 言うんだもの・・・」 「亜紀ちゃんは全然お呼びじゃないよ」 「前に一緒に行った事あるじゃない・・・」 「それに、菊ちゃん・・・。話し方が女の子みたい」 「そうじゃないけど、僕に洋服って買ってくるオバサンいるよ」 本当に先ほどの話なのだ。 「亜紀ちゃんにはそんな話一度もない・・・。そればかりか近頃男の子も 近づかない・・・」 「女の子は?」 「それもないし・・・、亜紀ちゃん一人・・。だから今、探偵ごっこして いるんだ。楽しいよ・・・」 本当は寂しいのだと思った。 「亜紀ちゃん・・・」 変に慰めのことばをかけて失敗しそうだったので、そのまま黙ってしまっ た。 「僕は明日もあそこに行くんだよ。あそこに住んでいるオバサン、仕事も 何もしていない・・・。暇なんだって・・・」 「家のお父さんほとんど仕事ばかりだのに、不思議だね」 「仕事しないで暮らして行けるのは、おじいさんとかおばあさんだけだよ ね」 「あそこの家、お父さんの会社の持ち物?」 「そうだってオバサン言っていたよ」 「そんなに思わないけど・・・」 事実、私も疑っている。 橋を渡りかけると一人の人が川の中洲で何かしている。確かに火を燃やし ている。一斗缶でいつもやっているのか、何か不明の液体を火にかけてい る。 「ちょっと行っていい?」 亜紀ちゃんは何を思ったのか、橋を渡り終えるとその石の土手を降り始め た。 「僕も行くよ・・・」 「一緒に行こう」 「なにしているの」 亜紀ちゃんは尋ねると 「子供か、用事はない・・・」 変によそよそしい。 「何か煮ているの?」 「別になにもないよ。この草煮てるだけだよ」 「何するの?」 「何もしないよ。用事なければ向うに行ったら・・・」 「菊ちゃん、向こうに行こう・・・」 亜紀ちゃんは素直にそれに答えた。 中洲の端の方に移動すると、亜紀ちゃんはこう言った。 「あの人達怪しい・・・。だって何かしてるのよ。きっと・・。大事件 かも知れない」 「何で?」 「あの人達うなぎ取るんだと思うよ。何か草を煮込んで毒を作ってそれを 川に流すのよ」 「でもあの人達とても楽しそうだよ」 「そうかなあ・・・怪しい」 「子供か、用事はない・・・」 「うなぎってどうして捕まえるの・」 「一番簡単なのは、お家を作ってその中に入居してもらう」 「お家って?」 「四角く長い部屋作って、それを水の中に沈めるだけ・・」 「そんなの見たことないよ」 「それじゃ、今から行ってみるの?」 「行きたい!」 「良い事も悪い事も、子供なんだから経験しなくちゃ」 そう言っている間にパトカーの音がして来た。土手の上から警官が何か言 っている。そのままその警官は彼等の中洲の方に歩いてくる。 「何してるのかなあ〜」 「あんな魚の取り方はダメなのよ。ちゃんと釣るとかヤスで突くとか網で 掬うのはいいのだけどね。全部死んじゃうでしょ」 「死ななけりゃいいの?」 「いや、そうじゃない」 「僕たちは関係ないよね」 「関係ないから・・・。早く行こう」 「あの人たち逮捕されるの?」 「多分・・・」 もう、私は彼らの所とは関係ないと言う意思表示のためにも、ドンドンと その場からはなれようとしている。 チラッと見返るとそれ程でもないように見えた。 「ほう〜ら、やっぱり捕まっているでしょう。亜紀ちゃんは何しているか 知っているんだ・・・」 「亜紀ちゃんは何でも知っているんだね・・・」 「そうだよ・・・。やっちゃいけない事だって・・・」 「亜紀ちゃん・・泥棒だってしたことあるの?」 「泥棒?はないよ」 「よかった・・・。警察みるとドキドキしない?」 「しないよ。でもね・・・。前、畑のキュウリ取って食べた事あるの・・ ・悪いと思ったけど・・・。帰りに自転車に乗ったオマワリさん見て急に 逃げたくなった」 「僕はないよ。ここのウナギも取っちゃいけないのかなぁ?」 「ここは誰がとってもいいんだよ」 「でもサッキのおじさんたち・・・捕まったんでしょう?」 「だと思う・・・。でもここの魚なんかは取っても叱られないよ」 「いままでそうだった?」 「そうだよ。他のお兄ちゃん達とよく取りにきたけど、一回もなかったよ」 「じゃあ・・。取って・・・」 「何言ってんの?菊ちゃんが取るんだよ。私も・」 「この川に入るの?」 「当たり前じゃない・・・」 「あそこに小さな川あるでしょう。それ堰き止めてカラカラにする。そう したら川の中に住んでいる色々な魚が出てくる」 「ああ、そうか・・・。でも・・・」 「何?」 「川に入るの」 「そうだよ。簡単だよ・・・。靴脱げばいいじゃない」 「裸足だよ。足の底が痛いかもしれない」 「痛くないって・・・」 裸足になって川原の石の上に出ると、足の下はとても耐えられないように 感じる。 「亜紀ちゃん・・・。痛いよ・・・」 「そんな訳ないでしょう。亜紀ちゃんだって裸足だよ」 「痛い・・・」 「こっちにおいで・・・」 「どこ?」 「ここから水の中にはいるん」 「そこ、ベトベト・・・」 「土だもん、当たり前よ。滑るから気をつけてね」 「わァ〜・・・。気持ち悪いよ。ヌルヌルする」 「菊ちゃん、こんな所で遊んだ事ないの?」 「ないよ。本当にすべりそう・・・」 「まいった・・・」 「お姉ちゃん・・。何が参ったの?」 「こんなところで遊んだ事がないって・・・、不思議?亜紀ちゃんの友達 は男の人が多かったから当たり前だよ。もっと凄い事していた・・・」 「ひや〜・・・。気持ち悪い・・・ヌルヌルの土の中に足が入るゥ〜」 「みんな、男の人・・中学になったので、遊んでくれなくなった・・・」 「片一方の足が抜けない・・・」 「もう・・・。そこに行くだけなのに・・」 「行ってどうするの?」 「最初は石を運ぶ・・・」 「僕は無理・・・。今日荷物運んだばかりだもん」 「亜紀ちゃん・・・何でも運ぶよ」 「もう、腕がパンパンになっている」 「しかないね。もう上に上がっていいよ」 「そう・・・。助かった」 私はこのヌルヌル感は我慢が出来そうになかった。 動きは活発だった。亜紀ちゃんはスカートを自分のパンツに巻き込んでそ の泥の中に入って行った。 「この石をこのまま動かして・・・。動かすのもコツがあるのよ。できる だけ水から出さないで運ぶ、そうすると軽いんだよ」 「同じようだけど・・・」 「全然違うよ、やってみれば・・・」 「僕はいいよ。水の中ってヌルヌルする・・・」 「やっぱり、嫌なんだ・・・」 「うん・・・」 「亜紀ちゃん、一人でする・・・」 それからは本当に人間が変わったように、気軽に動き始めた。その堰き止 めた下流にはあれよあれよという間に水は止まり、明らかに魚が浅瀬に打 ちあげられているような様子をしている。 「そこに大きな蟹がいるよ・・・」 爪に毛を蓄えた大きな蟹が私めがけて歩いてくる。 「亜紀ちゃん!・・・」 声が出ない・・。前に前にと私めがけて来る。 「捕まえて・・・菊ちゃん・・・」 「どうやって捕まえるの?」 「上から押さえるのよ・・・。捕まえて食べちゃおう・・」 私が手を出そうとすると、その蟹は怖い目をしてその手めがけて、グンと 背伸びするように爪を上げる。 「上からおさえようとすると、爪上げるよ」 「上から押さえると大丈夫よ。菊ちゃんの方が大きいんでしょう」 「そうだけど・・・」 私は勇気を出して押さえる決心をした。 怖い爪を避けて上の甲羅のところを手で押さえつけた。すると直ぐにその 蟹は反撃してきた。大きな爪のヌルッとした毛を私の手首に触らせる。そ れを見ると背筋がゾクゾクッとして、絶えられなくなって泣きそうになっ た。 「その甲羅を捕まえるのよ」 水に入ったままの亜紀ちゃんの声がきつく私に呼びかける。 「どうしたらいいのかわからない・・・」 「上から捕まえるのォ〜」 私は思い切り上から押し付けた。 「こう・・・?」 「違うよ・・。違う・・・。噛みつかれるよ」 そう声がかかった瞬間に先ほど触っていた爪が器用にくるりと反転して、 私の手首に喰いかかってきた。 「いたッ・・・」 ガリリと掴んだ私の手首から、ズシンとばかりの痛さが襲ってきた。 「亜紀ちゃん・・・。噛んでる・・。噛んでる・・・、痛いよ・・・」 「手を離しなさいよ。菊ちゃん・・・。甲羅を掴むんだって・・・」 もう私の頭はパニックなっている。 「噛んでいるよ・・・」 鼻から鼻水が落ちるし、痛くて涙は出てくるし・・。 「もう、しょうがない」 亜紀ちゃんは凄い勢いで水から上がってくると、私の腕を掴んでその甲羅 から離そうとする。それにも関わらず私の指はそれを離そうとしない。 「離しなさいよ、この指・・・」 私の一指し指を無理やりこじて外そうとする。 「力を抜いたらいいのよ」 それでも指は固くなったまま。するとその蟹は何を思ったのか亜紀ちゃん の腕を噛もうとする。 「亜紀ちゃん・・・。噛まれそうだよ」 「いいのよ。こんなのじゃ死なないよ」 事実、亜紀ちゃんの腕は噛まれている。それを見ると私の手はどういう訳 か簡単に蟹を離してしまった。 「離すよ・・・」 言う声の先に蟹は触ってもいない。 「こいつ・・・こんな所を噛んで、痛いなぁ・・・」 「亜紀ちゃん・・・」 私は出す手もない・・。いや怖くて出せなかった。 亜紀ちゃんはその毛むくじゃらな大きな爪を持って 「痛いなあ・・・」 その爪を持って無理やり離そうとしている。 「離さないのなら、折っちゃうよ」 そう言うと、直ぐにガチャガチャと言うか、ベキッと言うか。鈍い音 が聞こえてきた。 「あははは、とれちゃった」 爪だけが無造作に、そこに落ちている。 「大きいねぇ〜」 私は身震いした。 「蟹さん、死んでしまった」 「死んでなんかいないよ。こいつはまだまだしぶといし、亜紀ちゃんを噛 んだ」 「カサカサ動いて逃げて行くよ」 本当に何の事もなく逃げて行く。痛くはないのだろうか? 亜紀ちゃんはまた黙って水の中に入っていく。 「おい、何してる?」 大人の声がする。どうも風体からして先ほど警察が逮捕しなけれないけな い人達だと言う事がわかった。 「亜紀ちゃん・・・・」 私は亜紀ちゃんに助けを求めた。 「川堰き止めているの・・・」 「そうか。魚がいるぞ」 「堰き止めて、干いてきたから・・」 「ここの川で魚取っちいけないのだよ」 「お前だって取っていたじゃないか?」 仲間で言い合っている。 「取ってなんかない。あの時はまだ・・・」 「確かにそうだけど、お前がやろうって言ったじゃないか」 「パトカー来るなんて運悪いな」 「もう、いいよ。ここのを頂戴しよう」 「あの木の煮た汁で本当に大丈夫だったんだろうなぁ」 「間違いない。俺が保障する」 「もういいから、早くやろうぜ!] 亜紀ちゃんと私はその言い争いを遠巻きにして見ていた。その大人達はな んの悪びれもなく、せっかく亜紀ちゃんが作ったその下流に入り込んだ。 「いるいる・・・。楽にこれの方が取れる・・・」 私たちは呆然と大人のエゴに立ち向かう事もできない。 「菊ちゃんもう、帰ろう・・・ダメだわぁ・・」 「僕も帰る・・・」 そんな事を言った時、後ろで大きな声が聞こえた。 「蛇に噛まれた・・・」 「何処だ、何処?」 「ここを噛みつかれた」 「血なんか出ていないじゃないか?」 「出ていないけど、痛い」 「どんな色だった?」 「よく見ていない。水の中ばかり見ていたのでわからない」 「蛇には間違いないか?」 「間違いない。シッポが見えた」 そんな話をしている私の前にガサガサと音をさせて、あの気持ちの悪い蛇 は蛇行しながら通って行く。 「亜紀ちゃん・・・」 と、言ったきり私は次の言葉が出なかった。 「もう帰ろう・・・。菊ちゃん・・・良いことないよ」 声の出ないまま頷いた。顔からヌルリと冷たい汗が流れたのがわかった。 亜紀ちゃんにしがみ付くように寄り添った。亜紀ちゃんは黙って私をかば ってくれた。少しホッとした。 土手を上がると前の男達が、私たちの居た場所で何かしている。全く今は 私とは関係のない画面を見ているようだった。近頃テレビなどと言う物が 出来たらしく巷では大騒ぎしている。こんな感じなかなとホッとして見て いる。 「菊ちゃん、もう帰るよ・・・。元気を出して・・・。元々無かったもの じゃない。無くてもいいのよ」 そうだと思った。でも、あの蛇の通る音だけがリアルに私の脳裏に幻聴と して再生してくる。 「蛇がいたんだよ」 「ああ、いたみたいね」 「僕の前を通っていったよ」 「どんなのだった?」 「怖くて見てない・・・」 「蛇ってトグロを巻くんだよ。見たことある?」 「ない・・・」 「地雷也みたいな」 「映画?」 「メンコしたことないの?メンコにあるでしょう。ガマに乗って・・・」 「ないよ・・・。女の子とばかり遊んでいた」 「前にシズニイと遊んでいたでしょう?」 「遊んでいたけど・・・。今は全然・・・」 「そうでしょうね。今は幸ちゃん・・・」 「幸ちゃん?」 「家の・・・」 「家の?」 「そうなのよ。それでサッキ、菊ちゃんと遭った時、亜紀ちゃんは探偵中 だったの・・・。そうしたら菊ちゃん、ビックリしたの」 「今はヤエちゃんばっかり・・・」 「もう、帰りましょう。今日はついていないよ」 家に帰り着くと夕食のにおいがする。もう夕暮れだったし、今日は二日も 三日もたったような気がした。 家の玄関の戸を開けると、亜紀ちゃんは奥のお母さんに声をかけた。 「幸ちゃんは?」 「まだ帰っていないよ。でもお父さんが帰ってきている」 お父さんが早く帰ってきているのは本当に珍しい。 「何かあったの?」 お母さんはそれに答えずにまた奥の方に行ってしまった。 居間の方に行くと、お父さんが新聞に目をやりながら 「お前達、一緒だったのかい?」 本当に久ぶりだったけれど、それは間違いない。 「ウン・・・」 と亜紀ちゃんが答えると、また新聞に目を移す。 「何かあったのかい?三人とも見たけれど・・・」 「たまたま、あそこで遭っんだ」 「幸ちゃんは?」 「知らない・・・」 本当に知らないのだ。 私は三人じゃなかったし、本当は違う三人だった。どこでどうすれ違った のか、三人は三人なのだが・・・。話が違う。 「幸子はまだ帰って来ていないか?」 「お父さん、それはないでしょう。いつもお父さんが遅いのに・・・」 「いや、帰って来ていないのかと聞いておるのだ・・・」 「帰ってきていません」 お母さんが半分怒ったように答える。どう見ても雰囲気がよくない。今 日はご飯を食べたらサッサと寝たほうがいいかもしれない。 「お母さん、ご飯?」 「出来ていますよ」 「菊ちゃん・・・。飯台出そうよ」 亜紀ちゃんは雰囲気を承知したのか、言葉を他の方に持って行こうとし ている。私も賛成だ・・・。 大きな飯台は近頃あまり使った事がない・・・。 「こんなに重かった?」 「前のままだよ。ここのところ家族がバラバラで食事しているね」 「昔はこうではなかった。皆、飯台について食べていたよね」 「お父さん忙し過ぎるのよ。少しは夕食を一緒に食べたらいいのに、全 部外食ばかり・・・」 二人でブツブツ言いながら居間に運んだ。 「お母さん、お櫃?しゃもじは?」 「持ってきますよ」 割烹着を着てかいがいしく動くお母さんは昔と変わらない。 お父さんは部屋着に着替えると正面の席に陣取る。お父さんの隣はお母 さん黙っていても、温かな良い家庭に見える。全員いるのに、幸ちゃん の席だけやたら目立つ。 「ただいまぁ〜・・・」 そこに幸ちゃんの声がした。何かしらまずい雰囲気が漂う。 「お帰りなさい」 母の大きな声が聞こえる。父は黙って箸を取り上げる。 幸ちゃんがその居間の敷居を越えると 「遅いじゃないか、みんな食事だぞ!」 半分怒っているのがわかる。 「あら、毎日このくらいから食事の支度にかかるのよ」 母はそれに水を注すように言う。余計に父のこめかみが太くなる。 「そうじゃない。今日は何処に行っていたんだ・・・」 「お父さんとは関係ない・・・」 「お前、おとなしい良い子だと思っていたのに・・・」 「幸ちゃん、関係ないはないでしょう。謝りなさいよ」 母がそれに即座に反応する・・・。 「たまたま、お父さん早く帰ってきただけなのに、何故私が怒られない といけないの・・」 「何を口答えしているのか!」 いやいや険悪な状態・・・。亜紀ちゃんと私は何を食べているのかわか らないくらいの雰囲気だ。 「亜紀ちゃん早く食べよう」 私は亜紀ちゃんの耳元でそう言った。飯台の傍にあるやかんを取りそれ からご飯にそのお湯を掛けた。 亜紀ちゃんも私に目配せをして、同じようにしようとしている。 もう話などどうでも良く、茶碗のご飯を掻き込むようにして口の中に入 れた。横の亜紀ちゃんを見ると同じようにカサカサと箸をならして、吸 うような勢いで終わらせている。終わって箸をパタンと置くと、亜紀ち ゃんはもう立とうとしている。 「ごちそうさま・・・」 二人は食べるとその飯台から離れた。父と幸ちゃんは何か言い合ってい る。 私は自分の部屋に入ってしまった。こういう時は何故か勇気も出ず、静か になってしまう自分が情けない。隣の亜紀ちゃんだって同じだとは思いな がらも、助ける方法がないのは余計に悲しい。 「菊ちゃん入っていい?」 亜紀ちゃんの声がする。 「入っていいよ」 亜紀ちゃんが入って直ぐにこわばった顔で私に言う。 「幸ちゃんね。シズニイと歩いていたのよ。それを亜紀ちゃんが探偵して いたの・・・。それをお父さん見ていたのよ、私達も・・・」 「僕は関係ないよ」 「どこかで関係しているのかと思っていたかもよ」 「あの家・・・。お父さんの会社の物だって言っていたよ」 「それも関係ないよ・・・。僕、久松のオバサンの関係からだもの・・」 「久松?」 「何かややこしい事になっちゃった・・・」 「私も・・・」 「関係ないから・・・、もう忘れて寝ちゃおう」 「それがいい・・・、私も帰るからね。幸ちゃんの顔見たら可哀そうだか ら黙って寝ちゃおう・・・」 「お風呂は?」 「お母さんに言って来るよ」 「菊ちゃん・・・。先に入ったら?」 「うん、僕は寒くても大丈夫だから30分くらいで入るよ」 「お母さんに言ってくる・・・」 暫くすると亜紀ちゃんが帰ってきた。事の情報は飯台には幸ちゃんもお父 さんも居なくて、お母さんがもう飯台を拭いて片付けている最中だった、 と言う話だった。幸ちゃんは何処に行ってしまったのだろうか? 亜紀ちゃんはそれを聞きにまた降りて行った。 暫くするとまた亜紀ちゃんが帰ってきた。 「もう部屋に帰ったんだって・・・」 「何も音しなかったけど・・・」 「ちょっと様子を見てこよう・・・。心配・・・」 亜紀ちゃんは自分の部屋に行ってしまった。心配だ・・・。 また、戸を開けて亜紀ちゃんが戻って来た。 「居たよ・・、居た・・。全然音しなかったけど・・・。今日はお姉さん に話すのは止そう・・何かショックな事でもあったのかもしれない。菊ち ゃんは?」 「お風呂入るよ・・・。直ぐ上がるけど・・・」 「何か今日みたいな日は嫌!楽しい日がいいよ」 「亜紀ちゃん・・・。何か無い?」 「そうね・・・、今学校で指相撲が流行っているの?これは男の子でもド ンクサイ人は弱いのよ」 「とてもそんなのやる気がしない・・・」 「そうよね。ここで待っていてもいい?私のところより綺麗にしているか ら・・・、いいわね」 「いいよ、僕、じゃ行ってくるね・・・」 その場を離れた。風呂場はジャージャーと大きな音がしていたが、誰も来 る気配がない。私はサッサと下着も脱いで裸のままでその戸口に座りこん だ。お母さんが忙しそうに台所に行く気配だった。 「あら、菊ちゃん何しているの?お風呂?」 裸になったままその敷きタオルにペタンと座っている私を認めて、そうお 母さんが言った。 「うん、お風呂待ってんの・・・」 「風邪引くよ・・・」 と言ったまま、どこかに行ってしまった。 水道を止めると、プクプクと湯口から泡が出始めていた。私は心の中でも う少ししたら入ろうと心に決めた。 入ってみると予想以上に冷たかった。我慢が出来ないと上がろうとは思っ たけれども、自分で決めて入った事・・・。水風呂だってあるじゃないか と思った。 暫くすると、本当に慣れてしまったのか、それとも事実温かくなったのか わからないけど少しは快適に成ってきた。湯口の方からはコロンコロンと 音を立てて熱いくらいの湯が出てくる。気持ちいいね・・・。 そう思うと、知らず知らずに眠たくなってくる。 気がつくと、辺りは湯気でモウモウと煙り茹であがる如くのお湯に成って いた・・・。早く出なければ・・・。裸のまま私は外にあるガスのコック を止めに出た。コックをねじるとボフと音がして全てが止まった。 また、元の風呂場の湯上りタオルのところまで戻ると、そのままタオルを 自分の体に巻きつけると、ほとんど水気も取れて快適になってしまった。 パンツをはいて、ランニングを着て寝巻きを着ると、タタタタッと自分の 部屋に駆け上がった。亜紀ちゃんは僕の寝床にうつ伏せて寝ていた。 「亜紀ちゃん・・・。亜紀ちゃん・・・」 呼ぶと、ムクッと起き上がると思い出すように周りを見渡した。 「寝てしまった・・・、これからお風呂入るよ・・・」 そして出て行った。それから行ったと思うと直ぐに帰ったきて 「幸ちゃんが入っていた・・・」 「上がるまで待っていたら?」 「そうする・・・」 それも何もしないうちに幸ちゃんの帰ってくるけはいがした。 「隣の部屋に帰ってきたみたいだよ」 「それじゃ、今から入ってくる・・・」 亜紀ちゃんが出て行った。私は机に寄りかかるようにしていたけれど、本 当に疲れているのか・・・、寝床に足を掛けると直ぐに眠気を感じてしま った。不覚にもそのまま寝てしまったのだ。 「亜紀ちゃんのお帰りだよ」 「亜紀ちゃん・・・」 「なんだ眠たいの?」 「そうだよ。今日は・・・、引越しお手伝いしたのだもの?」 「そうだったの・・・。あそこの家?」 「そう・・・。だから・・・」 「じゃあもう帰るわね」 亜紀ちゃんはそのまま黙って戸を閉めた。 下のほうからお母さんの声する。 「お風呂入ったの?」 亜紀ちゃんの鋭い声がする。 「全部、入ったよ・・・」 「そうなの・・・」 お母さんの声が終わると急に寂しい程の静かさになってしまった。 「もう、僕も寝ちゃおう・・」 そう思うと、今までと違って逆に目が覚醒してしまう。 暫く暗い中でジッとしていた。それでも次第々々に色々考えているのか余 計に目が覚める 「菊ちゃん・・・、菊ちゃん・・・」 暗い中で誰かが呼ぶ声がする。 「誰・・・?」 半分寝ていたのだろうか。しっかりは覚醒していない。 「電気消えているから・・・、寝てるのかしら・・・」 この声は幸ちゃんお姉さん・・。 「いいや、起きているよ」 「入ってもいい?」 「いいよ、入っても・・・。寝ていないから・・・」 真っ暗な中に人影が入ってくる。 「亜紀ちゃん寝てしまったのよ。どうしても今日は寝られないの。もし かしたら菊ちゃんも・・・」 「電気点けるよ」 「そのままにして、その方がいい」 「暗いけどいい?」 「いいの、そのままにしていて・・・」 「何かあったの?」 「そう、あったの・・・。でも菊ちゃんには関係のない事・・・」 「そう・・・、お父さん怒っていた・・・」 「菊ちゃんや亜紀ちゃんにもそうじゃないかって・・・」 「僕は・・何も・・・」 「そうよね。関係がないよ・・・全く・・・」 「何か全くわからないよ・・・、僕・・・」 「それでいいの・・・。それで・・・」 「亜紀ちゃんは?」 「もう、寝てしまったみたいだけど。幸子は目がさえて余計寝息が私には 苦しく感じるのよ」 「寝られないって・・・」 「明日は試験なのに・・・」 「ここで勉強してもいいよ」 「電気は点けたくない・・・」 「勉強はどうすんの?・・・」 「しなくていい」 「お姉ちゃんの言っている事、わかんないよ・・・」 「今日は亜紀ちゃんと寝たくない・・・」 「それだったら布団持ってくればいいじゃない?・・・」 「亜紀ちゃん起きるよ・・・」 「お姉ちゃんの好きにしたらいいよ・・・。僕・・・」 「菊ちゃんの隣で寝ていい?」 「いいけど・・・。僕蹴らないでよ・・・」 「寝たら動かないから、大丈夫よ」 「姉ちゃん・・・。今日は少しオカシイよ?」 戸を閉める音がした。大きな動物が動いてこちらに近づいてくる。お姉ち ゃんだとわかっていても、凄く怖い・・・。 他の人と寝るのは久ぶりだ。毎日、お母さんと寝ていたときは何か安心出 来たけれど、それとは違う。 「菊ちゃん・・、ありがとう」 「パジャマは?」 「着ているよ。今まで黙って寝たフリしていたけど、どうしても寝られな い」 私の傍から足が入ってくる。冷たい・・・。 「何か今日なんなおかしいよ・・・」 「お父さんあんなに怒って、幸子は別に悪い事したわけじゃないのに・・ ・遅くもなっていないよね」 「なっていない・・・。足冷たいよ」 「本当はお風呂入っていないの。あのアルマイトの洗面器でお湯を浴びた だけ・・・、だから本当は温まっていないの・・・。菊ちゃんの足温かい ね」 本当に冷たい足だった。私は自分が一人で寝るときは本当に手でこすり合 わせるように強く摩擦する。そうすると体もホカホカするし、足だってそ れで温かくなる。 「もう一方の足も入れるけど良い?」 「いいよ・・・」 幸ちゃんお姉さんは私の足を絡めとるように伝ってくる。柔らかく冷たい 大蛇のように私に纏ってくる。 「今日はどうしたの?」 「僕は引越しのお手伝いしたの・・・」 確かにお姉ちゃんに触る肌はツルツルしているけども、お母さんに比べて 固い・・・。お母さんはポニョと柔らかい・・・。 「誰の引越し?」 「よっちゃん・・・」 「私の知らない人?」 「そう・・・」 それで安心したのか、幸ちゃんの体が緩む気がした。 「今日の事、亜紀ちゃんに黙っていてね。もう少しして眠たくなったら、 また元の部屋に帰るから・・・」 「僕のところで寝てもいいよ・・・。今日は本当に色々な事があった」 「そうなの・・・。それで、菊ちゃん少しおかしいよ・・・。体がとても 熱い・・・」 「病気?」 「気がつかない?」 「なんともないけど・・・」 「クラクラしないの?」 「だって、暗いんだもの、わからないよ・・・」 「体温計持ってくるね」 幸ちゃんは外の居間の方まで出ていった。 そう言えばあの冷たいお風呂がいけなかったのかと反省した。確かに体は ムッとして熱い・・・。 暫く一人で寝ていると、幸ちゃんが帰ってきた。 「お父さん・・・、居たのよ・・」 私はそれには返事をしなかった。気分が優れないし、その上電気は消され たままだった。 戸を開けたまま外の明かりで体温計を振る。 「電気点けたらいいのに・・・」 「今日は嫌・・・」 とてもおかしな幸ちゃんだった。 「体温計、見えないよ」 「脇に挟んで・・・、出来たら外で見るわ」 僕は少ない明かりの下でその体温計を脇に抱えて言った。 「お父さん、起きている?」 「焼酎を飲んでいる」 「お母さんは?」 「いなかった・・・」 「もういいかも知れないよ」 優しく響く声はよっちゃんより美しいと思った。 「はい・・・、これ・・・」 差し出すと、手だけを外に持ち出して光にかざした。 「確かにあるみたいだけど、大丈夫よね」 私は安心した。暗くてわからないだけに半分は不安であったけれども、幸 ちゃんが言うのだから間違いないだろう。 「それじゃ、私も菊ちゃんと一緒に・・・」 大きな影が僕に寄り添う。私は幸ちゃんと背中合わせになって壁に向いた、 お風呂に入っていないのに、幸ちゃんの香りはとても良い。 「何か付けたの?」 「何も・・・」 「良い匂い・・・」 「ラベンダーかも・・・」 「ラベンダー?」 「花の名前・・・」 私はその心地良い香りと、あのお姉ちゃんの少し鼻にかかった優しい声に うっとりとしながら聞き入ってしまった。そればかりか何か催眠でもかけ られたように、眠気が倍増してしまう。 「菊ちゃん、寝てしまったの?」 私は本当は起きていたけれど、返事をしなかっいた。 「菊ちゃん・・・」 暫くしてもう一度声をかけてきた。これも返事を返さなかった。 「菊ちゃん、ごめんネ・・・。寝てしまったの?」 返事をしなかった。 「私・・・私・・・」 それだけ言うと、何をしたのか・・・。僕の顔に近づいてくる気配だけが 感じられた。本当は相当に時間がたっていたのかも知れない。幸ちゃんの すすり泣く声が聞こえた。 本当に何かあったのだとわかった。それでも僕は寝たふりをして黙って、 硬直していた。 私は寝たふりをして、そのまま手を放り出した。できるだけ素直にお姉ち ゃんの方に向けてみた。 そこに居るはずの体には触れもせず、手は空中を舞い降りた。 感極まったシャクルような泣き声は、次第に褪めて寝息ではないかと思う ほど静かになってしまった。細く目を開けるとお姉ちゃんの顔は見えない ものの、細く長い呼吸は寝ているのを想像させるに十分だった。 思い切って、そのまま大きく寝返りを打つと、そのまま幸ちゃんは私を抱 きかかえるように懐に抱き込んだ。 「幸姉さん・・・」 「うん・・・どうしたの?」 「温かい・・・」 「いいのよ。このまま・・・」 「どうしたの?」 「話したくない・・・」 「うん・・・」 私はこれで良いと思った。 知らない内に寝てしまったようだった。あまりにも心地よい眠りがやって きて、起きたら朝になってしまった。 気がつくと昨日の夜の出来事が思い出された。ああもったいない時間だっ た。半分寝ぼけて居るであろう辺りを手を差し伸べてみた。居ないのはあ たり前だとは思ってみてもこれで全てが終わった事だけたしかだった。 いつもと同じように、着替えをして居間に行ってみた。 お父さんは既に会社に行っているのはいつもと同じだったが、亜紀ちゃん が起きて来ていなかった。 「亜紀ちゃん・・・。起こしてきて・・・」 お母さんがそう私に言った。 「幸ちゃん?」 「もう、学校に行ったよ・・、亜紀ちゃん寝坊だから早く起こしてきてち ょうだい」 私は急いで二階駆け上がった。 部屋の中を覗くと亜紀ちゃんは暗いところで起きていた。 「どうしたの亜紀ちゃん?」 「・・・」 「何時起きたの?」 「・・・」 「お母さんがご飯だって言っているよ」 「うるさい!」 「だって・・・」 「今日は病気!とお母さんに言って・・・」 「声大きかったから・・・、大丈夫だよ」 「お母さんに言ってきてって・・・」 「わかった・・・」 非常な剣幕でとても怖かった。外は明るいのにここは暗い・・・。 急いで居間に戻ると、お母さんはポツンと座ったまま時計を見ていた。 「どうだったの?」 「病気だって・・・」 「起きれないのかなぁ〜」 「わからない・・・、お母さん行ってみてよ」 「貴方も少し顔が赤い・・・」 「僕も?・・・」 「体温計・・・」 「昨日、計ってみたよ。幸ちゃんが・・・」 「いつもあるここの引き出しにない・・・」 「確かあの後そのまま僕のところに居たから、そこだと思う」 「探して来て・・・」 お母さんは亜紀ちゃん処に、僕は自分の部屋に戻った。入り口の昨日幸ち ゃんが薄明かりで体温を計っていた辺りを見渡す。 昨日の明るさとはかなり違うし、それがあるところは直ぐにわかった。 そのまま持っていった。 戻るともうお母さんが帰ってきていた。 「亜紀ちゃん、少しおかしいよ。確かに熱はあるようだし、それだけでな く顔だって赤い・・・。菊ちゃんと同じ・・・」 「僕はなんともない。学校行くからね」 「ちょっと待って、体温計って・・・」 「昨日、幸ちゃんが計った」 「これ・・・?」 「そう・・・」 「これ、昨日の?高いよ」 「幸ちゃん見ていたけど・・・」 「いいや、少し高い。もう一度計ってみて・・・」 「体温計、冷たいからいやだって・・・」 「そんなに言っている場合じゃないよ。昨日は何処に行っていたの」 「亜紀ちゃんとは川・・・」 「川?」 「あの真ん中にある大きな川・・・」 「あの川の流域で変な病気が流行っているんですって、高熱が出て運が悪 ければ死んでしまうことだってあるんですってよ」 「知らなかった・・・」 「だからあの川には入らないようにって、広報でお知らせがあったみたい なのよ」 「僕も罹ったのかなぁ〜」 「今はそれ程でもないから、学校大丈夫だよ。でも亜紀ちゃんは少しおか しい・・・」 「少し行ってみるから・・・。まだ学校行っちゃダメよ」 体温計を大きく振りながら、二階の方に駆け上がって行った。 帰ってくると大きな声で私を呼んだ。 「菊ちゃんは大丈夫だけど、亜紀ちゃんおかしいよ。すぐに病院行ってみ るね・・・」 「松本先生?」 「そうよ。あそこ今何処から入るの?改装中でわからない」 「行ったらわかるよ。正面だけが大きく変わっているだけなの・・・」 「亜紀ちゃんにしては少しおかしい。いつも病気だとクニャとなるのに、 今回は怒りっぽい・・・」 「僕は学校に行くね。亜紀ちゃんの担当の先生に言っておくよ」 「菊ちゃん・・・。本当に大丈夫?」 「大丈夫だよ・・・。簡単、簡単・・・」 その足で僕はランドセルを抱えて出ようとした。僕もおかしいのかも知れ ない・・・。ご飯がまだだった」 「お母さん・・、ご飯は?」 「今日はまだつくっていないのよ。それぞれが勝手に行ってしまうし、わ からない病気になってしまうし・・・」 「パン買って、食べるからいいよ」 「そう、じゃあね20円出しておくから・・・」 「うれしい。クリームパンが食べられる・・・」 お母さんは少し慌てているし、私の方など気に止めていない。私は朝ごは んも外でと思いながらランドセルを抱えて外に出た。 途中のヤエちゃんの家に寄ってみることにした。 玄関のアプローチをくぐると、不思議にあの木の白い戸がわずかに開いて いる。ベルも押さずに顔をその戸につきこんで大きな声で呼んだ。 「ヤエちゃん!学校・・・行こ!」 返事は直ぐにあった。でもなかなか出てこなかった。 あの幸ちゃんのお母さんが、出てきて申し訳なさそうに 「菊ちゃん、お迎えありがとう・・・、でも今日はね。ヤエちゃんの体調 が悪いみたい」 「僕のお姉ちゃんも熱があるんだって・・・」 「そう、ヤエちゃんも・・・、何か・・・」 それだけ言葉を濁すとまた奥の方に行ってしまった。 ああ、そうだパンやさん通り過ぎてしまった。 今日は皆おかしいよ。だれも出てこないし、私だけ元気・・・、何か伝染 病でもあるのだろうか・・・。 暫くすると、ヤエちゃんのお母さんが出てきて 「やっぱり、無理みたい・・・。元気ないし・・・、ボゥ〜としているわ」 「僕、一人で行ってくるから、いいですよ。先生に言うから・・」 「すみませんね。あの子は幸子と違って、病には強いのに・・・」 あの病弱で顔の青い、幸ちゃんを思い出した。 「あら、ごめんなさいね。幸子を思い出して・・・」 「いいんです。オバサン・・・」 すかさず私の顔色が変わったのを察知したのか。大人だなぁと思った。 「行ってきますゥ・・・」 外にでると、急にお腹が空いてきた。パンをもう一度バックして買いに行 くべきか?悩む・・・。 半分ボーとして歩いていると、後ろから声がする。こんなに早く知り合い がいるわけもない。無視して歩いていると、 「菊ちゃん・・・?菊ちゃんでしょう」 間違いなく私を呼んでいるのだ。しかも女の人・・・・。後ろを振り返っ てみると、学校の担任の先生・・・・。 「東野先生・・・」 「おはよう。早いのね・・・、どうしたの?」 「ヤエちゃん体の具合が悪いのって・・・。僕、行ったら休むって言って って・・・。僕のお姉さんの亜紀ちゃんも具合が良くないって、休むって 伝えてって・・・」 「どんな具合なの?」 「高熱って・・・」 「もしかしたら・・・、川に行った?」 「行った・・・・」 「今日の新聞にも書いていたのよ。知っている?」 「知らない・・・」 「近頃、火葬場が忙しいのって・・・。よくよく調べてみるとあの川の流 域の人が多いのですって」 「何か病気?」 「まだ、よく判っているのよ。それで風土病じゃないかって言う話になっ ているけど・・・。流行の伝染病じゃないかとか、あの上流の方、あまり 衛生的じゃないところがあるでしょう。そこから流れてきたとか諸説あっ てよくわからないのよ」 「僕も熱があるみたい・・・」 「菊ちゃんも・・・。でも少し青い顔しているわ。栄養失調みたいに青い よ」 「本当はお腹空いているのかもしれないって、朝ご飯食べてない」 「どうして?」 「お母さんがおねえちゃん、病院に連れていったので・・・」 「そう、お昼は給食あるからね」 「パン代貰ってるんだけど・・・」 「優しいお母さんね。私も忙しい時は子供に持たせる事あるけど、忘れて しまう事もある」 「あの川って・・・、魚泳いでいたけど・・・」 「そうじゃないの・・・らしい。お魚は大丈夫でも人間にとっては危険な 事だってある」 「今日はパン、買わないでいようっと・・・」 「菊ちゃん・・・。どうしたの?少しおかしいよ・・・。話が・・・」 「別におかしくなんかないけど」 何がおかしいのか、僕にはわからない。暫く東野先生と歩いていると校門 に差し掛かった。何かズーと先生を独り占めしていたのは初めての事だっ たし、本当に楽しかった。 「それじゃね・・。予鈴がなったら教室に行きますから・・・」 これまでと違った、以前の先生になっていた。 「東野先生・・。亜紀ちゃんの担任の先生にも休むって言って・・・」 私は教室は知っていても、担任の先生は誰かわからない。上級生の教室は 行きにくいものだ。 「わかったわ。言っておいてあげるから安心なさい」 「本当にありがとうございました」 先生は正面玄関の脇から、私と離れて入っていく。まだ殆どだれも来てい ない学校は寂しい。 ポルウゥ、ポルルウゥと鳩の鳴き声だけがうるさく屋根のほうから聞こえ てくる。それも切なくさえ聞こえるのはなぜだろうか・・・。 暫くすると、男の子が戸をカラガラと開けて入って来た。 クラスの中でもほとんどお喋りもしない。寡黙な男の子だった。私はお義 理にさえ聞こえるように「おはよう」と声をかけた。 相手からの返事はなかった。 彼は黙って自分の椅子の方に行って、ランドセルを椅子にかけてそのまま 黙ってしまった。 毎日そんなに彼ばかり気にしていた訳でもないから、いつもそうだったの か知らないけど・・・。どうもそうらしい・・、思い出さないのだ。 そんな彼にも私は興味を覚えた。近づいて話してみようと思えば思う程、 我慢が出来なくなるのだ。 外の景色を見る如く立ち上がって、ガラス戸の外を眺める。わずかばかり の上空にB29の巨体が爆音を立てて通過していく。ガラスの戸がシナルくら いにタワムとまた膨張する。 「あの〜。名前は?」 返事がない。もう一度、大きな声で聞いてみる事にした。 「僕は塙・・・、菊虎・・・」 何の反応もなかった。 「名前は何と言うの」 「僕の事?」 初めて返事が返ってきた。 「話せないのかと思ったよ」 「話せるよ・・・。でも誰も私を誘ってくれないの・・・」 「いつも、いるのは知っていたけど・・・」 本当は知らなかった・・・って言えなかった。 「途中で転校して来た・・・」 「何時ごろ?」 「少し前・・・」 「それで・・・」 それで、少しは安心した。紹介があったはずだのに、あまりしっかりとし た記憶がない。 「どこから来たの?」 「東京・・・」 「そうだったの・・・。僕は男の友達は少ない・・・。ヤエちゃんばかり と遊んでいるから・・・。今日はお休みだけど」 「知っているよ」 「何か病気らしい。今日は先生と学校に来たのだけど、街の中を流れてい る川が原因らしい」 「私はこの前来たばかりだから、川は知らない・・・。いつもヤエちゃん と遊んでいるのうらやましい・・」 「はっきり言って男の子は嫌い・・・、荒っぽいんだもの。殴られたら痛 いし、ヤエちゃんは絶対に殴らないし、でもお喋りだけは負けていないよ」 「私は男の子も嫌いだし、女の子も嫌いさ・・・、本当は誰とも話したく ない・・・」 「僕とも?」 「ううん・・・。微妙かな・・・。でもヤエちゃんとは話せそう・・・」 「どういうところが?」 「分からないけど・・・」 「ヤエちゃんって好き嫌いが激しいいんだよ。その分・・。好きだったら 虜になっちゃうかも知れない」 そこに他の子が入って来た。自分はこんなに早く来たこともないので、本 当に知らない世界だなと思った。よくヤエちゃんと来る時はザワザワとし た雰囲気の中で、誰にも知らず自分の席に着くだけの毎日だった。 その内に次から次と人が入ってくる。 「おい、菊。どうした?一人か?」 いつも私の傍に来ないNO.2の悪がきが近づいてそう言う。 「うん・・・」 半分怖いが、そう答えるしか方法がない。 「どうしたんだ。ヤエ・・・」 「病気って・・・」 「珍しい・・・。あいつも病気するんだ・・・」 黙っていた。 「今日は俺達に付き合え・・・な」 これは嫌がらせだと思った。返事もせずに黙って下を向いて、その言葉の 主の立ち去るのを待った。 もういいだろうと、顔をジワッと上げてみるとまだそこにいた。NO.2はな かなかしぶといと思った。このままでは私は逃げれる方法がない。最大の 方法は何か無いかと考えた・・・。頭の中は混乱するし、整理もつかない し指先だって震えてくる。 そう思っていると、前に座っている話した事もない彼が 「ヤエちゃんの事・・・病気って先生に言ったの?」 とっさに彼が私を助けたてくれているのだと思った。 「忘れていた・・・。東野先生に言ってこなければ・・・」 彼には先生と一緒に来ていたのは知っていたのだから、そんなアドバイス をする必要さえもない。ありがたいと思った。 先生の名前を出すと、もうNO.2は打つべき手段がない。そのまま教室の戸 を開けて外に出た、何か快適な気分になっていた。私にはヤエちゃんがと ても大切で、必要な人であると思った。 それと、彼とも友達になりたいと思った。 外に出たものの何もやる事がない。学校の校門は遅刻はしないであろうけ れども、急いで入ってくる者やノンビリと構えて、いつものヤエちゃんと 来る時間帯はこんな風景なのかと、ボーとして外を見ていた。 教室にはあまり早くは帰りたくないと思っていたし、事実は鐘の鳴るのを 待っていたのかもしれない。 「カランカラン・・・。カラン」 不思議と外で聞く音は澄んで、どの教室でも浸み込んで行くようだった。 教室に戻るとザワザワとしていても、何となく直前の慌しさが目に残る。 探している例の彼がいない。 彼の席の辺りに目をやると、多くではないがチリ紙が鮮血にまみれて、転 がっている。 心臓が早鐘のように大きく唸る・・・。 「何かあったんだ・・・きっと・・・」 それでも授業は止まることなく、始まろうとしている。 先生が何事もなかったように教室に入って来た。皆も誰一人驚いた様子も ない。出席簿をめくるといつものように確認しながら、先生は各個人の名 前を呼び上げる。 「浪川さん・・・、今日は休みね」 そう言うと次の人の名前を呼び上げる・・・。皆がハイハイと返事を返し ている。この人かあの人かと名前を読み上げている度に、知らない名前を 反芻するように私は振り返る。 最後まで終わると、先生はパタリとその出席簿を閉じて別の話をし始めた。 街の中を流れている川に行かない事、それにヤエちゃんが関わっているい て休んでいること等を話始めた。 そういえば、私だって同じだったじゃないか。僕とヤエちゃんじゃなくて 亜紀ちゃんと一緒だったのだ。 それにしても、あの鼻血を出した彼はどうしたのだろうか。喧嘩はそれ程 華々しかったのだろうか?不思議だ・・・。 一当たり話が終わると今日の最初の授業に入った。皆はそれに従うように 教科書を開く。 淡々と始まる一時限目。 あの子はどうしたのだろうか?本当にあの血のいついたチリ紙はどうした のだろうか。今はどうなっているのだろうか。私はその後ろの席を見た。 「あれ?何もない・・・」 不思議な事にそのチリ紙はなくなっているし、その椅子と机さえもない。 隣の友達に話しかけた。 「あそこの人?」 「何処の人?」 「あそこに椅子なかった?」 「ないよ。菊ちゃん・・・どうしたの?」 「鼻血のついたチリ紙?は?」 「そんなものないよ」 背筋がゾーとした。本当なのだろうか? そのような訳もないのに、何故私だけが現実を見ているのだろうか・・・。 それともあれは夢だったのだろうか?・・・。それでも私はNo.2に事実で あったかどうか聞く勇気はない。 一時限を終わっても、だれも私に近づく者はいない。いつもヤエちゃんが 来て私の周りで話を始めるのだが・・・。 その日はなんとなく中途半端な状態のまま終わってしまった。 帰りは本当に石を蹴りながら帰るような状態だった。ヤエちゃんの居ない 学校は面白くない・・・。帰り道にはヤエちゃんの家に寄ろう・・・。 玄関までたどり着くと、どうしたのかヤエちゃんが玄関で待っていた。 「ヤエちゃん・・・」 私はホッとして大きな声を出した。 「今日はごめんね・・・。もう大丈夫よ・・・。ホラッ・・・」 私より上背もあるし、力瘤を出してみせた。 「本当だ。もう完璧なんだ。よかったよ僕・・・。ヤエちゃんがいる方が 楽しい・・・」 「私も急な熱で、朝はフラフラだったわ・・・。あれから一所懸命タオル で冷やして、気がついたらベットで寝ていたわ。そういえば近頃あの事も ないし、熟睡していた・・・。今起きたのよ。あそこから覗いていたのよ。 きっと菊ちゃん通ると思って・・・」 ああ、あのオネショか・・・。それにしても元気になったものだ。 「病院にいかなかったの?」 「お母さんが行かなくても大丈夫って言ったのよ」 そうかもしれない・・・。でも家の亜紀ちゃんは重症だった。もしかして 同じ病気かもしれない。 「昨日の亜紀ちゃんも、熱が出たんだよ。今日は学校をお休みして病院に 行ったんだ。僕だけ大丈夫・・・」 「変わった事なかった?宿題は?」 「宿題ないよ・・・。でも・・・、あの川で変な病気が流行っているんで すって・・・」 「ヤエは行ってないよ」 「行ったかと思って、先生に言った・・・」 「川の橋は通ったけれど、下までは降りてない」 「ごめんね・・・。僕とお姉ちゃんは下に降りて遊んだけど・・・」 「あれからまだ遊んだの?」 「遊ぶまでは行かないけれど・・・。少し・・・」 言わなくてもいいような事までいわなければいけない私が、みっともない と思った。 「ヤエは熱がとれれば完璧よ。今からまたよっちゃんの処に行く?」 「今日は仕事だよ・・・。きっと居ない」 「何かあそこは興味がある・・・」 「僕は・・。あそこに・・・」 と、言いかけて止めてしまった。本当は本当にヤエちゃんのお母さんがい る事が私の喉から出そうだったのだ。 「どうするの?」 「今日は止めとくよ。亜紀ちゃんが心配だもの・・・」 「菊ちゃん本当に大丈夫だったの?」 「大丈夫、大丈夫・・・」 「今日、学校に行っていじめられなかった?」 「ううん、誰にも・・・」 「前から変な噂があって・・・。ヤエが居ないときに菊ちゃんをいじめよ うとか・・・。聞いた事があるのよ・・。それだったらいいけど」 「大丈夫だった・・・」 「明日行って、聞くけどね・・・」 「本当だよ・・・」 確かに本当だけれど、あれは一体何だったのだろうか?夢のような出来事 だった事はたしかにあった。 「そう、あいつに聞いたら直ぐわかるし・・・」 「だれも僕をいじめてなんかいないって・・・」 「そうかなぁ・・・不思議・・・」 「少し変な事があったけれど・・・」 「変な事って何?・・・」 「幽霊見た・・・」 「いつ?」 「朝早く行ったら・・・。出たんだよ」 「ヤエは早くは行かないから、いつも出てるのかなぁ〜・・・」 「それも良くわからない・・・」 「あんまり変なこと言わないでよ・・・」 「うん、そうする・・・、今日はこれで帰るよ。亜紀ちゃん心配だから・ ・・。いい?」 「いいよ。だけど明日は遊んでね」 「さようなら、バイバイ・・・」 「今日は暇だったなぁ・・・」 ヤエちゃんはそう言ってドァーから離れた。私はそのまま振り向かずに門 の方に踵をかえした。 本当は寂しがり屋さんなんだなと思った。それでも学校に行っている時の 方がヤエちゃんらしいし、元気もいい。 自宅の玄関を入ると変な靴がある・・・。見たこともない靴だった。 黙って玄関を上がると中の方から声が聞こえる。よっちゃんの声だった。 そのままその声のする方に進んでいくと、あの先生の声がする。 「高熱ですね・・・。今はとりあえず冷やしましょう・・・。原因が判ら ないのです。今朝一人死者が出ましてね・・・」 私はドキリとした。誰だろう? 「今日の夕刊に出ると思いますよ。昨日あの川の橋の下流で堰を作って、 魚を取って帰って食べたらしいのですよ」 もう、心臓が飛び出しそうだった。 「亜紀ちゃんがそこに行って、川で遊んだって言ってましたから、その精 かも知れません」 この話はかなり危ない話だった。それに引き換え私は何ともない。 「今・・・。眠っていますけれど・・・」 「これは半分寝てるようで、寝ていないのですよ・・。意識が混濁してい るので、いい状態ではないのです・・・。でも心配はいりませんよ。これ 以上熱が上がらなければ大丈夫です」 「あれ、菊ちゃん帰っていたの?」 少し半分開けた戸からの私を、よっちゃんが見つけて、声をかけてきた。 「菊ちゃんか・・・。こんにちわ・・・」 松本先生はいつもと同じように、私に声をかけてきた。 「昨日は帰りにあの川で亜紀ちゃんと遊んだ・・・」 「今は何ともないかい?」 「何ともない・・・」 「亜紀ちゃんもそこで遊んだのかい?」 「遊んで水の中に入った・・・。僕も・・・ヌルヌルして大変だったけど ・・・」 「細かく話してくれるかい?」 「良く覚えていないけど、その時大人が三人来て、僕たちのやっている事 を取り上げて、そのまま何かしていたけれど・・・。後はしらない」 「橋の上流?」 「橋の下流の方・・・」 「やっぱり・・・。危険な方だよね」 「そうだね・・。あそこで人が死んだよ」 「僕とは関係ないよ」 あの時の三人だと思った。他に誰も居なかったし、あの時警察が来てそれ から僕達のところに他に来た人は全くいない。 「何故死んだのかわからないし、それにあそこの人達がかなりの重症にな って倒れていくし、僕の病院でも次々と来る」 「亜紀ちゃん大丈夫かなぁ?」 「もう、大丈夫・・・。熱だけだし・・。お腹も頭も大丈夫だよ」 「死んだ人はどうだったんですか?先生・・・」 「それが良くわからないんだよね。三人いて一人が重症の高熱で・・・、 多分病院に来た時点で、意識がなかってって言う状態だったらしい・・・ いや、僕の病院じゃないけど・・・」 「他の人は?」 「それから一人直ぐに死んで、もう一人も危ない状態らしいのだけれど、 処置の方法がわからないから、対処療法しかないのだよね」 「亜紀ちゃんは・・・。どうなのですか?」 「ははは・・・、お母さんの処置が早かったから・・よかったですよ」 「亜紀ちゃん、起きるかなぁ・・・」 「ちょっと待っててね・・・。体温計ってみるからね」 よっちゃんがそう言う・・・。 「熱さましを飲ませたし、浣腸もしてかなり体温も落としたから大丈夫だ と思うけど・・・、それそろ私達も帰ろうかな・・・今日は大変だったね、 こんな事ないけどね・・・」 「体温、もう大丈夫です・・。36度7分・・・」 「先生、今日はわざわざ来ていただいて・・・」 「いやぁ〜、あれは私の判断が正しかったと思っていますよ」 そういえば、病院に行ってたはずなのに、先生が何故きているのか不思議 だった。 「菊ちゃん・・。また来てな・・・先生・・・、菊ちゃん来るのか楽しみ なんだよ」 「菊ちゃんって評判いいんですよ」 よっちゃんが言う。 「そんな事ないよ。皆黙っているよ」 そういいながらも、顔が赤くなった。何故か今までのよっちゃんと違って、 とても滑らかな折り曲げた肢体がとても気になった。 「塙さん・・・。もう帰ります・・・」 「亜紀ちゃんのこの後は・・・」 「直ぐに起きると思いますよ。平熱ですから・・・。何か急変ありました ら、また連絡してください。 「わかりました・・・」 と、言うと・・・。亜紀ちゃんの布団が大きく動く。 「ああぁ・・・。起きとったの・・・・」 あの元気な亜紀ちゃんの声がする。その場でスッーと座り込むと 「喉渇いたぁ・・・」 皆が仰天していると、よっちゃんが枕元の水飲みを空かさず差し出す。 「これ・・・飲めるの?・・・」 「いいんだよ」 ゴクリと飲み込むと 「疲れたぁ〜・・・」 と言ってまたバタリと布団の上に横になった。 「よっちゃん・・・、もう大丈夫・・・帰ろう」 もうそろそろ夕方の診療が始まる頃だった。 「はい・・・。昨日から今日にかけては本当に大変でした」 「ほとんど寝てないから・・・。本当は少し眠りたい」 「私も・・・」 「そうだったね。帰ったら他の人と代わってもいいんだよ」 「先生、私、行けるところまで行きます・・・。先生と同じなのですもの 頑張ります」 私と母はそんな話を聞きながら玄関先まで、お見送りをした。 今日一日はめまぐるしい一日だった。ホッとして玄関の方を見ると傍の沈 丁花の株の根元に動くものがいる。一度が目を伏せたもののどうしても、 よっちゃんと先生の後を見送らなければならない。立ちすくしたまま、も う一度目を凝らしてみた。 大きなガマガエルだった。ああ次郎長だなと思ったが、確か亜紀ちゃんは 次郎長が死んだと聞いた事がある。 皆が帰った後、また元の布団の部屋に戻ると亜紀ちゃんに 「次郎長・・・、死んだんだよね」 と一人ごとのように話した。返事はなかった・・・。 もう一度 「次郎長がいるよ・・・」 と、声をかけた・・・。 「えッ・・・、何?」 もう一度同じ話方で同じように答えた。 「次郎長がいるよ・・・」 「知っているよ・・・」 知っていたのか・・・、つまんない・・・。本当にいい情報だったのに、 残念に思った。 そのまま自分の部屋に帰って、そのままその日は終わった。 次の日も早く起きた。今日こそはヤエちゃんと学校に行けると思うとワク ワクした気分だった。食事もそこそこにして外に出た。線路を横切ってヤ エちゃんの家の前まで来ると、とても新鮮が気分になった。いつもとは違 うのだ。ドアーの前に立つと本当にドキドキした。 その時にドアーが少し開いて、中からヤエちゃんが悪戯っぽく舌を出して 立って私に声をかける。 「おはよう」 変に「は」の音が高い。私も真似して 「おはよう・・・」 と、言った・・。二人とも久々のようで新鮮だった。 「昨日は?」 「寂しかったよ・・・」 素直に言えたので良かったと思った。 「ヤエも・・・」 二人の心境は一緒だったのかもしれない。 「もう・・・。出られるの?」 「朝ごはん終わったよ」 そのための早くから食べて待っていてくれたのが嬉しかった。 「行こうよ・・・」 楽しい学校までの距離は全然苦にはならなかった。 校門をくぐると、その少し前に大きなお尻をくねらせながら東野先生が歩 いて行く。 「あの先生・・。本当にいやらしいわね」 「何が?」 「あの、お尻・・・」 「ヤエちゃん・・・、前にも聞いた事あるよ」 「そうだったかしら、でもそうなの・・・」 「ヤエちゃん大人になって、そんなになったらどうするの?」 「絶対ならない・・・」 ヤエちゃんの本当のお母さんはとてもグラマーだし、お尻だってとても大 きい。きっとヤエちゃんだってそうなるのに違いない。 「そんなわけない・・・」 「それだったら・・・菊ちゃんだって大きくなるかもよ」 「松本先生は・・・、男だったら大きくならないって言っていたよ」 子供の時は同じでも男と女は成長のある一段階で大きくかわるらしい。幸 ちゃんはもう大人入りしたのか、東野先生より立派かもしれない・・・。 私はそう思う。 「昨日は東野先生に私が休む事を話してくれてありがとう。まだお礼言っ てなかったわね」 「朝が早かったから、東野先生と会って一緒に学校に行ったんだよ」 それから直ぐにその校庭から東野先生の姿が校舎の中に消えると、 「本当はヤエの方がいやらしいのかもしれない・・・」 「いやらしくなんかないよ。お尻だってちさいしさ」 「そうじゃなくって、女のいやらしさよ」 「僕はヤエちゃん好きだよ・・・」 「私だって・・・、東野先生の事・・悪いと思って・・・。女のずるさや やっかみが出たの・・・」 「いいんだよ。僕・・・」 もう、後は話が出来なくなってしまった。今日は昨日と違ってとても楽し いのだ。嬉しい・・・。 「こんなに早く学校に来たことないわね・・・」 「僕は昨日来た・・・」 「そうだった・・・。お姉さんは大丈夫だった?」 「元気・・・。でも昨日は大変だった・・・、きっとヤエちゃんもそうだ と思っていた・・・。でも元気でよかった」 「昨日はいじめられなくって、よかったね。多分、アイツが狙っていたん で心配していたのよ」 「No.2?」 「そう・・。知らない内に皆そう言うね。私が名前つけたのよ。アイツは No.1にはならない。信頼がないからね。姑息なのよ」 「本当は・・・されかかった・・・」 「助かったの?」 「うん・・・」 「やっぱし・・・」 「でも僕を助けてくれた人がいるんだよ」 「だれ?」 「ごく最近に入って来た新入生なんだって言うんだよね」 「そんな人いないよ。誰も・・・」 「昨日いたんだよ。それも僕と話したしNo.2とも話したよ」 「おかしいねェ・・・。熱でもあるんじゃない?」 「教室に入ったらわかるよ。多分居ると思う」 「ほれじゃ行ってみようよ・・・」 もう半分は興味津々だった。 外から校舎に入ると、中は真っ暗だった。外が明る過ぎるのは丁度、東の 太陽が正面を照らしているからに違いなかった。 靴箱に靴を入れると、ヤエちゃんは私より大きな靴も持って踏み板を渡っ て、向こうの角に入れる。 私はそれを横目で見ながら、大きい靴だなと思った。 先に行って確かめようと思って、向こうの教室を丁度覗き込むかたちにな った瞬間、それは彼がその教室に入っていくのが確認できた。 「もう、先に来ているよ」 「だれ?」 「新入生・・・」 「誰も靴置いていないよ」 「確かに入る音が聞こえたよ。ガラガラっていっていた」 「この教室の靴棚にだれもいないよ?」 「隣の棚に忘れ物らしき靴があるのはあるけど・・・」 あるのはあるが、もうホコリがかかった当然に古い靴しかない。 「行ってみたらわかる・・・」 もう、それしか反論する余地はなかった。 黒光する少し暗い廊下はギシギシとしなる。はっきりと早朝の静けさの中 で異様に反響するのだ。 「ヤエには戸の音は聞こえなかったよ」 「聞こえた・・・」 本当は幻だったのだろうか・・・。行けばわかる。 自分の教室は目の前にある。 「ヤエちゃん・・・。戸・・・開ける?」 「いいよ・・・」 怖くないのだろうか・・・。私には開ける勇気がない。 その考えている猶予のないほどに、彼女は何の躊躇いもなく簡単にそれを やってしまう。 大きな音が廊下にこだまする。 「ホラ・・・。誰もいない」 私も恐々る確認する。間違いなく誰もいない。 「おかしいなぁ〜。確かに居たのに・・・」 「しっかり見てちょうだい・・・」 ヤエちゃんは私の見たのは幻想だと思っている。 「そろそろ他の人が来るのかもしれない・・・」 僕達はこんなに早く来た事もないし、昨日も途中で教員室に行ってしまっ たので誰が来るのかわからない。 暫くすると戸のおとがして、ピョコンと女の子が入って来た。いつ早いの かなれた手つきでランドセルを置くと、がタンと大きな音をさせて椅子に 座ってしまった。 ヤエちゃんはその子の方に近づいて、声をかけた。 「昨日はどうだったの?」 話したがらないのかその子は 「別に・・・」と言ったきり、借りて来たのか図書館の本をむさぼるよう に読み始めた。 「何もなかったみたいね」 「何もないわけないのに、変だよ・・・」 私だけじゃなく、あの子もきっと知っていると思っている。No.2も今日早 く来るのにちがいないが、今は来ていない。その内に二・三人がザッ〜と 入って来た。もうそれから次から次へと入ってくる。No.2も入って来るも のの私達の方に近づく気配もない。 「ヤエが聞いてこようか?」 「いいよ。それは・・・」 上背もヤエちゃんの方が大きいし、明らかにお姉さんに見えるのはとても 不思議だ。それよりもここのところは穏便に願いたいものだ。 にぎやかになりはじめると、教室も前の方が開いて東野先生が入って来た。 もう授業が始まるのだ。いつもと同じ平常の日々が開始される。 授業が始まると皆は正面の先生しか見ていない。用もないのにどういう訳 か私は後ろを振り返ってみた。 あれ?おかしい?確かにいないはずの昨日の彼がいる。ヤエちゃんは私の 席から離れて後ろの方だし、連絡のしようがない・・・。 ゾクゾクとしたものの、もう後ろを振り向く勇気がなかった。 授業は何を先生が話しているのか、私だけが別世界だった。とりあえずは 早く授業が終わる事だ考えていた。 終業のベルが鳴ると、私だけが元気良く立ち上がった。 「先生・・・終わった・・・」 いつも何も言わない私の声だけが響いた。 「ああ、終ったの?」 「早く・・・」 小さな声で誰にも聞こえないように言った。後ろを見たいけども怖くてそ れが出来ない・・・。 東野先生は何事もないように、チョークと教科書、出席簿を小脇に抱えて 外に出て行った。ザワザワと立ち上げる声を頼りとして、私は後ろを振り 返った。 誰もいない・・・。席だってない・・・。そんな訳がない・・・と思って もその通りだった。やっぱり私の幻想が幻を作ってしまったと思った。 「ヤエちゃん・・・、ヤエちゃん?」 「何?」 「僕は少しおかしいんだ・・・」 「おかしくはないよ。あの子がいない」 「あの子って?」 「本読んでいた子・・・」 足が身震いした。こんなにはっきりと震えたのは初めてだった。 日常っていつも同じでつまらない・・・、でも毎日が劇的に終わってもそ れは困る。 私はジッとそれを堪えて行くのだろうか? ヤエちゃんはその囲みに中にありながら、私を見ている。 手招きすればわかる位置でありながら、それが出来ない・・・。 半分いじけた様な素振りのために、私は机にうつぶした。これで時間がお わるだろう? 暫くそのまま伏せておこうかと思った時 「菊ちゃん・・・?ヤエが来たよ、元気出た?」 必ず助け舟を出してくれるヤエちゃんは、これが普通だとでも言いかねな い。 「元気出たよ!」 向こう側にいる女の子は、ヤエちゃんの振る舞いに何の反応もしていない。 それどころか、それを見ていないようにしている。もしかしたらあの男の 子のように誰も反論ができないのかもしれない。 不思議な感覚に襲われた。 私もヤエちゃんから逃れられないのかもしれないのだ。 「ヤエちゃん、今日は一人で帰るよ」 「どうしたの?何かヤエが悪い事したの?」 「いいや、そうじゃないの・・・」 「それじゃ、一緒に帰ろうよ。方向一緒だしね」 「そうだけど・・・」 「昨日は本当にさびしかっただよ。今日は絶対一緒に帰るんだから・・・」 「しょうがない・・・。そうする・・・」 「それじゃ一緒に帰ろうね」 放課後私が掃除係りにも関わらず、ヤエちゃんはその教室の一角に陣を取 って他の女の子と話している。それが番長のようでケッタイに見えた。逆 にいつもはにぎやかな男達はほとんどお喋りをしないで、黙々と机を動か して、当番の女の子達はその隙間を埋めるように雑巾を走らせる。 その景色が巧妙で痛快なくらいに見えた。 「終わったらと言うかその少し前にヤエに教えてね・・・」 「うん・・・」 「便所に行ってくるから・・・さ」 「うん・・・」 本当に男共はヤエちゃんの前ではどうなっているのだろうか? 掃除の終わって綺麗に並べられた机は、もうヤエちゃんのものになってい る。 男はどちらかと言うと暴力にまかせて、その世界を制圧する。ところがヤ エちゃんには全くない。その割りには人がいつも集まってくる。それに比 べて私の周りにはほとんど人が集まらない。来るのはいつもヤエちゃんだ けだ。男の子だって来ない。 放課後の掃除も終わりに近づいて、ヤエちゃんに連絡しなければならない、 その辺りにいない。先ほど一緒に話していた女の子にヤエちゃんの事を聞 いた。 「ヤエちゃんは?」 「便所って言っていたよ」 「ああ、そうだった・・・」 便所は右が男子用、左が木戸のついた女子用・・・。昔のボットン便所で とても臭い。私のキライな場所である。 出来るだけ中に入りたくないので、外の方から声をかけた。教室の方も人 が少なくなったせいか、辺りにもほとんど人がいない。 「ヤエちゃん・・・」 返事がないので、その倍くらいの声を出した。 「ここ・・・」 ヤエちゃんにしては極端に小さな声だった。 「居るの?」 「うん・・・」 「もう帰るよ。掃除終わったんだもん」 「そう・・・、もう少し待ってて」 「いいけど、ここじゃいやだよ。臭いんだもの・・」 「外で・・・」 「わかった・・。柳の木のところで待っているよ」 「いいよ・・・」 本当にアクビが出そうなくらい待った。 「お待たせ・・・」 「どうしたの?」 「ううん・・・、別に・・・」 「ヤエちゃん、おかしいよ。何かあった?」 「あった・・・」 「菊ちゃん・・、もう二度と聞かないでね」 「何を・・・」 「今日、有ったの・・・」 「何が?」 「菊ちゃん、知らないのか・・・」 「わからないよ・・・全く・・・」 「それだっら・・・。それで良いよ」 私はそれが初潮の話であるのが全く理解できなかったのだ。 「帰ろう・・・」 言葉少なくそう言った。 帰りは今までとかなり違った・・・、言葉も少なかったし顔も青い。 「どこか悪いの?」 返事は全くなかった。私も、もう早く家に帰りたいだけだった。 家の前まで来ると、ヤエちゃんは私に「さようなら」と言って家の中にか けこむように入って行った。 「いいけど・・・」 もう、明日は一緒に帰ってあげないと心に念じた。 家に帰ると亜紀ちゃんが庭に出ていた。 「亜紀ちゃん・・・。どうしたの?」 「さっき、幸ちゃんが慌てて出て行った・・・」 「学校じゃないの?」 「わからないけど・・・」 「亜紀ちゃんは?」 「今日はお休みしたのだよ」 「今日は行くのかと思っていた・・・」 「お母さんがもう一日休みなさいよって言うから、それいいなって休んじ ゃったよ。でもあまり楽しくない・・・。裏庭の茗荷の中に入ってナメク ジ探していたんだけど・・・、意外と居ないんだ・・これが・・・」 「ナメクジ、どうするの?」 「たくさん集めて競争させようと思って・・・」 「僕はキライ・・・」 「蛙はどう?」 「やっぱり・・・。キライ」 「何が好きなの?」 「動物は苦手・・・。噛み付いたりいろいろするから・・・」 「ナメクジは何もしないよ」 「一度触った事あるけど、気持ち悪い・・・。あのヌメヌメってとれない のだよ・・・」 「とれるよ。簡単だよ」 「石鹸で洗った・・・」 「石鹸でもとれるけど、本当はもっと簡単な方法があるんだよ」 「どんな方法?」 「そのナメクジが歩いているところの土が取れるんだよ」 「そんな事知らないよ。他のところの土は?」 「それは知らないけど、昔教えてもらった事がある」 「他には?」 「例えば、魚の生臭いにおいは塩で洗うとか・・・。まな板なんかそれで 完全に臭くなくなるし、汚れのひどい洗濯物は重曹で取れるとか・・・」 「亜紀ちゃんって凄いね・・・。僕は全く知らないよ」 「大人だって知らない人多いけど・・・」 「誰から聞いたの?」 「亜紀ちゃんの友達、みんなお年寄りの人ばっかりだよ」 「そんなのわかっても、僕は触らないからね」 「触るも触らないも、いないから止めになっちゃった」 「今は何しているの?」 「ゴミの中からジャガイモを取ってきてそれを植えたのよ。そうしたら芽が 出てどうも子芋が出てきているらしい」 「どうしてわかったの?」 「たまたま歩いていたら・・・。馬鈴薯って強いんだって話しているのを聞 いた事があるって・・・」 「それで植えたの?」 「そう、本当だった。今度食べてみようと思っていたら足元に白いものが ある・・・又何か変なかもしれないって心配したけど・・」 「何時わかったの・・・」 「馬鈴薯とジャガイモが同じだった」 「食べてみたい」 「でも、これがジガイモじゃなかって、他の毒だったらどうしよう?」 「心配だったら、たべなけりゃいいのに」 「そうだよね。こんなに小さいし・・・食べられないと思うよ」 「僕もいらない・・・」 「せっかく取ってきたのだけど捨てちゃおう」 「表のニワトリに上げたら?」 「そうしょう、あのニワトリ達・・・、いやしいんだもん。きっと食べるよ。 でも、直ぐに死んだらどうしょう」 「死ぬわけないよ」 「僕が上げるよ」 ニワトリ小屋はあまり近づかないようにしている。近くで見るととても大 きいし、上背も想像以上に大きい。あの鳥が威嚇する姿勢をとると睨まれ た蛇と蛙の関係になってしまう。 近くまで行って、それを放り投げた・・・。残念ながら中に入らずにその 針金で出来た六角形の網の外に落ちてしまった。亜紀ちゃんに私がするな どと言わなければよかったと思った。 元に戻って亜紀ちゃんに報告した。 「あげてきたよ。でも怖いから食べたかどうなのかわからない」 「あんなニワトリなんかになめられたらダメだよ。ニワトリは逃げると追 っかけるんだから、一発、頭ポコンとやってやったら大人しくなるんだよ。 簡単よ」 「亜紀ちゃんはニワトリ追っかけるの?」 「当たり前よ。あの中で一番大きいオスのトサカのついたヤツね。あれが 一番強い・・・」 世の中ではオスが強いのはあたりまえ、だからオスは堂々としてひるぎな い生活をしなければいけない。私はあのようなオスの生活などしたくない し、女々しく生きて行くのが私にはピッタリだと思われる。 「あんな大きなニワトリなんかキライだよ。何を思って生きているんだろ う・・・」 「狭い場所だってあのニワトリが一番・・・」 「亜紀ちゃんはなりたいの?」 「そうだよ・・・。なりたい・・・」 「僕は外に出て、ポケッ〜として自由に生きたい」 「あんな場所に入れられたら?」 「ノイローゼになって早く死んでしまうかもしれない」 「亜紀ちゃんは戦って、一番になるよ・・・。きっと・・・」 「全然違うね・・・」 「僕は亜紀ちゃんと戦いたくない・・・」 「そうよね。亜紀ちゃんが勝つに決まっている」 「そう・・・。でも幸ちゃんとは戦わない・・・」 「幸ちゃん?あの人は戦いしないよ。クネクネして生きているだけ・・・」 「いや、違うよ。あの幸ちゃん・・・。僕、大好き」 「亜紀ちゃんは?」 「少し・・・好き・・・」 「アハハハ・・・冗談よ・・・。亜紀ちゃんは男だと見ている人が多いん だもの・・同じ組の男達だって・・」 「少し・・・オッパイも大きくなっているのに・・・」 「これ・・・、亜紀ちゃんはいらないのだけど・・・」 自分の胸をさしてそう言った。 「僕もいらない・・・」 と言ったものの、本当のところはわからない。 「男もオッパイ大きくなったらいいのにね」 「どうして?」 「そうしたら一緒に赤ちゃん育てる事だって出来るじゃないの」 「そういえばそうだけど・・・」 「菊ちゃんもオッパイあるんでしょう?」 「あるよ」 「お父さんもあるのに、何も役にたっていないよ」 「古代人はオッパイ出ていたのかな」 「聞いたことないけど、だけど何で男にオッパイいるのか不思議」 それはそうかもしれないし・・・。私にも理由はわからない。 「亜紀ちゃんはそろそろブラジャーしているの?」 「しているよ・・・。でも嫌・・・苦しい」 「苦しいのだったら取ったらいいのに・・・」 「どう言うわけか、ドンドン大きくなるんだよ・・・。無理・・」 「亜紀ちゃん・・。男になったら?」 「みんな、そう言うんだよね。特に男の子・・・が」 「僕が女になればいいけど・・・」 「その方が自然な感じがする。でもどうしても体の方は変わらないし、女 には女の体調の変化があるんだよね」 「ふん〜ん?」 「それに、お父さんもお母さんも悲しむかもしれない」 「そうかもね。僕にもヤエちゃんが・・・」 「菊ちゃんのガールフレンド?」 「僕の用心棒・・・」 どうみても用心棒だと思った。他の男の子も近づかないし、ヤエちゃんの その存在だけで、教室は落ち着く。 「ヤエちゃんって普通の女の子よりズ〜と大きいね。中学生かと思うくら い」 「確かに大きいけど、僕にはそんな感じしないよ」 「優しいの?」 「優しいよ。あそこのお母さんも・・・」 と、言いかけて本当はどちらのお母さんの事を言っているのか、自分が困 惑しているのがわかった。 「今日は早く学校から帰ってきたの・・・。宿題あったの?」 「ううん、ない。今日のヤエちゃん少しおかしいかった」 「女の子だもの・・・、しょうがないかもね」 「そしたら亜紀ちゃんいたんだもの。急にナメクジやオジャガを出して来 るんだもの・・・」 「ごめんね。亜紀ちゃん本当は動物達が好きなのかも知れないよ。どうも 女の子の中に入れないし、男の子にはどうも嫌われているらしい。それに 幸ちゃんほど美人で色白でもないし・・・」 「亜紀ちゃん。そんな事ないよ・・・。しっかりしているから安心だもん」 「それだけ・・・?」 「・・・・」 私もその次に何を言っていいものか考え込んでしまった。その静かな空間 は亜紀ちゃんを傷つけてしまったかもしれない。 私は玄関の方を見やると、大きなイチョウの葉がクルリと落ちるのが見え た。 「今日は病院に行かないの?」 「・・・・」 亜紀ちゃんはそれに答えずに、ナメクジの背中を棒でつつきながらも一言。 「本当は美人になりたいの・・・・」 可哀そうだった。 「そうだよね・・・」 「菊ちゃんだって、女にしたら美人だよ?」 一瞬、ドキッとした・・・。でも本当は全くそうじゃないに違いない。 「そんな事ないよ・・・。亜紀ちゃんはとても優しいし、僕と亜紀ちゃん は昔から良く話しているもの・・」 「確かに、幸ちゃんとは話さないけど・・・。幸ちゃんはそんな性格なの かもしれないし・・・」 「亜紀ちゃん、僕は・・・もう少ししたら亜紀ちゃん凄い美人になると思 うよ・・・」 「我慢しょうか?今、美人でなくてもいいよね」 「そうだよ、そう・・、昔モデルさんやっていた人知っているけど、今は ブヨブヨだよ」 そうそう、そうだった・・・・。人はいつでも変化していく。 亜紀ちゃんは美人じゃないけど、普通だと思っているし、亜紀ちゃんの考 えているほ程不美人でもない。 「僕はこれから、ちょっとだけヤエちゃんところに行って来るよ。今日、 心配な事があった」 「何かわからないけど、例の病気かなぁ・・・」 「違うよ・・・、違う・・。でもとても変だった」 「心配なら行って来たらいいよ」 「うん・・・・」 ナメクジだなんだって嫌な世界と遊ぶより、一人で遊んだ方が楽しい。 「あの病気ね。あの後も一人死んだんだよ」 「よかったね。あの川ではもう遊ばないよ」 「原因だけわかれば、大丈夫だよ・・・。亜紀ちゃんは又行くからね」 そのまま門の外に出ると意外と静かだった。外の大通りもやたらと人が少 ない・・・。死んだ街だなと思った。 もしかしたらあの川の精かもしれない・・・。こんな時にヤエちゃんの家 に行ってもいいものだろうかと思った。暫くは歩測を緩めてノンビリ歩い た。いくら遅く歩いてもアッと言う間にヤエちゃんの家の前まで来てしま った。ここでも躊躇はしたものの、せっかく来たのだから思い切って声を かけることにした。 「ヤエちゃん・・・。ヤエちゃんうぅ・・・」 このまま返事がなければ帰るだけだ。 「いる?」 そうすると中から返事があった。 「いるよ・・・、入って来て・・・」 その声にホッとした。前と同じだった。 家に入る時は本当にドキドキした。昔、初めてここにきた時はそうだった なあと思い出した。 玄関の戸は開いていた。 「ヤエちゃん・・・!」 その声に反応するかと思う程に、正面の応接の戸が開いてケロとしたヤエ ちゃんの顔が出てきた。 「今日は・・・ごめんね」 「何かあったの?」 「体調がおかしかったの、早く家に帰りたいと思っていたの・・・。大丈 夫だから・・・。心配したの?」 「心配はしたけど、僕には何もできないから・・・」 「そうよね・・・。今度はヤエがサービスするからね」 「上って・・・いい?」 「アッ・・・ごめんね・・・。勿論上っていいよ。今日は宿題あった?」 「ないよ・・・」 と、言いながら。今日のヤエちゃんはかなりおかしいと思った。でも本当 は何が起こったのか聞き質す事ができない。 「上がって、上がって・・・今日はその部屋・・・」 玄関前のどちらかと言うと庶民的な部屋を指してそう言った。 「お母さんは?」 「今、買い物・・・」 「戸、開いていた?」 「急いで行ったみたい・・・」 「直ぐ帰ってくる?」 「うん・・。ヤエはね・・・」 言いかけてそのまま又黙ってしまった。 「言いたくなけらばそれでいいよ。僕だってそうだもの・・・。黙ってい るよ・・・」 そう言うと、ヤエちゃんは黙って下を向いてしまった。半分悪いことを言 ってしまったなぁと思った。 顔を上げると 「ありがとう。菊ちゃん・・・、そこが菊ちゃんのいいところなのよ。あ りがとう・・・」 別に誤解もしていないようだったのでホッとした。ヤエちゃんは私の良い 親友なのかもしれない。不思議と二人は自然と並んで座った。 そこの椅子に並んで座るとヤエちゃんはこう言った。 「菊ちゃん・・・、恥ずかしい・・・こんなに並んで座って・・・。アベ ックみたい・・・」 「私のラバさん、酋長の娘・・・て・・。今はラバさんって言うのかなぁ」 「アベックって、イチャイチャしている人?」 たまたま座ったところがこんな格好になってしまっただけなのに、何か悪 い事でもしたかのようなことになってしまった。 「キスしてみる?」 ヤエちゃんは突然そのような事を言う・・・。まんざら私もやってもいい かなと思ってはいたものの急なことで返事もできない。 「いい・・・?」 やえちゃんは私に積極的に言う。 「いいよ・・・」 私もそれに答える。 ヤエちゃんの顔が迫ってくる。目ってとても綺麗なんだなと思った。その 後ヤエちゃんのマブタが閉じた。映画のシーンと同じだと思った。 私もその後は閉じてしまっていた。柔らかい唇が私の口に触った。これな のかと思った瞬間に、私の歯をヤエちゃんの舌がペロペロと舐めた。 「ヤエちゃん・・・」と、言おうと思ったがその口は完全に封じられてい た。 これでヤエちゃんとは何回した事になったのだろうか。頭の中だけがクル クルと目まぐるしく回想する。 こういう時は何も考えられないのかもしれない。スッカラカンの私達に突 然にヤエちゃんが覆い被さってくる。十分に発達したヤエちゃんの体は僕 の華奢な身体を押しつぶす。 口元はそのままなのだ。 その瞬間に玄関にあるこの応接のドアーは開け放たれる。 ヤエちゃんのお母さんが入って来た・・・。 「ヤエちゃん・・・。あれ!・・・」 どうしよう・・・・。それでもヤエちゃんは身じろぎもせず。そのまま澄 ました顔で起き上がると、こう言った。 「ヤエも菊ちゃん好きなの・・・」 「・・・・」 黙って立っているお母さんを見て 「お母さんもお父さん好きなんでしょう・・・」 返事はなかった。私はバツが悪くなって、そこから離れるように動き廻っ たがヤエちゃんの方が大きくて重い。とても防ぎようのない重さだったの だ。 お母さんはただ目を丸くしたまま、凝視していた。 「ヤエは何度も見たのよ。この前だって・・・」 そう言った。 ツカツカと歩いて、ヤエちゃんも前に立つと 「パチン・・・」 ハッキリと聞こえる大きな音を立てて、ヤエちゃんの頬を片手で叩いた。 「あなたは大人の発言するのにはまだ早い・・・。菊ちゃん今日は帰りな さい。ヤエちゃんはこの買物カゴを持って、私のところに来なさい」 「嫌・・・」 それっきり元の幸ちゃんのお母さんは外に出て行った。 「ヤエちゃん・・・。どうする?」 私は本当に困った・・・。こんな事誰にも言えないし、ましてやヤエちゃ んのお母さんに知れてしまった。いつもこんな事をしているのかと思われ たくないのだ。 「菊ちゃん・・・。ごめんね・・・今日はヤエ少しおかしいの・・・」 「うん・・・。おかしいよ、急に襲うんだもの・・・。逃げられない・・ ・。それに幸ちゃんのお母さん僕のお母さんと友達だもん」 「ごめんね・・・つい・・・」 「どうしよう・・・」 「大丈夫よ。ヤエが本気になって説明するから・・。それに・・・。今日 ヤエのおめでたい日なの」 「何が?」 「いいから・・・。今日はこれで帰って・・・。お母さんもきっとわかっ てくれる・・・」 「うん、そうする」 私は立ちあがって促されるように椅子に手をかけた。 「ちょっと待って・・・」 「何?」 「菊ちゃんって柔らかいんだよね・・・」 「ヤエちゃんの方が・・・」 「普通の男の子ってゴチゴチしているから固い・・・」 「僕はしらないよ」 「お父さんの手なんか・・・、触りたくもない」 「知らないけど・・・」 「もう一回・・・良い?」 「僕はいいけど・・・お母さんに叱られない?」 「今度は絶対にこないから・・・。柔らかい菊ちゃんをちょっとだけ・・」 「・・・・」 黙って立っている私を上背の大きなヤエちゃんは取り込むようにして、ス ッポリと包み込んだ。 「大きな体・・・」 「何が・・・よ。でも菊ちゃんって本当に柔らかいんだね。まるで女の子 みたい・・・」 「お姉ちゃんもそう言うよ」 「いっその事、女の子になったら・・・」 「病院の先生は一所懸命男の子にしようとしているみたい・・・・」 「松本先生?」 「そうなんだけど、方法がないって・・・、僕は知らなかったんだけどわ からないって・・・」 「ややっこしいねぇ・・・」 「ヤエちゃんだって柔らかい・・・」 「ヤエは柔らかくないよ。友達はもっとプニュプニュだよ。触った事ある もん・・・」 「亜紀ちゃんはもうオッパイが大きくなりかけていて、本当に柔らかいけ どあのオッパイも中に芯みたいのあるよ。ヤエちゃんのはまだ柔らかいだ け・・・」 「そうなんだ・・・。ヤエは知らないよ」 「もう、こんな話いいよ・・・。僕、帰るから・・・」 「じゃあね・・・。離してあげる・・・」 「ヤエちゃん・・・。又・・ね。早く元気になって・・・。僕、ヤエちゃ んいないと危ないんだもの・・・」 「わかった。ヤエは菊ちゃんの周りで頑張る・・・」 心強い返事だったけど、何と言えば良いのか黙って下を向いてしまった。 「ありがとう・・・」 「でもね。浮気しちゃだダメ・・・」 「浮気って?」 「他の女の子と遊んだり、お家にいったり・・・」 「話しても?」 「そんな事したら・・・、こうだよ」 私の手をひねる・・・。 「痛いよ・・・。本当に・・・」 本当に話してもダメなんだろうか?この家の前の恭子ちゃんも話したらい けないのだろうか・・・。 半分はそうとは思うけど、半分は良いように思う。別にそんなに話してい 仲ではないし・・・。 「もう、僕帰るよ・・・」 「ヤエも少し遅くなった。お母さんに怒られちゃう」 「そんなに思うよ・・・、向こうでイライラしながら待っているよ・・・ キッと・・・」 「行って来る」 「ちょっと待って、僕帰るから・・・」 私は廊下に出ると、直ぐの玄関に出た。バラバラに脱いだズックが綺麗に 揃えられていて、私達がいかに外の音が耳に聞こえなかったかが、すぐに わかった。こんな事ではヤエちゃんとは上手く付き合う事ができないなと 思った。 「さようなら・・・」 急いで出ると、ヤエちゃんは下まで裸足で降りて戸が閉まると同時にカチ ャリと錠をかけた。 「今日、一日も変な日だった・・・」 そう声を出して歩き出した。 その次の日の学校は行くのが辛かった。昨日の話をヤエちゃんに聞くのは、 悪い結果を又聞き質すようなことにはならないかと心配したのだ。 ヤエちゃんの家に行って、また学校に行く勇気がなかった。 今日だけ校門の大きな銀杏の木の下で待つのはどうだろうか?半分真剣に 考えた。 テレテレと歩く私を見て、いつもは遅く出る亜紀ちゃんが追いついて話し かけてきた。 「どうしたの?菊ちゃん?」 「今日は学校行くの?」 「当たり前でしょう・・・。もう何日も休んでいるのよ」 「亜紀ちゃん、一緒に学校行こうか?」 「いいけど、私の悪がきが後で来るよ・・・」 「いいよ・・・」 「亜紀ちゃんの友達って怖いよ・・・」 「どんな人・・・」 「変な人ばっかり・・・」 「男の人?」 「そうだよ。男ばっか・・・」 「そう、じゃ。僕先に行くよ」 どうも亜紀ちゃんのようすからして、とても適うような人ではないのは確 かだ。 「菊ちゃんの友達は女の人ばかりだって・・・?」 その声は聞こえてはいたものの、もうその辺りで一人が出てきそうでおち おち話していられない。 スタコラ逃げるようにして歩いていると、見慣れたランドセルがある。 あれはヤエちゃんに違いない。そう思うと足早にそれに近づいた。 ヤエちゃんだった。 今日で一番会いたくないと思っていた・・・、でもここまで来ては最も会 いたい、いや会いたかった人かもしれない。 「ヤエちゃん・・・。ヤエ・・・」 「アッ・・・。菊ちゃん・・・」 「ごめんね。僕・・・」 「いや、ヤエは先に出ちゃったのよ」 「僕もヤエちゃんちに行かなかった」 「オアイコだね・・・」 「昨日は?」 「うん、最初は怒られたよ。ヤエもいろいろ言ったし、半分スッキリした 処もある」 「僕も悪いと思う・・・」 「菊ちゃんは悪くない・・・、ヤエよ。悪いのは・・・」 「もう、あんな事はしないでね・・・」 「いやよ。またするからよろしくねって言ったらどうする」 「どうしよう・・・」 「お母さんにも謝らなかった・・・」 「幸ちゃんのお母さんと僕ん家のお母さん友達だって・・・」 「大丈夫よ。ここのお母さん少し気が弱いから、絶対に話さないって・・」 「その時はどうすればいいのか僕はわからない」 「ヤエが駆けつけるって・・・」 「困った・・・」 「全然・・・」 「僕のお姉さん・・・」 「亜紀ちゃん?」 「直ぐ後ろ・・・」 「亜紀ちゃん・・・、あの子、不良と付き合っているって・・・」 「不良って?」 「あの周りにいるヤツさ・・・」 「僕、見れないよ・・。亜紀ちゃん、本当なのかなあ」 「ヤエより歳が上だし、このままじゃ勝てないからいつも黙っているけど ・・・」 「早く行こう・・」 「いや、ユックリ行こう。追いついて来たら、話しようじゃない・・」 「僕は話したくない・・・」 「亜紀ちゃん、いるし。あの中心が亜紀ちゃん・・・」 「早く行こう・・・」 「ちょっと待って・・・」 私だけが面食らっている。ヤエちゃんは今まで以上にのろまだし、もう心 はパニックになっている。 「菊ちゃん・・・、追いついたよ・・・」 「・・・」 「お前の弟か?」 「そうだよ。小さいけど・・・・」 「そうだな。本当か?」 「本当だよ・・・」 「なんか、女みたいだなぁ〜・・・。小さいし・・・」 「うるさいね・・余計なこと」 「傍の女の子は浪川じゃねえか?」 「私?」 「浪川じゃろうが?・・・」 「浪川よ」 「そうか・・・。お前の弟、浪川と友達なんか?」 「・・・」 「亜紀も友達だよ」 「ほんとかよう・・・。おそれいりやした」 「前に話したことあるよ」 「作家さん?」 「そうだよ・・・・」 「お前、結構、いいとこの出なんだなぁ」 「いいとこじゃないよ」 「俺なんかだれも知らねえよ。それでもこの学校に行けってうるさいから 来たけど・・・。良くわからないなぁ〜」 「有名な先生がいるって言っていたよ」 「俺んところの先生は違うだろうなぁ〜」 私はドキドキしながら聞いていた。それでもドンドンと話がずれて私が話 しの主体になっていないことに感謝した。ヤエちゃんには悪いけど・・・、 本当にホッとしている。 「菊ちゃん・・・。先に行こう」 ヤエちゃんは本気で歩き始めたのがわかった。何か大きな戦車に繋がれて いる乳母車みたいだなと思った。 「つまらない事話しているのね・・。皆あんな風に話してているんだろう 不安になってくる・・・」 「僕は知らないよ。亜紀ちゃんともそんな話したことないけど・・・」 「作家とは関係ないもの・・・」 「いつもお父さんの事ばっかり・・・」 「ヤエはヤエよ。お父さんなんか嫌い!」 「この前はそうじゃなかったよ」 「少しはわかってあげてもいい・・、けど・・。本当はキライ」 「もう、いいよ。僕にはヤエちゃんしかいないし、お父さんって偉そうで あまり話したことないから・・・」 言った矢先に「偉そうで」と言った言葉を言わなければよかったと思った。 「そうよ。本当にあの鼻へし折ってみたい」 ヤエちゃんは同意をしているみたいだけど、私はその言葉をとても気にし ている。彼女はそれほどでもないのだろうか? 「あの子達は不良じゃないよ・・・。ただ少しばかり力が強い」 「力が強いって・・・?」 「本当に力が強いのよ・・・。前に一回だけその場を見たことがある」 「見たって・・?」 「喧嘩しているところ・・・」 「僕も見たことあるよ・・・シズニイの・・・」 「菊ちゃんって幸せね・・全く喧嘩なんか知らない世界にいるんだものね。 ヤエなんか毎日よ」 「どんなことだったの?」 「事の始めは知らないのだけど・・・、言っている事は正しかった」 「・・・」 「男の人ばかりで何か言っていた、それも大きな声で・・・」 「不良って聞いていたけど、全然だよね。あんな彼いたら心強いし安心だ よ・・・。いや、菊ちゃんが心もとないと言っているわけじゃないのよ。 誤解しないように・・・」 私は半分ショックだった。だってヤエちゃんは私と一緒に何もかもしてい るのに・・・。本当はそんな子が良かったんだろうか?昨日のキスは嘘だ ったんだろうか? 私は半分拗ねたようにして黙った。 「ごめん、ごめん・・・。菊ちゃんはやっぱり一番よ」 「何処が?・・・」 「わからないけど・・・」 「もう、いいよ。僕一人で行くから・・・」 「ごめんってば・・・」 もう、許さないって思った。 私は当然後ろから追いついて来ると思っていた。 暫く後ろも振り返らず、ズンズンと歩いたと言うより走っていると思って 間違いないほどの速さだった。 心配になって少し後ろを見た。するとどうだろう、目の悪い私からみても 明らかに、ヤエちゃんは亜紀ちゃんグループと合流しているではないか。 悲しい・・・。私は一人になってしまった。そのまま駆けるようにして学 校の校門に到着した。 もう、後ろは振り返らないぞ・・・。 教室はいると自分の席にうつ伏した。 その内にヤエちゃんも入ってくるだろう・・・。 そのまま・・・、そのまま・・・起き上がらずに・・・うつ伏せて・・・ そう思うと気が楽になった。 私の背中をトントンとする・・・。もう本当に知らないから・・・。 最初はそのポンポンの手を振りほどいた。 しかし、またそれにも懲りずに又叩く・・・。 ソッ〜と覗くと、なんと苦手な2ではないか・・・。ハッキリ背筋が悪寒 に震えた。 「おい、今日も一人かい?」 「いいや、もう直ぐ来ると思う・・・」 「少し、可愛がってやるかな・・・。この前は失敗したけどなぁ〜」 「転校生は?」 「知らんなあ・・・。そんなもんいないぞ」 「ヤエちゃんは直ぐ後ろだったのに・・・」 「どうでもいいから、俺に一発かましてみい!」 「僕はしないよ・・・」 「お前が先に手を出さんと、先生にまたやられるからな」 イライラした表情が明らかにわかる。それだけで言葉がでなるし、その眉 間に出来た皺に余計萎縮してしまう。 早くヤエちゃん来ないのか下の方から後ろの教室の入り口を窺った。その 瞬間身がより細くなるように感じた。 「アッ・・・」 あの転校生がいる。間違いなくその後ろの方に気がつかないかのようにい る・・・。何時来たのだろう。音はしなかった・・・。 そのまま黙ってしたを向いていると、ガラガラと戸を開ける音がする。 「菊ちゃん・・・、ごめんね・・・」 ヤエちゃんの声だった。それに呼応するようにそのNo.2が去って行くのが わかる。 よかった・・・・。 「遅かったじゃない・・・」 「少し・・・。ごめんね」 「何していたんだよォ〜。またあの子に襲われる寸前だった」 「また・・・。シツコイやつだわね。今度、言っておくよ」 「ヤエちゃん、しなくていいよ・・・。後が怖いから・・・」 「まったく・・・・」 「それよりも、また転校生がいたよ。確かに・・・」 「どの人?」 「えぇ〜と・・・・、いないよ・・・、今・・・」 本当にいないし、その机の跡さえない。幻惑だったのだろうか?間違いな く見えたものがない怖さは、身を自然と震わせる。 「菊ちゃん、顔色悪いよ。やっぱり、言ってやるよ」 「いいってば・・・・」 顔色の悪い原因はヤエちゃんの考えている事ではなく、あの亡霊の事なの に、多分だれも信じてくれる人はいないと思う。 私はヤエちゃんの手を引っ張った。 「怖いの?」 「そうじゃないよ。僕は殴られたりしたことないけど、あれは痛いだけだ し・・・、いいんだよ。僕は僕で考えるから・・・。本当に困ったら相談 するし・・・」 「さっきは後が怖いって・・・」 「今は怖くない・・・、それにヤエちゃんが言えば言うほどややこしくな るし・・・」 「そうかもしれない・・・」 「もう、先生来るよ」 「そうよね〜」 先生がやってきた。これで全てはいつもと同じ時間が過ぎる。 終業のベルが鳴ると、みんなはソワソワとし出した。何かがあるらしい。 いつも中途半端にしか聞いていないのは、もしかしたら私の耳も悪いのか も知れない。 「何かあるの?」 隣の女の子に尋ねてみても返事が来ない、それもその筈、いつもは面倒見 のいいヤエちゃんが飛んでくるのだ。 「知らないのか?」 「何かあるの?今日?」 「やっぱり知らないのだ・・・」 「ヤエちゃん〜ん」 大きな声で私はヤエちゃんを呼んだ。 ヤエちゃんがやってきた。いつもはサッと波が引くように帰ってしまう他 の人たちも一向に帰ろうとはしない。 「何かあるの?」 「何かあるって、忘れてしまったの?」 「忘れてはいないのに、・・・・」 「今日はどこかにいくらしいよ。見に行くんだって・・・」 「放課後?」 「そうよ。だから少し早めに終わったの・・・」 「早め?」 「まだ、まだよ。いつもは・・・」 私は授業にも時間にも全然関心がない事がわかった。もう少し注意をし て生活しなけらば、とんでもない失敗をしてしまう。 「そうだよね・・・」 とは言ったものの実際はどこに行くのかわからない。 「もう少ししたら、むかえにくるって・・・」 「そうだよね・・・」 ともそれに合わせてはみたものの何かわからない。 「何処からいくのだろう?」 「ここから・・・」 とは言ったものの、皆目見当もつかいない。 鐘がなると直ぐに校庭に集まるようにと言う連絡が入った。 校庭に出ると、頭の禿げた校長先生と教員、それに見慣れぬ大きな体の 外人が一人、それにパチンパチンの紺のスーツに身を固めた頭の良さそ うな通訳らしい女性が一人、その校庭の台の近くに並んでいる。 どこに行くのだろう? 校長先生はその台の上に立つと、さも昔から知っていたようにその外人に 上に上がるように話しかけた。 そのまま上がると、握手を交わすと日本語で話しかけた。 「今日はとても貴重な体験を子供たちに与えてくれてありがとうございま す・・・。初めての事ですのでいろいろとお世話になるとは思いますが、 よろしくお願いいたします・・・」 私は隣の生徒に話しかけた。 「何かあるの?」 「知らないのかい・・・」 「何も・・・、休んだりしていないのに・・・?」 「今日は空母に乗ってみるんだって、エンタープライズって・・・」 「そんなの知らないよ」 「船の上にも戦車があるんだって・・・。飛行機もあるって・・・」 「それって・・・。大きな船?」 「大きな船だよ。でも遠くの方に泊まっている」 「海岸から見える?」 「見えるよ・・・」 「僕、行きたくない・・・。戦争のやつなんでしょう?」 「そうだよ・・・」 「ヤエちゃんは行くのかなぁ〜」 「この前、募集したので・・・。その時・・。どうしたか?」 「全然興味もないから・・・・聞いていなかったかもしれない」 「菊ちゃんは・・・」 「覚えていない・・・。もしかしたら他に何かあったかもしれない」 先生が前に出て、話を始めた・・・。実は行きたい人だけを因りだしてい るようだった。僕はまったく関係のない事であったのでその場を離れたか った。 「行かない人はどうするの?」 「行かない人は別のところに行くって・・・、船にそれだけの人が乗れな いのだって・・・」 「船は大きいのに?」 「そうじゃないよ。そこまで行く小さな船が何回か行かなければいけない のだって言っていたよ」 「そうか・・・。」 「菊ちゃんはどちら?」 「覚えてないのだけど、多分残り組・・・」 先生は名簿を見ながら、前の方から分けていく・・。それも、もう一度 意見を聞いている。 「何か急に決まったって言っていたし、それにここの校長先生と駐留軍 の将校と知り合いなんだって、特別中の特別なんだって・・・」 「僕のお父さんも知り合いだって言っていたよ」 「そう・・・。僕も行きたい・・・」 「全然行きたくない・・・」 先生が来ると私の顔を見るなり、行かない方に指図した」 よかったと思った。隣の組の話している相手の男の子も私と同じ行かない 方に分けられた。 全部が終わるまではかなりの時間が必要だった。結構なトラブルもあった ようだった。 行かないグループは私を含めて校門の近くに集められた。はっきり言って 行くグループの方が極端に少ない。大きな声・小さな声それぞれが賑やか に話している。気になるヤエちゃんはどうもいなそうだし、亜紀ちゃんも いない。少しホッとした。 「こちらの方は準備出来ているので、行きますよ」 引率の先生が元気良く大きな声で言った。 「どこに行くのだろう・・・」 「誰も知らないの違う?」 先生だけがやたら元気いい。その先生に従って歩けばいいのだ。 どういう訳か校門の裏から出て行く・・・。 「どこに行く?」 「どうも進駐軍のところに行くらしい」 「誰から聞いた?」 「いや、うわさだけ・・・」 二列に並んだ小学生は半分遠足気分になっている。誰だって元気良く話し ているし、こんな事も時々にあってもいいと思う。 進駐軍の正面入り口には、銃を装備している兵隊が真っ直ぐ私たちに向き を正している。 本当にその正門から入って行くらしい・・・。この鉄条網の内側はとても 怖いところだと聞かされている。入る気もなければのぞいてみようとも思 わない。 先頭で引率している先生が何か紙を出して話している。あの先生、英語が 話せるのだろうか?それでも意味が通じたらしく、そのまま入っていく。 「どこに行くのだろうか」 隣の男の子に話しかけた。 「わからない」 それで、いつもはこんな時にヤエちゃんに話しかけているのに気がついて、 目でヤエちゃんも顔を探した。どう見てもこの集団の中にはいないと言う 事がわかった。 私も迂闊だな・・・、と思った。 もしかしたら船の方に行ったのかもしれない。 探していてもしょうがない。今はここの人達と一緒に行動して最後まで帰 ってこなければならない。ヤエちゃんと離れてしまうと寂しい半分、自由 なってノビノビと羽を伸ばせると思った。今はその気持ちの方が多い。 見渡すといつでさえ女の子が多いのに、ことさら今日の構成は九割方が女 で付け足しのツマのように男がいた。たまたま傍にいた男の子がセットの ままここにつれて来られただけで、それに気がつかなかった私もショボイ と思った。 「どうするのかなあ」 「このまま、ドンドン中に入っていくよ」 白いペンキで塗られた木造の校舎のような造りの建物に入っていく。 「みんなは入れるのかなあ?」 「ドンドン入って行くよ」 「中は広いみたい・・・」 「一階建てなのにねェ・・・」 本当に中は広かった。行列を作ってその中にはいると二段のベッドがズラ リと並んでいる。そのところどころが空間があって・・、またそこにも荷 物が積み上げられている。 「ここがアメリカの兵隊さんが日常に生活しているところです」 私はもっと海側に優雅に暮らしている将校さんのお家などを知っているが、 それに比べて暮らせるような場所ではないような気がした。 クルリとその二段のベットを取り囲むその向こうに、ドキリとするような 目を感じた。 「確かに私を見ている」そう思った瞬間首から上が真っ赤になった。もう 一度顔を上げてみると、やはり私を見ている。本当なのか私はそれに答え るように眼差しをそちらに向けた。 見れば見るほど不思議な感覚に襲われて、今日のこの日が特別のように思 われた。理由もなく・・・。 背丈もそれほどでもなく、幸ちゃんとも亜紀ちゃんともヤエちゃんとも違 う何かがある。私と反対側に立っているだけに話もできず近づくにも無理 がある。 グルリと取り巻くようにしていた輪が外れると、私はできるだけその近く に行こうとして歩測を緩めた。なにを一体見ているのか、今何をしている のか自分でもわからない。興味もない・・・・。 傍に近づけば近づく程、私の体が火照る・・・・。何だろう・・・。 私が近づいているのは彼女はわかっているのだろうか?きっとあの目はそ う思っているに違いない・・・。と確信している。ホラ、もうこんな近く まできているのに・・・・。 係りの人が必死になって説明している。それにしても何と面白くない話な のだろうか。ここでこんな生活をしているとか、食べ物はこんなものでこ んなもので食べている・・・とか・・・だ。 私はそんな事はどうでもいい・・・。思い切り傍によって見るとその子か らなのだろうか、あまりにも無臭な中に何かおかしな香りがする。 「この匂いは?」 知らずに声を発した。 反応は誰もなかった。 この香りを記憶しておこうと思うと、ポッと完璧に消えてしまった。 何だったんだろうか?と思うと又、復活する・・・。 キン〜と響くような、香りなのだ。 その後今度はとても嫌な臭いがした。耐えられないあの雑巾が発酵してさ わるのも嫌な、あの臭いだ・・・。こんな複雑な体験をしたことがない。 誰がこの匂いをさしているのだろうか? ほとんどが女の子のい中にいて、それほど目立つ人ではない・・・。でも あの美しさは何だろうか? もう少し傍に寄ると、少しだけ肩が触れる。細い華奢な腕が私の手に触れ る。 「本当に細い・・・」食べ物を食べているのだろうか?筋肉なんか全くな いのではないのかと思われるほどだった。 わからないようにして近づいた彼女が、それをかわすように身を引いた。 明らかにその意思があった。 「なんか臭い・・・」 私は悪い臭いを嗅ぐような言い方をしてしまった。何故そのような言い方 になってしまったか、自分でもわからない。 「お香・・・」 細くそれだけ言うとそそくさとその場を離れてしまった。 「お香?線香はしっているけど・・・・」 「線香じゃないわよ。お香なの・・・」 「お香って?」 傍の女の子が説明しようとしている。 「私もしらないけど、あの子よくしてくるよ・・・」 「どんなのか知らない・・・」 「私も・・・・」 「ズンズンと遠くに行ってしまう」 「あの子、いつも一人なのよ」 「僕も・・・」と、言いかけて近頃はヤエちゃんがビッタリ私についてい る事に気がついた。 「僕は・・・。いつも友達がいる・・・」 「今日は一人なの?」 「一人・・・。それにしても女の子ばかり・・・」 「男の子って戦争好きなの?いつも戦車だとか飛行機だとかそんな物しか 描かないよね」 「そうだけど・・・。僕は違うよ」 「呼んでくるね・・・ながこさんゥ〜」 名前は「ながこ」って言うのか・・・。 その子も先の方に行ってしまった。元々私も無口のほうだので、話す相手 を失いうと寂しい。 ボッ〜としてそのベットらしき物を見ていると 「ながこさん連れてきたよ」と、期待もしていなかった彼女を連れて私に 沿う・・・。 「ながこさんて言うんですね」 「ながこっていいます」 クッキリとした言い口の歯切れの良い話しぶりだった。 「僕・・・」 「知っているわ・・・。女っぽい人なんでしょう。作家さんの彼女がとて も大切にしている人って・・・。色白だし、優しそう・・・」 「女っぽくなんかないよ」 「そうよ・・・・」 「私は違うわ、男の子って感じじゃないっていうかな?」 「ながこ、それって同じでしょう」 「少し違う・・・」 「そんな事よりさっき匂っていたあれなに?」 「ながこは知りません・・・。そんなに酷く匂っていたの?」 「少し・・・」 「ながこはしていませんが、母と父がしているから、しかたないかも知れ ません」 「何をしているの?」 「お香・・・」 「それって何?」 「匂いだけなのよ」 「匂い?」 「そんなもの何って思うでしょう。塙さんって言ったよね・・・。確か・ ・・」 「そうだよ。みんな菊、菊って言う」 「菊君?」 「菊ちゃんって・・・」 「一度、ながこのところに来て見る?」 「僕・・・。いつもヤエちゃんと一緒だから・・・」 かなり積極的な側面をもっているかと思うと、反面ナイーブな面を見せ る。掴みどころのない不思議な女性だ。 「お父さんもお母さんもしているのよ。洋服にもそれぞれ違うように香 りがついて・・・」 「嫌な匂いって・・・」 「あるよ」 「僕もあるのかなあ?」 「あるよ、極端だから一人の人が良くっても、片一方の人が大嫌いってい う事もあるよ」 「こんな匂いって、僕は好き・・」 「嫌な人の臭いって、本当は好きだったのに嫌いになってしまう事だって あるの・・・」 引率して話している人は、こことばかりに一生懸命に話をしている。 「あの人何を話しているでしょうね・・・。こんな遠くなのに話が聞こえ る訳ないのに・・・」 「興味のある子ばかりがその近くにいるだけだね」 「私たち全然興味ないし、時間がもったいない」 部屋にある毛布は汚い色だし、汗の臭いがどこからともなく漂っている。 それがとても不愉快に感じる。 「このまま学校に帰るのかしら・・・」 「ここで別れるわけないし、そうでしょう」 一段落したらしく、その大きな行列が移動する。 「もう、帰りたいねぇ〜・・・」 「僕も元の処にもどるよね。列乱すことになるから・・・」 「もう、バラバラになっているよ。だって殆んどの子達は興味ないもの」 「どこに行くんだろうか?」 「どうも外に出るみたい」 大きな木造の部屋から外は眩しかった。日本のようなコジンマリとした庭 ではなく、果てしもなく広がる砂漠のような芝生だった。 「いつもは鉄条網の外から見ているから、こちらから見ると違うね」 確かにそうだと思った。長閑な草々の上に集う外人たちはとても幸せそう だし、我々はその日だって暮らせるかどうかわからない程の、暗い部屋の 中で汲々としている。 「普通だよね・・・」 「そうよね。これだったら私の家の方がズ〜といい・・・」 「帰り道は何処?」 「あの作家さんの家のもう少し上の方・・・」 「どの辺?」 「あそこに教会があるでしょう・・・」 「ああ、変な教会・・・」 「その隣にバナナの木あるでしょう・・・」 「バナナ?」 「変な木よ。時々夏には出来そうになるけど・・・、無理・・・」 「お化けのような木?」 「切っても切っても出てくる・・・。私の家ではいらない木なんだけれど、 元気なのでこちらが負けそう・・・」 「あそこの家?・・・」 「そうよ・・・」 「あそこは家の周り全部って思うくらい水が流れている」 「そうよ。お堀になっている」 「お堀・・・って。上の石垣壊れているところあるよ」 「知っているわよ。まだあそこは直さないの・・・」 「丸い石だから置けばいいのじゃないの」 「そういうわけにはいかないの・・・、下手に積むとあの石、コロコロと 勝手に落ちていくのよ」 「僕がやってやろうか?」 「ありがとう。でも危ないから・・・いいよ」 引率している人は味気ない話しばかりしていて、僕たちの事などどうでも いいのか勝手におしゃべりして、次はここ次はと連れて行くだけだ。 中には本気でアクビをしている人だっている。 「ここは日本人が入れないとこだよね。でも、何か味気なく面白くないと 思わない?」 「早く出たい・・・」 「脱走しちゃおうか・・・」 「向こうで兵隊さんが睨んでいるよ。あれ日本人?」 「そうみたい・・・でもアメリカ兵?」 「ここの購買で働いている人も多いみたいって・・・」 「知っているよ。横流しなんかもあるって・・・」 「缶詰とか・・・」 「その人達、優雅に暮らしているって・・・よ」 今日という時間は一体何だったのだろう。ヤエちゃんは消えてしまうし、 そのお陰でながこちゃんに会えた。でもこれはきっとヤエちゃんが怒って しまうに違いない。 遠くの方で引率している人が、手招きする・・・。 「ハイ・・・。みんな集まって・・・」 こんな大きな声が出せるのだったら、皆にこのくらいの大きな声で説明す べきだと思った。 「それでは今日の見学会は終わります。これから一度学校に帰ってから・ ・・、帰る事になります。どうでしたか?楽しかったですか?」 どういうことか皆がそれに合わせるように大きな声で 「楽しかった・・・」 本当はその子もいればそうでない人もいたのだ。これで早く終わるかと思 うと・・・これでいいのかも知れない。 数人の人は本当に楽しかったみたいだった。主に女の子が多いのでそれほ どじゃないとは思っていたけども、何かメモでもしていたような子もいた し、熱心に質問する人もいた。僕らは特に不熱心で後ろの方に固まって、 お喋りばかりしていた。 皆は二列の隊列を作って、その正門の方に向かう。門の前まで来ると、門 衛さんは僕たちを見て、固まったまま私たちを見送った。 その正面には白く大きな蔦で囲まれた、この連隊の司令官の家が見える。 「ここの司令官、お父さん知っているんだって・・・」 半分、自慢げに話した。 「ここの会長さんも知っているって・・・」 「でも、僕には関係ないし・・・」 本当にその通りだった。 それに今日は面白くなかった・・・。 学校に帰ると戦艦に行った人達はまだ帰ってきていなかった。 それでも帰ると引率していた先生は、そのまま直ぐに帰っていいと私たち に伝えた。 半分は喜んだけれども、ヤエちゃんを残して帰る事はできない。待ってい ようか、どうしょうかと考えているところに、今日の「ながこ」さんが校 庭から私を目ざとく探してきたらしく、バラバラになった私のクラスの中 に入ってきた。 「一緒に帰ろう・・・」 半分嬉しかったけれど、半分は少し怖いような気がした。 ホロリとあの微かな香りが私の気をそそる。 「うん、いいよ。帰るよ」 目指す家はここからあまり遠くない。 「家に来ても、石垣を壊さないでね。お父さん触ると怒るんだもの・・・」 「触らないよ・・・。絶対・・・」 「触らないよ・・・・」 「触ったらわかるらしいのよ。庭にある石がどういうようになっているか、 覚えているらしいのよ」 その学校の帰りがけに、その話を思い出した。 「ねえ、さっきの話・・・本当?」 「そうなのよ。昔、小さな石を掘り出して怒られた事覚えている」 「僕のお父さん、庭に降りたの見たことないよ」 「私の家の仕事、お庭も大切な道具らしい・・・」 「何してるの?」 「いろんな匂いのするもの・・・、コウドウなんか言っている」 「コウドウ?」 「知らないでしょうね」 「うん、知らない」 「当たり前よね。ながこは生まれた時からこの香りに包まれていたから、 なんともないけど・・・。匂いする?」 「うんするよ。良い香り・・・、だと思うけど・・・」 「家の前で鼻を押さえて通る人だっているよ。それにクシャミする人だっ ているんだから・・・」 「ここから石の道・・・」 「玄関まで・・・」 「カラカラなのに草が多いね。被さるよう・・・」 「今日は人が来ない日・・・。すぐわかる・・・。人が来る時は水でベチ ャベチャ・・。こんな日は安心なのよ。うるさくしても・・・怒られない のよ」 「バナナの木は?」 「ここの全く反対のところにあるよ」 「あの木は焼いたらどんな匂いするんだろう?」 「普通の木と同じじゃない・・・」 「何かバナナくさい匂いがするとか・・・」 「少し待っていてね・・・。お父さんとお母さんに帰ってきた挨拶をする から・・・」 「毎日しているの?」 「そうだよ・・・毎日・・・。じゃあ・・・行ってくるね」 彼女は何の苦労もなくそれをやって、上手に世渡りしている。こんな堅物 のお父さんとお母さんだと僕は窒息死してしまいそう。 彼女一人でこんな少し暗い生活は、本当にいいのだろうか。今頃正座をし て、両手をついて帰った挨拶をしているのだろうか? 「お待たせいたしました。お父さんが友達を連れてきなさいって、言って いるけど行く?」 「僕は何もできないよ・・・全然知らないのだから・・・」 「彼氏かって聞くのよ・・・」 「そうじゃないよ・・・。僕・・・」 「ながこはそうよって答えたの・・・、悪かったかしら」 「困るって・・・僕・・・」 淡々と話す話し方が引き入れられるように感じる。 「知らなくて、当たり前だから心配しなくていいわよ。私も全然知らない のよ。それでもいいの・・・」 「匂い嗅ぐだけ?」 「そんな事、しないと思うよ・・・」 ズルズルと引っ張られて、いつも私はその渦中の中に入ってしまう。それ がわかっているだけに悲しいけれども、それがしょうがない状態でとりあ えずは無難に生きてこれた。 「それじゃ・・・」 やっぱりそうだった。 「家は暗いけど、いいところなのよ。寒くも暑くもない・・・、いつも同 じだと思ってくれてもいいよ」 奥に進むと中庭が本当に苔むした風情で私を迎える。 「その先・・・」 「僕・・・・」 「どうしたの?」 「ここに来たことある・・・・」 そうなんだ。ここは来たことがある・・・。間違いない・・・。 「初めてなんでしょう?」 「初めてなんだけど・・・・」 自分でもそれがよくわからなかった。先に進めば進むほどその記憶が鮮明 になって、現実のものになってくる。 「この気持ち・・・」 「どうしたの塙さん・・・」 「菊ちゃんって呼んでいいよ・・・」 「菊ちゃん・・・」 「薫ってくる・・・」 「どうしたの・・・。おかしくなったの・・・大丈夫?」 「うん、これこの匂いって・・・」 「お父さん、これは滅多な事では使わないものかもしれない」 「何の香り?」 「よく知らないの・・ごめんなさいね・・・」 「聞いてくれる?」 「ながこが?」 「そう・・・」 「とてもそんな事できないよ。言っても教えてくれない」 「そう言う世界?」 「親子は特にそうかも・・・」 「聞けないのだったらしかたない・・・。聞かないよ」 「そうして・・・」 もう、殆んど近くに来ているらしいけれど、逆に薫りが薄れてしまってい るようだった。 障子の前に座ると、絵に描いたように中の様子を伺う。 「お父さん・・・いいですか?」 「ハイ、・・・・」 軽い言葉がすんなり響いてきた。 ながこさんはその廊下に座って入ろうとしている。私はその後ろに立った ままだった。 「このままでいい?」 「いいよ、いいよ、お入りなさい」 中から声が聞こえる。怖いお家かと思えばとても優しい声がするのだ。 「ながこ・・・友達も一緒に・・・。立ったままでいいから・・・」 「はい・・・」 「丁度いい時だった・・・」 私は中に入った・・・。もう一人左の壁に女性がいる。 なんとなく緊張はしているものの、空気は甘い・・・。 「ながこ・・・紹介して・・・」 「はい」 私は立ったままだった。しかしながら皆が正座しているのに私は不自然な のだ。 「座るよ・・・」 「そう・・・」 ながこさんはそう言って拒否はしなかった。 「座ると足痛くなるよ。崩していいから・・・、胡坐できる?」 「ううん・・・。できない」 あまり胡坐も組んだ事もない。そのまま皆と同じように正座した。 「ながこがお世話になっています。いい友達になってくださいね」 そこの左に座っているおばさんが言う。 「母なの・・・、正面がお父さん・・・」 とても私の家の雰囲気と違う。どうしていいのか全くわからない。 「僕・・・、菊虎です・・・」 「トラ?」 「虎・・・」 「ほう・・・虎なのかね」 「虎です・・・」 「雰囲気が違うね・・・」 「ながこはこの人が良いと思ったの・・」 「おかしな子でよね。ながこは直線的だしね」 本当におかしな人だと思った。初めて会ってまだそれ程も話などもして いないのに、不思議な人・・・。 「僕は・・・」 「いいのよ。昔々の話なのよ・・・あなたは知らないわね」 「ながこ・・・、その話はそこまでにしなさい」 「はい・・・」 「今日はこれまで使ったことのないものを使っているんだよ」 「不思議な香り・・・」 「これについては今は話せない・・・」 「何故?」 「それも・・・」 何もかも不思議な話だった。 「ながこさん・・・ここではいつもこんな事してんの?」 「いいや、してないわよ。生徒さん来たときはしているけど・・・水撒い てないし・・・」 「ながこ・・・。今日はね、特別なのだよ」 「何故?」 「それも話しはできない」 親子だのにここでは秘密が多すぎる。私の家ではそんな事はないし、父も 母も一生懸命に教えてくれる。 「僕・・・」 指を自分に指して聞いてみた。少なくてもそれを強制的に無視するように 話始めた。 「それは昔々の話なのだよね」 「昔話はよく聞いたけど・・・」 「そうだよね。この香道の話はよく知っているよね。でも何故この仕事を しているのかは話した事ないよね」 「はい、聞いた事もありません」 「ながこは賢い子だから、聞いて良い事と聞いちゃいけない事は私の話し 方で直ぐにわかるし、それ以上は深入りしないよね」 黙って聞いているお母さんが今度は話す。 「ここの家は昔からここに建っているのよ。私の生まれた家でもあるし、 ながこが生まれた家でもある」 「お父さんはここで生まれたんじゃない・・・。偶然にお母さんと結婚し て、ここに住むようになったんだよ。それも昔から不思議が物語があって、 その通りなるんだ・・・、何故だかわからない」 「私はここで生まれたのよ。お産婆さんが取り上げてくれて・・・、本当 にこの場所だったのよ」 「昔からこの部屋って決まっていたらしい。不思議と女ばっかりでね。私 はここで座っているけれど、これはたまたまそうなっただけの話で継ぐの は女ってなっている」 「ながこはそのお役目の一人・・・」 「それと、もう一人・・・その人が現れる時・・・」 「この香を使いなさいって、・・熟香って言うんだけどね」 僕には・・・が殆んど聞こえなかった。 「名香って言うんだって・・・・」 何の話をしているのか、私には全くわからなかったし、別世界に話のよう にも思えた。 「ここにいると全然わからない」 「そうなんですよ・・・」 私は言葉がよく聞こえなかったと言いたかった・・・。 「名香は近くでは全く聴こえないものなんですって・・・」 私にはこれも意味不明の言葉だった。 「この聴香もって行きなさい」 手馴れた掌にのる小さな壷をながこにすすめる。 「はい・・・」 答えると、躊躇することなく私の方にそれを持ってきて、これぞとばかり にクリクリとまわして私の正面にそれを置いて横に座る。 「どうして良いのかわからないよ」 「別に作法なんかないのよ。とりあえず嗅いでみたら・・・」 「勇気がいるなぁ〜」 両手で持ちあげると、中にはこんもりと盛り上げた灰がある。微かにその 中心部には炭があるらしく、ほのかに温かい・・・。 「その中に何かあるでしょう。それが香木なのよ・・・、値段の事を言っ ちゃいけないけど数十円から数万円に至るまで・・。いろいろあるのよ。 今日のはその際立った高いものと思えばいいんだと思います」 「嗅いでみます・・・」 私は思い切ってそう答えた。 「それでいいんだよ・・。それでこれで一条さんも喜ぶ」 「一条さんって何ですか?」 「いいや、それでいいんだよそれで・・・」 中途半端な回答のまま、私は大海になげだされた。不思議と落ち着く雰囲 気とこの温かい香りは何なのだろうか?殆んど匂わないと思った。 「どうですか?」 「ほとんど匂わない・・・・」 「そうなんですよ。いいものになればなるほど匂わない・・・近くではね、 でも少し離れるとわかる」 「ここに入る前によくわかったけど・・・」 「そう、そう・・・。女性と同じ・・・。近くにいるとありがたみがわか らない」 「この匂いは前に嗅いだ事がある・・・」 「当然ですよ、当然・・・」 「昔香はは脳裏から離れない」 「どこで嗅いだんだろう?」 「私は知っているんだけど・・・」 「脳裏とか昔香って何?」 「思った通りだった。確かにあの人に違いない」 「ながこはお役に立った?・・・・」 「立ったどころじゃないよ。もしかしたらお前の旦那さんになるかも知れ ないんだよ」 「よかったね・・・」 ながこさんのお母さんも同じように相槌を打つ。 「この香りは○熟香って・・・本当なの?」 「本当だよ・・・。これは昔、高貴な方からのいただきもの・・・」 どうも○熟香のいつも丸のところだけが、聞き取れない。日本語じゃない ように発音している。 「家ではイイナズケにしてもいいんだけど・・・」 「イイナズケって・・・、お嫁さん?」 「そう・・・・」 「これは決まっているかも知れない・・・。そうでないかもしれない」 「ながこは?」 「お父さんやお母さんのおっしゃる通りでいいです」 「異論がない・・・」 「僕はヤエちゃんがいるし・・・。ヤエちゃんがいいと思っている」 「そうなんだよね。昔と同じなんだよ・・・。そんな処が・・・」 「いつの頃・・・」 「ズーと昔・・江戸時代なんかじゃない。一条さんの力を持っていた頃の 話なんだよね」 「その頃は宮家の血筋の濃い頃の話・・・。お香も同じ」 「私の家系は香をとって・・・。いまだにその念願を果たしていない。今 回は今までにない最良な条件が整っている」 「ながこはもう何度も聞きました・・・・」 「ここでは女の子が生まれると、盛大なお祭りをして、先の世を祝う」 「お母さんも喜ばれたのよ」 そのように言われても、私は困る。急にヤエちゃんが心配になって外を見 あげた。いくらなんでももう海からは帰ってきているだろうし、私を絶対 探していると思う。心配になってきた。 「もう、そろそろ僕、帰るよ」 「そうかい、菊ちゃん・・・、もし少しでも思い出したらまたいつでも良 いから来てね。私の家ではとても大切な事なんだからね」 「わかりました・・・、でも今はありません」 今までの一言で本当に大切な一日であった事がよくわかった。それでも私 は何をしたら良いのか具体的にはわからない。 「玄関先まで行きましょう・・・」 子供の私を見送るという・・・。不思議な光景だ。 ハイともいいえとも言えるような立場でもない、ながこさんが立ち上がる と、皆が一緒に立ち上がる。私もそれに若干遅れて立つ。 玄関の戸は引き放たれ、いつしたのか敷石に水溜りもなく、きれいに水が 打たれている。 「どう・・でした?」 ながこさんが私に問う。 「うん、今はとても良い気分です。この香り・・・この香り」 「遠くの方が良いでしょう。昔、これ・・・聞いた」 確かに記憶がある昔の香りだった。 外に出ると世界は全く違っていた。あそこだけ時間が止まっているようで その中にいると、そこだけが自然と私の中に入ってくる。不思議と落ち着 いているのが不思議だった。 「今日はありがとう・・・。ながこはこれでホッとした・・・」 返す言葉がなかった。ながこさんは私をチラッと見るとかわいい仕草で口 元を手で隠した。 「帰らなきゃ・・・」 「本当にありがとうございました」 お母さんも丁寧に頭を下げた。こんな体験をしたこともないので困惑をし てしまった。 ペコリと頭を下げると、もう帰る方向に足を進めた。背に目線を感じなが 少しよろけるかと思うくらいに、足を確保しながら歩いた。 変な一日だった。

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