「花からたち」

[触合袖]

「シズニイもう帰るよ」 「坊主・・・。帰るか俺も帰るぞ。どこだ?」 「直ぐ近く・・・」 「俺ぅんち、直ぐ近くだぜ。鶏一杯いるぞ」 「僕の家もいるよ。卵をとるために飼っている・・・」 「そうか。同業だな・・・」 「ううん。違うよ。自分の家の分だけ・・・」 「そうか、それじゃ来たことないわけだ。知っているかい?」 「オジサンの家知っているよ。お父さんも自分では〆られないから、オジ サンの所に持って行くよ」 「そうかい。じゃ、関係者だな・・・、どこの家かい?」 「向う側に二筋行った縦通りの真ん中くらい」 「あの辺りはいい家ばかりだぜ・・・」 「いいや、道から奥に入った突き当たりの塀のある家・・・」 「ああ、あるある・・・。あそこかぁ。娘がいるよな・・・。可愛いい子 この辺りじゃ見かけないような・・・」 「幸ちゃん・・・」 「幸ちゃんと言うのか?お前も何か女みたいだぞ・・・。全部揃っていれ ば女ばかりだと思うぜ・・・」 「僕は男だい・・」 「オチンチン付いてるか?」 一瞬ドキリ・・・とした・・・。黙ってしまった。 それで話は止まった。 「オジサンところに鶏たくさんいるでしょ。いつもその近くに行く時は草 持って行く・・・。見つからないようにコソッと行ってあげるだよ。怒ら れるかと思ってあまり中まで入らないけど・・・」 「草は大好物だね・・・。採ってきてあげても大丈夫・・・、そろそろ帰 ろう・・・。サザも疲れたろうな」 大きな鳥が傍でジッとしておくのは大変・・・。それでも結構我慢強いの か大人しい。 「行ってもいい?草、採って帰るから・・」 「静雄は?」 「シタキリの兄さん。待っているわぁ」 「ほんじゃ、帰ろ・・・・」 二人は立ち上がった。遠くで鳩がバッと飛び騒ぐ音が聞こえた。 後は静かだった。 シズニイと籠目だけが、その公園の片隅に残された。 道路に出ると、意外に草がないことに気がついた。 「何キョロキョロしてんだい?」 「草がない・・・。母子草・・・」 「鶏は何でも食べるぞ・・・、その辺りの草でも・・・」 それでもなかった。 その公園から真直ぐに上がると、角に小さな社がある。夜になるとパンパ ンガ−ルがたむろしていて、その社が異様な雰囲気になる。夜は出来るだ け通らないようにしている。子供の私には関係ないけれど・・・。 その辺りだとそれらしい草が生えている。 「少し待って・・・」 「おい、おい・・・、待ってられない。後で来なよ・・・、先に帰るから な。ゆっくり採ったらいいぜ」 「うん」 残って探したがなかなか思う草はない。柔らかそうな草を探してみたもの の無理なのが分かった。手当り次第何でも手に掴むと引き抜いた。 持ちこたえられない程小脇に抱えて、オジサンの家の中に入る、中庭には グルリと囲むように鶏舎がある。一番手前にサッキのサザが別に、大きな 家型の鶏舎に居る。傍には他の軍鶏が三匹ほど隔離されたように別々に入 っている。 いつもは隠れるようにして鶏に餌をやっていた。鶏は先を争うように首を 出して食べる。楽しかった・・・。 今日は隠れなくても、知り合いのオジサンになったのだ。堂々と餌もあげ られる。 「ホイッ。あげるよ・・・」 いつも元気のいい奴が前に前に来る。後ろに回されるものはいつも同じだ。 「お前はいい・・・。もう食べただろう。後ろに下がれ。もうあげない」 それでも前に出てくる。これを防ぐ方法はないものか? 少し一杯あげて、その間に後ろの鶏にあげよう。 強い奴は嫌いだ・・・。 私はいつも弱い者の味方だった。腕力もなければそれに勝る能力もないた だ。凡人なのだ。 「こちらであげて・・・。もう一方の手でたくさんあげるよね」 これは確かに効果があった。元気のいい鶏は私の動く手ばかりを見ている。 「それそれ、こっちだよ・・・」 「おい何してんだよ。さっさとあげてしまえよ」 気がつくと、後ろにオジサンが立っていた。 「こいつばかり喰っているよ・・・」 「いいんだよ。どれから喰っていても・・最後は人間が食うのだから・・」 「今度は元気のいい奴から?」 「いいや、太っている奴からだな。良く喰う奴からになるかな・・・」 「ほんじゃ、コイツ?」 「まあ、そうかな・・・」 「安心した・・・」 「最後は一緒だよ」 ああそうだったのだ。ここの鶏はペットじゃない。オジサンもこれで生活 しているのだ。 毎日毎日がこの鳥に餌をあげて大きくして、それを売って生きているのだ。 「何しているんだ。さっさとあげてしまいなよ。俺の家に子供が来るのも 久しぶりだな。アイツが死んでそれから後を追うように自分の子供も死ん で久しく一人だった・・・。あまりいい仕事ではないので後添えも来そう にない。ここで子供と話すのも久しぶりだ」 「オジサン、子供いたの?」 「おお、いたよ。女の子・・・」 「何時ごろ?」 「戦前だったけどな。行方不明・・・。家内が死んでその後分からないの だな・・・これが・・・。俺も居なかったし、探しようがない」 「戦争?」 「そう・・・。親戚もよくわからない。広島あたりにいるらしいのだが、 ピカドンだからな・・・。全く・・・」 「もしかして、そっちに引き取られて・・・」 「その可能性がほとんどなんだよ」 「全然知らない所で運命が決まってしまう。今日だってそうだよ。お前は 男だからそれほど感じないかもしれないけれど、初めて見たときにお前は ちょうど俺の娘と同じだとハッと思った。それに良く俺に話しかけてくる し、言葉の畳み返し方がソックリなんだ・・・」 「オジサン・・・。私は全く知りませんよ」 「まあ。上がってゆっくり茶でも飲めや。そのくらいは出すよ。賞金も入 ってきたし・・・ジュ−スの方がいいか?」 「うん」 お茶はいらないけど、ジュ−スだったら大歓迎。近頃は粉末のジュ−スが 大流行で、大きな袋で売っている。 オジサンの家は半分崩れそうにはなっているものの、上がってみると小奇 麗。スッキリしているなと思えば、ほとんど家具がないのだ。 台所の横に棚があり、ほんの少しの茶碗やコップなどが置いている。 「ちょっと待ってやってな。どこかにあるのだけれど・・・。ここに子供 が来るのはもしかしたら初めてかも知れない・・・」 「オジサン分からなかったらいいよ。もう直ぐ帰るから・・・」 「あった、有った・・・」 男一人の部屋は寂しい。何も無い上にジュ−スを入れるコップだって汚そ うだった。 洗って欲しいって言いたいところだったが、とても言えなかった。 飲んでみるとそれでも美味しかった。 「美味しいィ・・・・」 「そうだろう。そうだろう。本当に良かった・・」 「オジサンの子供はどんな人?」 「そうだね。一言では言えないね。それに戦争前だし、俺の記憶も良いこ とばかり残っているからね。本当はそうじゃないかも知れない」 「奥さんは?」 「こんなところに来る人いないよ。あきらめているし、今はあのサザがい るから寂しくない」 「あの鳥は放し飼いしないの?」 「しないね。アイツが歩くと皆が逃げ惑うし、卵の量が減ってしまう」 「オリの中に入っていると安心だってわかるのかな?」 「そうだってわかるらしいよ」 「どうして僕に話しかけてくるのか分からなかった・・・」 「静雄はよく知っているよ。アイツは半分死にかかっている時でも他に食 べ物をあげていて、私もこそっと卵を持たせてあげたけれど、役にたたな かったなぁ」 「他の人にあげてしまうのだって、お父さん言っていた・・・」 「そうなんだ。だけど養子になってから後、生活も変わってしまった。ち ゃんと学校にいけば三度々々の食事も食べているらしい。そのかわり学校 で悪知恵をもらったのか、困っている人にも分ける事もしなくなった」 「学校ってそんなところ?」 「それに、あそこのオヤジはな。ヤ−さんの息子らしい」 「ふう〜ん」 「どうも私の鶏闘も、その筋に流れているらしい。流す気はないのだけれ ど、必ず十人くらい集まってくる」 「お金数えていた・・・」 「俺は関係ないからな」 どう思ったのか、急は黙りこくってしまった。 「お前の名前は何っていう名前だった?」 「塙」 「塙か山本じゃあないのだな。今一瞬頭をよぎったよ。お前とあの静雄い やに馴々しい。もしかしたら山本の隠れ息子かも知らないってな。少し喋 り過ぎかたもしれない」 「そんな事無い・・・」 「そうだろうな。ちょっと線が細いし・・・。女みたいだし容があの世界 と違う・・・。静雄は変わってしまった・・・」 「山本さんのところはシズニイに連れられて行ったよ」 「どんなところだった?」 「よくわからない・・・。静かだった。お姉さん居た・・・」 「それじゃ全くわからないぞ」 「お前、本当に女みたいだな。そんなに言われないか?」 「女の子の着物貰ったけど・・・」 「そうだろう。そうだろう・・・納得だぁな」 「・・・・」 「鶏はな、皆メスはトサカが小さいから直ぐわかる。オスは皆大きい・・、 見たらすぐ分かるから便利だよ。オス同士でもトサカの大きい奴が強い、 小さい奴はもうダメだから先に喰う事にしている。負けてばかりいるから な。鶏にならなくってよかったなぁ」 「あのシャモはトサカ小さかったよ」 「サザは喧嘩の最中に何度も傷ついて、小さくなったんだよ。だから本当 はもっともっとでかい・・・」 「そんなの見てもわからないよ」 「ところがだな。あの付根の所見てごらん。トコロイモみたいにゴツイだ ろう。あれ見れば他のシャモは振るえあがるのだよ」 「そんなところ見ないよ」 「ところがだな。老練な奴は直ぐそれが分かる。わからない若造だけがガ ムシャラに戦いを挑んでくる。ハイハイって言う感じなのかな。だから首 の毛も全然立たないぞ・・・。今日の一匹目がそうだったろう」 「うん。そうだった・・・」 「男は強いんだ、と言ってもお前は少し様子が違う」 「僕は強くなりたくない・・・。それに喧嘩は苦手。亜紀ちゃんにはいつ も負けてしまうし・・・」 「子供の頃はそうだったよな。一歳の違いはとても大きい」 「亜紀ちゃんは女だよ。でも強い・・・」 「お前のところの可愛い子は?」 「喧嘩しない・・・」 「そうか。女の子でもいろいろいるからな・・・」 「幸ちゃんは優しいよ。僕にも・・・」 「男は引かれるよな・・・。男には無い何かに引かれるのかなぁ」 「ここの鶏は?」 「よくわからない。毎日、餌ばっかり心配しているよな。それに喧嘩かな あ。場所争いみたいな。人間もそうかも知れない」 「女の子の方が争いないみたい。シズニイみたいに強ければいいけど、ど う考えてみても、僕には無理・・・」 「お前みたいに最初からあきらめているのはかわいそうだな。打ち勝って と言う気がないのだから・・・」 「僕は本当は女の子の方が良かった・・・」 「どこかでボタンの掛け忘れしたのかなぁ」 「みんなとずれている・・・」 「ちょっとみたところでも、女の子だよな。それにどう言っていいのか雰 囲気がそのまま・・・。しかも私の娘・・・」 「不思議・・・。そんな事ない」 「この前まで、ここをよく通っていた女の子がその雰囲気をもっていたの に近頃あまり出会わない・・・」 「もしかしたら・・・」 「もしかしたらって・・・」 「トクちゃんかもしれない・・・。久松さん」 「火事になった?・・・」 「この前その事で行ってきたの・・・」 「死んだ子?」 「もしかしたら・・・」 「・・・・」 「そこのお父さんもお母さんも、言っていた・・・」 「自分の子供みたいだって・・・」 「うん・・・」 黙ってしまった。期せずして同じ事を同じ境遇で考えていたのだった。 ジュ−スを飲み切った。 「そこのオバサンがね。トクちゃんの七五三の時の着物を持っていてね。 火事の中からそれだけ持ち出したその着物を僕にくれるんだって、それ着 て写真撮ったよ。袖が半分しかないけれど家に持って帰って、今あるよ」 「写真かぁ。戦争が大変になってきて写真どころじゃなかったなあ」 「欲しかったら、焼増たのんでみます?」 「ああ・・・。本当にそうかい?お願いしたいものだね。本当は直接見た いけどね・・・」 「本当の七五三の時、もしかしたら着るかもしれない・・・かも・・」 「本当かい?・・。ぜひ、声かけてくれよな・・・」 「オジサンはここ一人?」 「一人だよ。女っ気もない。甲斐性もないから後添えもこない、ジジイだ し。俺はサザが唯一の友達さ・・・」 サザは自分の名を聞く度に顔をこっちに向ける。 「オジサンはいつも何してんの?」 「何もしていないよ。朝が来れば起きて飯喰ってだな。コイツ等に餌あげ て、卵を取ったり、忙しい毎日なんじゃな」 「他の人は来るの?」 「ほとんど来ないね。来ても楽しいところじゃないからね・・・。でも誰 かがこの仕事しなければいけないしな。俺は今、生甲斐なのは喧嘩鳥だけ だな。あいつも強いし、俺の望みをかなえてくれる。今日なんぞ最高のな のだよ」 「一日いても誰とも話さない事だってある?」 「そりゃ、大有りだよな。一人だからな」 「僕。時々来ようか?」 「おおそうだな。来てくれよ。俺の娘として・・・」 「女の子?」 「そう、女の子だよ・・・。俺の娘・・・」 「ここだけ・・・、だったら。・・・外は行かないよ」 「それでもいい・・・」 一瞬大変な事になったと思った。でもここだけの冗談だったらいいかとも 思う。してみたいとは思わないけれど幸ちゃんの優雅な動きが自分の目の 前を舞う。 「いいんだよ。それほど重荷になるのだったら・・・、普通で・・・」 「どっちでもいい・・・」 私の優柔不断な言葉がまた出てしまった。 「俺も何もしてない上に歳だけはとってしまう。サザとはもう永いこと一 緒にいるけれど、ここのところ人と本当に話しをしたい・・・」 「また、来るから・・・」 「そうかい。楽しみにしているよ」 「もう帰ろうかな・・・、早く帰る予定だったのに遅くなった」 「悪かったな。俺の家・・・。もう少し綺麗にしておくよ。娘が居た頃は かあちゃんも居て、綺麗だったのに・・・。頑張ってみるか」 「近々、また来ます」 「来てくれよな・・・」 「うん・・・」 何か取り残したような虚脱感におそわれた。 薄暗い路地から外に出ると、ガソリンの煙をモウモウと吐き出しながら目 の前を大きな車が走って行く。ボンネットが剥がれそうにガタガタと唸り 声をあげていた。 「危ないなあ・・・」 急いで帰ろう。今日は一体何と言う日なのだろうか? 家に帰りついて、ただいまと挨拶はしたけれど返事はない。 二階の自分の部屋に帰ったものも、用事もない。 暫くすると、下から声がする。 下に降りて襖の戸を少しあけて 「お母さん・・・、用事?」 声をかけてみた。 「ああ、これッ・・・」 「?」 「トクちゃんの着物の残り・・・」 確かにそうだった。色は元のものより鮮やかに見えた。 「そうだけど・・、これの方が綺麗みたい・・・」 「同じものですよ。お母さんが縫ったものですもの細かいところまで一緒 ・・・、呉服屋さんによくこれが残っていたと思っています」 「端切れなんでしょ・・・」 「そうですよ。普通はすぐに捨ててしまいますけどね。着物の生地は捨て るところがないって言いますから、何かに使おうかと思っていたのかもし れませんね」 「お母さん。直ぐできるの?」 「出来ますよ。二時間もあれば十分ですよ。片袖くらい・・・」 「今?」 「明日中には・・・・」 「忙しい?」 「忙しいよ、そりゃ・・・。でも夜、寝る時間を少し削ってやりましょう か。早く見たいよね」 「はい・・・」 「ところで今日はどこに行っていたの?これが来たので探したのに、どこ にもいなかったよね」 「シズニイと喧嘩鳥見に行っていた・・・」 「あの子、近頃少し荒っぽいのじゃない。あまり近づかない方がいいよ」 「そんな事ないよ。僕にいろいろ教えてくれるんだよ」 「今日は何か役にたったの?」 「・・・・」 軍鶏も面白かったけど、そのオジサンも面白かった。まだ言えない。 「爪に刀付けて戦うんだよ」 「最悪・・・」 お母さんはそれっきり、話を止めた。 私は出来たら呼んでと言って、又二階に上がった。 出来上がったらトクちゃんのお母さんに一度見せに行こうと思っている。 さぞかしビックリするだろう。 二、三日がたった。母は毎日のごとく遅くまで仕事をしている。七五三が 近いからか?やってもやっても終わる事がないのだろう。 きれいに畳紙に入って隅のクケ台の横に置いている。 「お母さん、終わった?」 「ああ、終わったよ。直ぐに終わっていたかど、ちょと急ぎの仕事が入って ね。それでそこにおいたまま忘れていた・・・。ごめんね」 「ううん。ありがとう」 「今日でもトクちゃんのお母さんところに持っていったら・・・」 「そうしようかな。お天気もいいし・・・」 「前の風呂敷も返さないといけないし・・」 「お母さん、行ってきます・・・」 「じゃあ、準備するね・・・」 母は台所の方に行った。何かゴソゴソしているかと思えば、小さな袋包みを 準備して来た。 「何・・これ?」 「卵だよ。家の卵・・・。毎日々々産むものだから、少しづつ余ってくるし ね。でも他の家では貴重品だよね。十円もするし・・・」 「割らさないように持っていくよ」 「うん、わかった」 「うんじゃないでしょう。はいっていわなけりゃ・・・」 「はい」 私は急いでその場を離れたかった。お母さんは言葉にうるさい。あのオジ サンやシズニイは気楽だ。 本当にいいお天気だった。トクちゃんの家に行くのは、あの喧嘩鳥のいる 前を通る。今日は卵も持っているし、今行くのはよそう。 煤けたガラス戸の中に、ケッコ・ココッとたくさんの鶏が鳴いている。透 かして見てもオジサンの姿は見えない。 慣れたつもりの道もまた迷いそうだ。確認しようと思ってもどれも正しい 道のように思われてなおさら迷う。 「困ったなぁ。道わからないよ・・」 暫く歩けば又元の知った道に出くわすだろう。あの大きなハブラシの看板 さえ見つけられれば、全て解決するのだ。 闇雲に歩く・・・。 碁盤の目のように道を縦にも横にも歩く。歩かなければ行き着かないのだ。 初めて見るような場所にも足を踏み込む。 もう、ダメ。疲れた。 近くの人に聞こうと思ったら、目の前にその看板がある。 片手に大きな着物が入った袋。もう片一方には卵が入った袋。小さな子供 がヨロヨロしながら歩いている。 自分で想像しても、かわいそうな様子がわかる。 家の中の暗い廊下を歩く。戸の前に立つと疲れがドッと出た。 ドア−の呼鈴を押すけれど返事がない。 「ああ、ダメか・・・」 思っていると、中から返事が返って来た。 「どなたさん?」 「僕です。菊です」 「あれぇ〜、菊ちゃん・・・。少し待っていてね」 戸の開ける音がしたかと思えば、明るい部屋がサッと広がる。ほのかなお 香に薫りがとろけ出てくる。 相変わらず明るい部屋が際立つ。 「まぶしい・・・。明っかるいィ・・・」 「早く入りなさい・・。戸閉めるよ」 「これ、お母さんから・・・。卵ッ」 「ありがとう。割れるといけないから台所に持っていくね。よく来たね」 「もう、疲れた。歩きっぱなし・・・」 「また迷ったの?」 「そう・・・・」 「帰りは私が最後まで送り届けるよね。近道しないで真直ぐ歩く方法を教 えるから・・・」 「もう・・疲れた・・・」 「ちょっと待ってね。これ置いてくるから・・・」 卵を持って置くの方に行ってしまった。 私は疲れのためクナッとなって壁によっかかって、足を投げ出した。 「あらあら、本当に疲れたのね。トクみたい」 「うん」 どうでもよかった。近頃は一日一回は昼寝をしているためか、やたらと眠 たい。 「寝てもいいよ。そこはかわいそうネ」 「少しだけ、横にならせて・・・」 自分の家のように感じた。 「毛布持ってきてあげるからね」 もう、自分では我慢の限界だった。クラリと天地が逆になったかと思うと 崩れ落ちた。後は記憶がない・・・。 ホコホコと温かい寝床の中で、程なく記憶が戻ったのはそれほど経ってい ないと思った。 柔らかいこの温かさは一体何だろう。目の前と自分の場所が分らなかった。 指で少し触ってみた。 あれ、お母さんと気がついたがそのような訳がない。部屋が違うし、昼寝 はお母さんはしない。それにお母さんにくっ付いて寝たりはしない。 もう一度、今度は手で触ってみた。 ああ、そうだこの前にあった記憶が蘇えった。 それでもこのままでもいいか、と知らないまま寝たふりをする。 激烈な眠りが私を襲う。 「ああ、眠たい・・・、なんて気持ちの良い・・・」 そう思うと、先程よりも深い眠りについた。 「トクちゃん・・。トクちゃん・・・」 半分夢の中から名前を呼ぶ声がする。 私じゃない・・・。 「トクちゃん、そろそろ起きなさい。朝ですよ」 「朝?・・・。今は?」 それでも、私なトクじゃない。 ハタと気づいた。ここはトクちゃんの家だ。私はそこで寝入ってしまっ ていたのだ。 あわてて起きると、その場に正座した。 「オバサン、シッカリ寝てしまった。ごめんなさい・・・」 「いや、私も寝てしまったのよ。気がついたら、この時間になってしま って・・・」 「今、何時?」 「もう五時近いよ・・・」 「大変だ、早く帰らないと・・・この前みたいになってしまう」 「大丈夫よ。私が送っていくから・・・。これ何?」 「ああ、そうだ。それこの前の着物、出来たんだって・・・」 「出来たってどういうこと・・・」 「もう、半袖の分の生地が出てきたんだって、お母さん作ってくれたん だよ」 「トクの着物の半袖が巡り遇うなんて、不思議な事もあるものだね。そ う・・・見せてちょうだいね」 「いいよ。ほれ!」 袋ごと、そこに投げ出した。シッカリ眠っていたものの、手元が外れて 中から衣装袋が踊り出てしまった。 トクのお母さんはユックリ紐を解くと、急に上向いて涙をこらえようと している」 「確かに、そのようね・・・。なんて言う巡りあわせなのでしょう。この 着物が菊ちゃんのお母さんが縫ったなんて考えもしてなかった。トクだっ てこの片袖だけは私に残してくれた形見なのよね。それと菊ちゃんと合え たのも・・・」 「オバサンもう遅くなるから帰らないと・・・」 「ちょっと待ってね。あなたのために準備していたのよ」 「何?」 「これ、着てくれる?」 「セ−タ−?」 「持って帰っていいのよ。黄色のセ−タ−・・・。町中探したのよ・・ ・、トクに着せてみたかった色なのよ」 「いいよ、着ても・・・」 私は汚い木綿の上着を脱いだ。長袖の下着が喜んでいるみたいだった。 「温かいね・・・」 「寒かったら、その上に何か着たらいいよ」 「オバサン凄く温かいよ」 「もう直ぐだしね。このセ−タ−は菊ちゃんに買ってきたのよ」 「貰えるの?」 「そうですよ。私のかわいい子供と一緒。トクちゃんだものね」 「何か僕、着替え人形みたい・・・」 「キュ−ピ−ちゃんよりかわいいわよ」 「もう、早く帰らなけりゃ・・」 「連れて行きますよ。この着物はまたの日まで預かっておきましょうかね」 「そうしてください・・・、また来ます」 「それにしても黄色がよく似合う。きっと誰かに言われると思いますよ」 「派手ッて・・・」 「いいや、そうじゃなくって・・・。それじゃ帰りましょう」 私は手を引かれるように立ち上がった。 外は思いの外に、冷気が地上に降りて来ていた。 「やっぱり、上着着るよ」 「それがいい」 「早く帰ろう・・・」 「外はまだ明るいのね」 「明るい夕日だと黄色がオレンジ色に見える」 「菊ちゃん、もうトクってここでは呼んでいいよね」 「いいですよ。オバサン」 「オバサンも止めて、お母さんにしてくれると嬉しいよ」 「それでも良いよ」 「じゃあ、そうして・・・。道はねここを真直ぐ行って、それから真直 下りるといいのよ。クニャ・クニャ曲がるから分らなくなるのよ」 「そうか、一箇所だけわかればいいのか・・」 「この次来る時はそうしたら良いよね」 ず〜と歩いて行くと長い白い塀に囲まれた大きな家の前まで来た。 「ここの旅館のこの壁を回ると、菊ちゃんの家の通りになるのよ」 確かにここの旅館は記憶している。逆から来ると違うように見える。 「もう分かったよ。来たことある。お母さんもう大丈夫・・・」 私はお母さんと無理をして言った。 その道を真直ぐ海側に向かって下りて行く。 どこもかしこも知っているところばかりになってきた。 下の方から知っている顔が歩いてきた。 「鳥屋さんのオジサンだ。まだ名前しらない」 「どんな関係?」 「シズニイに連れて行ってもらった・・・」 「???」 近づいてくると 「やあ。今日は良い物着ているよ。似合っている」 上着から、派手な黄色が見えるらしい。 「いや、今日このオバサンに貰った・・・」 「ほう、ほう、ほう・・・。これは・・・」 軽い会釈をして又言った。 「ピッタリだよね。ほんと、かわいいなぁ」 「久松って言います」 「ああ、あの子のお母さん・・・」 「?・・・」 「似合いますなぁ〜」 そう言いながら、離れて行った。 「トクちゃん。似合っているって言われたよ。よかったね」 「お母さんありがとう・・・」 「もう直ぐだからね」 「もう解かりますよ。この下ですよ」 「もう、一人で帰れます?」 「うん・・・」 「でも、今日はあなたのお母さんと話をしたいと思っているのよ」 「どんな?」 「あなたのお母さんとは全く関係がないかもしれないですけれど、あの着 物の思い出は沢山あるのですよ。一度ユックリ話をしてみたいと思ってい ますよ。今日は無理かもしれませんけど・・・」 「お母さん、もういいですよ。多分今忙しいと思います。夕飯の支度にか かった頃だと思います」 「そうですよね。考えたら私も晩御飯の支度をしなけらば・・、近頃は惣 菜屋さんが出来てテンプラなどを買ってきてそれで夕飯を済ませる人がい ますから・・・、私もそれしようかしら・・・」 「私のお母さんキライだって言っていましたよ」 「私もキライですよ。でもどうしようも無い時はしょうがないしね」 「アッ。もうここまででいいですよ。もう帰れます」 「今度来るときは、間違いないようにね」 「多分・・・」 「それじゃ、これで・・・・」 「真直ぐ帰ってね」 「はい、わかりました」 サマヨイ歩くだけはなくなりそう。心配だけれども一件落着。 「私は近道して帰ります・・・」 その場で向きを変えて、曲がって帰ってしまった。 もう直ぐだった。角をいつもは曲がって帰るのに今日は反対から真直ぐに 帰る。 「いや、あの子かわいいね。黄色いセ−タ−どこで買ったんだろうね」 「あんたよりかわいいわよ」 街角で立っているパンパンガ−ルの話声が聞こえる。ウエストを必要以上 に太いベルトで締め付けたパステルカラ−のワンピ−スが、異様なほど華 やかに見える。 「僕・・・。かわいいわね。一度お姉ちゃんの所にこない?」 「まだダメ。お金持ってないでしょ」 「お金じゃないのよ」 「いつもお金、お金って言ってたあんた。パ−になったのと違う?」 「あのくらいの子供って素敵」 「あんた、遊んであげたら?」 「いいよ・・・」 私は真っ赤になりながら傍を通り抜けた。 家に帰りつくと、疲れがドッと出てきた。 ドア−を開けてその場に座り込むと余計に疲れが来る。 「ただいまぁ〜」 返事がない・・・。立ち上がるとそのまま自分の部屋に向かった。 「あら、帰っていたの・・。そのセ−タ−どうしたの?」 お母さんはそれに直ぐ気がついて訊ねてきた。 「これ?これはトクちゃんのお母さんに貰った。あの着物もう少し置いて 置きたいんだって・・・」 説明するのが面倒だった。 「そう。それにしても黄色で明るい色ねぇ。素敵な色・・・」 「みんな言うのだよ、秋だと言うのに・・・」 「そう、菜の花みたいに華やか・・・、似合うのね。菊ちゃん?今だった ら菊の花ね」 「僕、疲れたよ・・・」 「何かヘニャヘニャになっているね」 そのまま自分の部屋に直行した。 そうだった、持って行った着物はだれも気がついていない。 夕飯のいつもと変わらない。そのままの時間が過ぎてしまった。 翌日また取りに行けばいいだろう・・・。 次の日もとてもいいお天気だった。家でジッとしているのには辛いくらい の好天気だった。 母には、昨日の着物をトクちゃんのお母さんの所まで取りにいかなければ いけない、と言う話をして出かけた。 昨日の道を逆様に歩いて、天気も良かったこともあったのか簡単にその家 の前まで着いた。 毎日の如くその戸の前まで立つと、呼鈴を鳴らし待った。 今日は今までになく。出てこない。 別に用事もないので、その入り口の玄関で待つ事にした。玄関の脇の植込 に腰をかけて足をバタバタさせながら、スモカの宣伝の目を合わせないよ うに待っていた。 今日も黄色のセ−タ−だった。 気がつくと私の前にトクちゃんのお母さんが立っていた。 「待っていたの?」 「そう・・」 「中に入りましょう。寒いでしょう?」 「寒くは無いけれど・・・」 鍵を財布から取り出しながら、足早に先に進んで行く。 戸を開けると中にスッ〜と入っていく。慣れた手つきだ。 「買い物に行っていたのよ。ここは繁華なところでしょう。その割には日 常の買い物が困るのよね」 独り言をいいながら、大きな袋を下ろして言った。 「昨日、着物を持ってきたのに、ただ疲れてその場で寝てしまって、ごめ んなさい」 「いいのよ。今日、着てみる?」 「いいよ。そのつもり・・」 「今日はね。そのためにいろいろ準備したのよ。それで忙しかった」 「もう、ご飯も食べてきたよ。人様の所に行く時はご飯食べてから行きな さいって言われているから・・・」 「いや、その準備じゃないのよね。今の買い物はそうですけれども、この 前に気ついたのよ。私のところにトクの洋服が全くないって言うこと・・ ・。トクがまた天国から降りてきてくれたんですもの・・・。準備しなけ れば・・・」 「この黄色のセ−タ−」 「そう・・、それもそう」 「どんなの?」 「セ−タ−とか・・・・」 「見せてくれます?」 私はドキドキした。もしかしたらスカートとか、ワンピ−スだったらどう しようと思った。 「これよ。トク用に一箱開けたのよね」 まだほとんど入っていないと言う、タンスの引き手に手を掛けた。 何故か、呼吸も心拍も大きく聞こえた。 「私にとっては、夢の世界なのよ」 中を見てビックリした。中には私の想像を超えた色々なものがきれいに整 理されて入っていた。 「このギンガムのワンピ−スはトクの持っていたのとほとんど同じ・・・」 ピンクと白のチェックが眩しい。 「オバサン・・・。お母さん僕それ着るの?」 「いやだったら、いいのよ無理はしないから・・・」 「・・・・」 「でもね。着てくれたらもっといいけど・・・」 「・・・・、ふ〜ん・・・」 返事は直ぐ出ない・・・。無理だったらって言う言葉が胸に刺さる。 「これはね。少しトクの感じとは違うけど、あなただったらピッタリだと 思うのよ。両方で使えるしね・・・」 綿のズボンを私の前に差し出した。 「その黄色でよく合うでしょう。元々は美容師なんですものファッション が好きなのよ」 「わからないけど・・・」 中途半端な返事をした。私自身がどうしていいのかわからない。 「それだけじゃないのよね。今日はもう一度着物を着てもらおうと思って いるの・・・。それも本格的に・・・」 本格的に?どういう事だろう? 「下着も買ってきたのよ。少し補正もしておきたいのよ」 「オバサン・・・、お母さんそれ女の下着?」 「そうよ。昔は腰巻と襦袢だけだったのよ。今は違うけどね。今はズロ− ス・・・。これ私が作ったのよ。トクにも作ってあげたのよ」 「僕が・・・」 「そう・・・。これをはいてからシミ−ズを着てから、着物ね」 「えッ、全部、女物・・・」 「トクは普通だったのよ。皆、燃やしてしまったけれどね」 「はかなきゃダメ?」 「そうね。私が心をこめて作ったのよ」 「えェ〜・・・」 「なんか嫌?」 「恥ずかしい・・・」 「恥ずかしくなんかないよ。私だってはいているし、今のトクちゃんだっ てはいているでしょう」 「僕のは違う・・・」 「大人のはいている、フンドシよりいいでしょう」 「まぁ・・、そうだけど、はいた事ないし」 「無理にとはいいませんが・・・。これも着るのよ」 トクのお母さんは子供用のシミズを指さした。 私は観念した。 「分かりました。でも向うを向いていて・・・」 「そうしますよ」 私はセ−タ−を脱ぐと、壁の方を向いてバンドを外し始めた。 後ろを向いているお母さんを背にして急いでパンツをずり降ろすと、寒い のかゾクゾクっとした。 小さく縮こまった白の布着れが脳裏に刻み込まれる。 手に取るといつもの男のパンツより柔らかい。ランニングのような生地だ った。女の人はいつもこのような物をはいているのか・・、不思議だった。 それに、前、後ろが分からない。何か印がないものかと探したけれどそれ は全くわからなかった。 「お母さん、、前後ろがわからない・・・」 「そう、それはね前後ろがないのよ。私が作ったズロ−スだものね。どち らからはいてもいいのよ」 「見ないで・・・」 振り向きそうになった、オバサンを牽制しながら、なおも奮闘した。 「形が前後ろ一緒だからいいのよ」 また、声がかかって来た。 「とりあえず、はくね・・・」 私は向うを向いたまま、懸命にはき方もわからないそのものに奮闘した。 「終わったよ・・・」 変なものだった。ブカブカだし変に股の辺りが窮屈なのだ。 「どう?」 「何か気持ち悪い。いつもはいているパンツはサラサラしているけど、こ れはキツイ感じがする。股の辺はおかしい?」 「ゴムひもがキツイのかなぁ?」 「そうかもしれない。でもわからない・・・」 「もう一度脱いでみて・・・。調節するから・・・」 「いつもはここにゴムひもないから・・・」 「そういえばそうよね」 「このままでもいいですよ・・。我慢するから・・・」 「この次には良くしておきます。大体どのくらい?」 近づいてくるなり、私のパンツの中の足の脇から指を入れた。 ゴムの硬さをみているのだ。それでもドキッとした。 「ハハ〜ン。このくらいは普通なんですよ。もっとキツイかと思った」 「パンツと違ってピッチリしている。何か気持ちが悪い・・」 「そんな事ないですよ。慣れれば大丈夫です、いつもそうなのですよ」 もうそれ以上は返事のしようがなかった。 「それにこれを着て・・・」 「こんなの着た事ない」 持ち出したのは子供用のシミズだった。確か二人の姉は着ていたけど、こ のような形だっただろうか?ジッと見つめていた。 「それはね。頭から被るものよ」 「ふ〜ん。見た事あるけれど、何か変?」 「着れば大丈夫よ。ランニングの長いものと思えばいいかな?」 その声に押されるようにして、頭から着てみた。 「違う。違う。ランニングの方がゆったりしてる・・・」 「これもキツイと思うの?」 「キツイ・・・」 「男物って、かなりゆったりしているのね」 「それに変・・・」 「何が変なの?」 「こんなところに花がついている」 「かわいいでしょ」 「・・・・」 私はかわいいとは思わなかった。そのまま私は立ったままだった。 昨日の着物を持ち出してくると、畳紙をパンパンと叩きながら、その赤い 着物を取り出してきた。 「今日はお姉ちゃんもいないし、時間も十分あるし、まずは着てもらいま しょうか」 言うなり、私の手を引いて明るい場所まで引きだしていた。 私はこのような格好のまま、白日の下に立たされている自分に心は動揺し ている。 「本当にトクみたいだね〜」 そう言うと、私の後ろに回って、その着物を肩に掛けた。 「ほんとうに・・・」 本人だけが感心している。 「この肩のナゼ肩といい。うなじ辺りは全くその通りだよ。嬉しい」 何を思い出したのか、私の肩を後ろから抱きしめる。 荒くなった息まで感じるのだ。 ・・・・。 急に思い出したのか、表に回って前をそろえて左、右と揃えて仮紐でキッ と結ぶ。 「子供のは着丈だけだから、ほんと、簡単なのよね。さあ、これから本格 的にパッパとやるわよ」 それからは本当にすばらしいほど手際がよかった。時間もそれほどかかっ てはいない。 終わるとそのまま化粧台のところに連れていった。さっさと化粧を終えた かと思うと、今度は髪を触り出した。どこから持ってきたのかカモジや、 付毛で大きな丸髷をつけた可愛い女の子がそこに座っていた。 「はっきり言って前よりもきれい・・・」 自分で全てやって満足しているのか。その場にペタンと座ったまま動かな い。ジッと私を見つめているのだ。 「トクよりもきれい・・・かもしれない・・・」 そのように言われても私は困るのだ。 それでも悪い気はしないのは何故なのか、私にも理解できない。 「これで本当に七五三にいくの?」 「そうだよ。行く・・・」 「いつ?」 「そうだね。土日は混むからお父さんに一日少し時間を作ってもらって 行きましょうかね。トクは?」 「僕はいつでもいい・・・」 「じゃ、こちらで決めましょうか。最初の一日に行きましょうか?」 「十一月ですね」 「そう。その日の午後っていう事で・・・」 「分かりました。そうしましょう」 「その時まで、お預けね・・・。半分の袖は今私が大切に保管しています が、何かをそれで作ろうと思っているのよ」 「もう脱いでいい?」 「いいですよ。脱がしてあげましょう。汚れるといけませんからね」 と言って前よりも早く着物は取り払われた。 「頭も化粧もね」 と言って手早くきれいになってしました。 「お風呂入る?」 「いいや。熱いお湯沸かしてくれたら、それの方が・・・」 「そう。じゃそうしましょ」 台所の方に行って火をつけたガスの音がした。 「もう少し待っていてね。そうそうパンツのゴムきつくなかったでしょ う普通なのよ、それで・・・」 「あまり感じなかった・・・」 確かにそうだった。忘れていたのだ。 「そうだ、そうだ。忘れていたわ。さっきの黄色のセ−タ−着てみてちょ うだい・・・、そらからっと・・・」 立ち上がってまたタンスの方に行く。 「これスカ−トなの・・・。はいてみる?」 「えっ、これも・・・」 「ええ、買ってきたのよ。ちょうどトクに買ったのと同じ感じのものがあ ったのよ。似合うと思うけど・・・」 「これじゃ〜。女になっちゃうよ」 「そんなことないわよ。別にオチンチン切ったわけでもないし・・・」 私は黙ってしまった。 モジモジしていると、 「さあさあ、トクはお母さんの言う事よく聞いたよね・・・」 もうそのまま押し切られそうになっている。トクちゃんもそうだったのかも しれない。口数も少なかったし、いつも目立たない存在だった。 僕は黙ったまま、うなずいた。 ここだけだからいいか・・・と思えばそれはそれで自分に納得した。 「やっぱり、男の子より女の子の方がいいわよね。いろいろ着る事もでき るし、第一かわいいでしょう。主人では何も面白くないわよね」 自分勝手に話をして、近づいた私にそのゴムについたスカ−トをはかせた。 「イメ−ジ通りだった・・・、久しぶりに本当のトクに会った気がします よ・・・ね。トク・・・」 私な何か分からず、ただうなずいた。トクちゃんが乗り移ったのか? 「ちょっとだけ、抱かせて・・・」 私は黙ったままその座った膝の上に座った。 薄い化粧の匂いが私の右の頬にピッタリと付いた。 両の腕はシッカリと私を抱きしめている。苦しいくらいだった。 どのくらい時間がたったのだろうか? 「ああ、そうだ。この前の写真出来上がっているよ。どれが欲しいか聞き たいのだけれども・・・」 急に緩んだ腕から、逃れることが出来た。 奥の方にまた行ってしまった。私は一体どのような格好になっているのだ ろうか?半分心配だし、もう半分は期待している私にゾクッとした。何故 かわからない冷たさが背筋を一気に駆け抜けて行った。 やっぱり見ようと立ち上がると力が抜けるように立てなくなってその場に へたってしまった。 ネガの袋を嬉しそうにパタパタしながら戻ってきた。 「ほら、これ・・・。トクちゃんでしょう」 白黒の陰影の中に確かにトクちゃんの着物姿がいた。 「トクちゃんに似てる・・・」 「亜紀ちゃんもそれ・・・。可愛く写っているでしょう?」 「本当だ。亜紀ちゃんじゃないみたい」 「持って帰るのどれ・・・にする。焼増しするからね」 「僕のはいらない。亜紀ちゃんのだけでいい」 「二人で写ったのは?」 「恥ずかしいからいらない」 小心者の私と大胆な亜紀ちゃんとは意見が真っ向から離れるのは判ってい る。多分だが絶対にあの壁の下で撮った写真を欲しがるに違いない。 私は亜紀ちゃんには見せたくは無かった。それが小心者を証明している。 「亜紀ちゃんにも聞いてみましょうかね?」 オバサンそれは止めて・・・。 心の中でそう叫んだ。でも声に出しては言えなかった。 「私はこれで、トクの写真だと思って大切にしておきますね。本当にそう だと思えるくらい、トクちゃんだわ」 それはそれでいいと思った。自分の分身が一人歩きし始めたのはこれが最 初かもしれない。それにしてもこの感触は何かが違う。スカスカのスカ− トのしたから冷気が上がってくるのだ。地べたの畳の感触が腿の辺りまで 来て寒い。 「スカ−ト寒いよ・・・」 本当にそう思った。 「そんな事ないわよ。かえって温かい事だってあるんですよ」 「寒いよ・・・」 「ペタンと座るからですよ・・・。そういう座り方ではなくってスカ−ト を巻くようにして座るとズボンなどと同じです」 「こうして・・・」 私は慣れぬ手つきで押えた。 「少し違いますけど、大体そのようですね。格好は・・・」 なるほど少しは温かい。でもいつもはいているズボンよりはかなり寒い。 「やっぱり、ズボンの方がいい・・・」 「トクちゃんみたいだし、もう少しそのままにしていてくれる?」 「いいです・・・」 「他のも着てみる?」 切れた堰のように、私をトクちゃんに見立てて着せ替え人形のようにして いる。それでもいいかと母性の咎に平伏してしまったのだった。 「・・・・」 「これ着てみて・・・」 「そんな色着たことないですよ。パンパンガ−ルみたい・・・」 取り出してきた物は何かわからないけれど、派手な若草色だった。 「こんな色、トクは着ていなかった?」 そういえば、確かに着ていた。あまりファッションに興味もなかった私 でも、その色は確かにあった。 「確かにありましたけれど、今日はこれでいいです」 「これはこの次にしましょうね。楽しみにしていてね」 そうでもなかったけれど、微かに頷いた。 ペタンと座るよりも、スカ−トは足に絡みつくようにはくと何の寒さも 感じない。ただ無様に座るとパンツが見えそうになる。いつもその緊張 の中でこのスカ−トをはいているかと思えば、私には無理なように感じ られた。 「慣れば大丈夫ですよ・・・」 「もう脱いでいい?」 もうこの辺りが限界だった。何か吹っ切れない虚しさが湧いてくる。 「いいですよ。化粧も取らなければいけませんからね」 黙ってみている。私はさっさとスカ−トをずり下ろして上に着ていたも のも脱いだ。 「もとの黄色のセ−タ−着ますか?」 「うん・・・」 「今日は着物を持って帰ってくださいね。それともこの次の七五三まで ここに置いておきましょうか?」 「お母さんも何も言わないので、そのまま置いていて下さい。その時に また来ます」 「一日にね・・・」 「わかりました・・・」 「パンツはきかえしなけりゃ・・・ズロ−スはおかしい・・・」 「パンツはそこに置いています・・」 と言ったまま、ジッとこちらを見ている。 「見ないで・・・」 それでも見ている。 「恥ずかしいよ。後ろ向いてって・・・」 私が後ろを向くより方法がない。後ろから視線を感じる。 「あら、可愛いいお尻・・・。食べちゃいたいくらいよ」 私は慌てた。片一方を抜けないままバランスを失った。 「そのように焦らなくってもよ。食べはしません。安心して・・・」 そうは言っても、何となく恥ずかしい・・・。嘘でもいいから後ろを向 いて欲しい。 「思い出しますよね。トクと一緒によくお風呂に入って、ふざけっこし たこと・・・。お尻食べちゃうよって・・・キャッキャってよく賑やか にしていたのにね。いつもは大人しいトクだったけれど、お風呂の時は 本当に楽しかったのに・・・」 私はその話を聞きながら、半分気持ちだけ急いだ。急げば急ぐほど手先 が絡まる。 「もう、いい?」 「もういいよ」 返事を返した。まだだった・・・。 半分引き上げたパンツはそのまま、素直に納まった。 向きを変えると目の前にオバサンがいる。 「トクちゃんより肌はきれいね。不思議な子だね・・・ほんとに女の子み たいよ。極めが細かいし・・・」 私は急いだ。 「急がなくてもいいですよ。今日は時間もたっぷりあるし・・・寒くない ?」 「少し・・・」 寒くないわけない。今まで裸だったのだ。 「まだ、化粧も落とさなければいけないのよのね。こっちに来なさい」 私は近づいた。 手の届くところに近づくと、座ったままのそのトクちゃんのお母さんは 急に手を伸ばして私を膝の上に抱いたまま座らせた。 「こうしている時間が私にとって、最高の時間だわ・・・。柔らかいく て小さな時のトクと一緒・・・」 私はただ目を白黒させているだけだった。 「それに本当に生きている時にこんなにしておけばよかったと後悔してい るのよ。トクが死んで私は本当に目覚めたのよね。菊ちゃん、ごめんね。 あなたに迷惑をかけているのはよく知っているわ。でもどうしょうもない のよ」 本当は何も分かっていなかった。 「分かっています。お母さん・・・」 知らずと自然に声が出る。 「もう少しこのままにしていていい?」 「うん、いいよ・・・」 温々としたオバサンの「体温」が私に伝染してくる。 「温かい・・・。眠い・・・」 本当にもう我慢が出来ないのだ。 気がつくと、私は一人で毛布に包まっていた。 「しまった!」と思ったけれど、外はまだ十分明るい。 「もう、帰ります・・・」 慌てて起き上がった。支度して直ぐに帰ろうかと思って、半分まだ寝てい る私を奮起させた。 「そのままでは帰れませんよ・・・」 気がつかなかった。自分の顔はまだ薄化粧が残っているのだ。 「すみません。取って下さい・・・」 その場にカタリと座り込んだ。 「そこじゃダメ。鏡のところにこなけりゃ・・・」 急いで直ぐ奥の間に行った。 化粧は手早く取ってくれた。さすがは美容師さんだと思った。 もう特急で外に出た。 街はまだ元気だった。時間も見ず飛び出してきたのを後悔した。空白の時 間がどのくらいだったのか自分でもわからないのだ。 街のお店に掛時計があるが、暗くて見えない。用もないのに時計だけ確か める訳にはいかない。 「おう・・・」 随分遠廻りになるけれど、仕方ない道がわからないのだ。その知らない道 で人に声を掛けられた。振り返って見ると、この前のオジサンだった。 「道が違うじゃないか。黄色のセ−タ−が遠くからよくわかるぞ。格好良 いな。前と違うじゃあないか・・・」 「貰った・・・」 「そうか。貰ったのか・・・」 「オジサン自転車?」 「そうさ、つばめ自転車さ。最新型の黒色してるだろう」 「うん」 「乗せてやろうか。このまま家の前まで連れていってもいいぜ」 「家の自転車、ボロイけど。スポ−クがキラキラしてる」 「おう、乗せてやるぞ。後ろの乗れ!」 「うん」 「ちょっと待てよな。スタンド立ててから乗せてあげるよ」 鳥屋のオジサンどこに行くの?」 「もう、帰り道さ・・・。このまま道を下るだけなんでつまらない思いを していたのさ・・・。ほら、どっこいしょ」 私を軽々と抱えあげて 「子供ってこんなに軽かったかなぁ。覚えていないな・・・」 「サザは元気?」 「ああ元気だよ。あいつは飄々として生きているから、俺とは違う。あい つは殿様だよ」 自転車のスタンドをガッタンと降ろすとお尻に衝撃が伝わる。 「掴まるところがない」 「俺に掴まりなよ・・」 確かに掴まればいいけれど、大きな体のどこに掴まればいいのかわからな い。 「どこ?」 「ジャンバ−のこの辺り・・・」 とポケットのところを引っ張って見せた。 私はポケットの辺りに掴まった。自転車は揺れるし止まったり、走り出し たりする度ごとに大きく揺れる。 次第にそのお尻にしがみ付いた。 「そうだな。それの方が運転し易いよ」 大きなお尻だった。 「昔はな、自転車が重かったけど、新型は軽いよ。音も静かだし・・・」 「オジサン今、何時?」 「まだ早い。三時半かな?」 「ふ〜ん」 「真直ぐ帰るのか?」 「うんにゃ、まだ早い・・・」 「家に来るか?少し寄って行けや?今度は準備しているし」 「何の?」 「着いてからのお楽しみ・・」 「なんかなぁ〜」 「ほんじゃ、スピ−ドだすぞ!」 「凄い、早い・・・」 本当に早い速度だった。何分もかかりそうなところをサッと通り過ぎると もう見慣れた家の前だった。 「ちょっと待ってな。スタンド立ててから降ろすからな。昔のと違ってス タンドが小さくなったから、不安定になったんでな」 それでも重そうに立てると、私を抱き上げて降ろしてくれた。 「なんか、化粧の匂いがする。女みたいだな」 「・・・」 返事をしなかった。さっきの匂いがするのだった。帰ったら直ぐ顔を洗お う。 「先に部屋に入っていいよ。戸も開いていると思う」 何か用事があるのか、部屋の方には向かわないでどっかに行ってしまった。 私はズックを揃えて、上がりこんだ。 部屋は前よりは少し整理されて、飯台の上もきれいにされていた。 黙って待っていると、すぐに帰ってきた。 「やぁ〜、ごめんな・・・。ちょっと用事で・・・」 帰って来ると、新聞紙に包まれた荷物をそのちゃぶ台の上に置いた。 「お腹空いたのと違うのか?焼き芋買ってきたぞ」 そう言えばそうだった。素直に頭を下げた。 「お前のために、洋服買ってきたんだよ。それも女の子用のもの・・・」 よりもよって今日二度目の女物の洋服・・・。もう動揺はしなかった。 「これなんだけど・・・、着てみてくれるかなぁ」 見るとカ−デガンのようだった。 「実はこの前、黄色のセ−タ−を見てから・・・。何か昔の自分の子供を 思い出したんだよ。街に出るとその思い出だ呼覚まされて、居ても立って もいられない気持ちになって、ダメだったらそれはそれでいいと思うよう になった。たいしたお金じゃないし、これで気が晴れるのだったらと買っ てきたよ」 「オジサン、いい色ですね。黄色に合うと思いますよ」 「そうかい、そうかい。嬉しいこと言ってくれるね・・・」 「こうやって、着ればいいのかなぁ」 「うォ〜。着てくれるのかい」 「いいですよ。誰にも言わないで・・・」 「そうか、そうか。ありがとうね。俺の子供がまた復活した・・・うれし い・・・」 手放しで喜んでくれている。何かの縁かもしれない。今日は二回も女の子 の格好をしなければいけない。二度目はあまり抵抗もない。不思議な事だ と思った。 可愛いい刺繍の入ったカ−デガンだった。明らかに女の子の物・・・。 「これどうしたのです?」 「以前に買ったものだった・・・。ついつい可愛い物だから子供のって言 って買ってしまったんだよ。本当は持て余していたものだから、今ホッと している。本当に役に立ったんだ・・・」 私はおどけたつもりでスカ−トを持つような格好をして、クルリと回って 見た・・・・。 もう我慢ができないのか、その姿を見て目蓋に一杯涙をためてもう口もき けない。 「うれしい・・・」 不思議な光景だった。あのゴツイ顔の鋭い目からホロリとこぼれる涙は、 有りえない。 私はただ呆然と立っていた。 「悪かったなぁ。こんな格好をさせて・・・」 「いいえ、いいですよ。私もしてみたかっただけですから・・・、このく らいは簡単ですよ・・・」 本当は心にも無いことだった。 「そうかい。もう満足だよ。ありがとう。無理言ったね」 「何でも着ますよ」 要らない発言だった。でもこれで気が済むのであれば・・。 「サザとばっかり暮らしていたのに、久しぶりに人間と暮らしているよう な気がする・・・。もういいよ・・・」 しっかりと私の姿を見ている。 私は素直に脱いで、きれいに畳み返して差し出した。 「オジサン自転車ありがとう。早く帰れた」 「もう帰るのかい?」 「うん・・・」 「また来れるかい?」 「また来る・・・」 立ち尽くすように仁王立ちになっている。 心配そうだった。オジサンは無理意地をしたのではないかと心配している のかも知れない。そのような事もないけれども、その優しい言葉もかけら れない。 そのまま黙って立ち去った。 玄関に立つと亜紀ちゃんが着物姿で、玄関まで出てきた。 「あれ、亜紀ちゃん・・・。お姉さんみたい」 「お母さんに着せてもらったんよ」 「かわいい・・・でも、少し変?!」 確かに着物姿はかわいいけど、元気が良すぎる。着物は幸ちゃんにピッタ リ・・・亜紀ちゃんには合わない。 「何が変よ。本当に可愛いって言わないとこうだぞ」 つねる仕草を私の目の前でする。 「うん、どうしたの?」 「今度、七五三にいくんだよ」 「いつ?」 「一日」 「そう・・・」 私はドキリとした。同じ日に私もトクちゃんのお母さんと行くと約束した のだ。同じ場所に行くとは限らないからもう少し聞いてみよう。 「飴もらってくるんだよ」 「どこに行くの?」 「山側にある大きな神社。名前は知らない」 大体の所は分かるけど、私も名前は知らない。 「誰と?」 「お父さんとお母さん。幸ちゃんは学校。どうしてもその日しか時間が空 いていないんだって・・・。僕はどうする?」 「行かない・・・」 行く訳ないだろう。私はトクちゃんのお母さんと着物着て行くんだ。少な くても遇わないように願うだけ・・・。 「じゃ、お母さんに言っておくね」 「うん」 話はそれで終わった。 数日後その話も一転二転して、結局はいつでも行ける時となってしまった。 私にはそれがいつなのか全く分からなくなってしまった。 いよいよ当日の朝。私は覚悟をして家には内緒でトクちゃんのお母さんの 家に向かった。 トクちゃんのお母さんもお父さんもお揃いで私を迎えてくれた。 戸を開けると 「今日は迷子にならなかったの?」 と、すぐ声をかけてきた。そう言えば何の事も無く、真直ぐにここまで来 れた様だった。慣れは怖い・・・。 「真直ぐ来れたよ。別に迷わなかった・・・」 「そう。それじゃ、着替えましょうか?」 「うん」 「今日は女の子になってね。できればトクになった気分でいてね。あなた だったらそのままでもいいのだけれど・・・・」 変な気分だった。自分は男の子として生まれて今日だけは女として生きる のは凄く不思議な気がした。 「お父さんは少し散歩に行ってくださいな。これからは女だけの支度があ るのよ。昔みたいにたくさん部屋があるのとは違いますからね」 体よく追い出しにかかっている。 「そうか・・・、一時間くらい行ってくるか」 素直にお父さんは出かけてしまった。 「もう安心。それじゃ、かかるわよ」 温かな部屋の中で、もう見慣れた部屋の襖を見ながら下着を着けた。 「よし、じゃ最初はメ−クから・・・。寒くない?」 私は頷いてちょこん鏡台の前に座った。 「少し変だわね。襦袢を着ましょうかね」 「わかりません」 「こちらにおいで・・・。それからメ−クしましょう」 私は黙って言われる通りにした。 白い襦袢を着せられると、背筋がシャキッとなった。不思議にこれでいい んだと言う気持ちが湧き上がってくる。 「女の子はこの瞬間がとても気持ちが良いのよ。あなたはどうかな?」 「半分わかるような気がする」 そう答えた。事実私の気持ちも高揚してる。 「さあ、行くわよ」 そう、答えると、カタカタ、カタカタと手早く手だけが早く動く。顔の生 え際からうなじに至るまで手早く化粧をする。確か前にはここまでしなか った。今日は特別なのかもしれない。 どこから持って来たのか。カンザシやいろいろな飾り物までそこに揃って いる。 「今日は特別の日。もしかしたらトクも本当に見ているかもしれない」 私もそう思った。場所も時間も違うけれども、あの姿は私の眼底にシッカ リ居座っている。 「僕は今日トクちゃんになるんだよね・・・」 「そうよ。女の子になるのじゃなく、今日はトクちゃん・・・」 「オバサン嬉しいの?」 「オバサンじゃなくってよ。お母さんでしょ・・」 「お母さん・・・」 玄関のドァ−の音がした。 ここのお父さんが帰って来たのだ。 「どうだ?」 「出来ていますよ。やはり、この子は素晴らしい。絶対他の子には負けま んよ」 「そうだな。負ける気がしないよな」 「今日は天気もいいし、いい写真が撮れると思いますよ」 「記念写真もスタジオで撮っておこう・・・」 「最後の準備がまだ少しありますので、少し待っていてくださいね」 「もう、ここにいてもかまわないだろう?」 「いいですよ。沢山準備したので飾り付けが楽しい・・」 僕は黙っていた。 鏡の中の自分が自分で無いような錯覚を起こす。 あれは自分じゃない。他の生物のような感覚をがある。少しは可愛いかな とは思っている。 「もう少しですよ・・・」 「バイク呼んでこようか?」 「いいですね」 近頃はリンタクから、それに原動機をつけて街中を爆音をあげて走りまわ っている。元気がいいだけに賑やかだ。私は乗った事がない。いつかは乗 ってみたいと思っていた。リンタクとは比べようにならないほど早い。 「早く、早く・・・」 「何が・・・」 僕は聞きただした。 「もう、上手くできない。この前は上手くいったのに・・・」 私は十分きれいになっていると思っている。 「どうしても上手くできない・・・」 外でガチャガチャと大きな音がしたかと思うとブレ−キの音がする。 ああ、来たのだ。 「バイク連れてきたよ。直ぐ乗れる?」 ここのお父さんが言う。 「まだできないの、少しだけ待っていてくれる?」 「話してくるね」 「少しだけだったら良いって言っているよ」 「わかった」 もういいのに、どこにこだわっているのだろうか? 「早く、早く・・・」 「何が・・・」 僕は聞きただした。 「もう、上手くできない。この前は上手くいったのに・・・」 私は十分きれいになっていると思っている。 「どうしても上手くできない・・・」 外でガチャガチャと大きな音がしたかと思うとブレ−キの音がする。 ああ、来たのだ。 「バイク連れてきたよ。直ぐ乗れる?」 ここのお父さんが言う。 「まだできないの、少しだけ待っていてくれる?」 「話してくるね」 「少しだけだったら良いって言っているよ」 「わかった」 もういいのに、どこにこだわっているのだろうか? お父さんもイライラしているのが手にとるように分かる。 「もういいから、行くぞ!」 荒げた声がドァ−の方から聞こえた。今まで聞こえていたエンジン音も止 まってしまった。 「何してんだ。行くぞ」 僕はもう気が気じゃなかった。 「お母さん、もういいよ。出ようよ」 「はい・・・」 と、言ってやっと手を止めた。 玄関のドァ−は暗い。それでも電気をつけると、今まで見たこともない程 明るくなった。狭い所でオジョジョを履かせてもらうと飛び出すように二 人は玄関の鍵を掛けて外を出た。 「私はこれでいいかしら?」 お父さんに、自分の格好を聞き正している。 「いいよ。それで・・・」 軽くあしらうように言い放つ。 「さあ、お乗りください」 運転手に促されるように二人はそれに乗る。 「七五三ですか?」 「そうです。さあ、お母さん先に乗って・・・」 上手に裾をさばきながら乗る。 「久しぶりだな。今度はトクだよ・・・」 私は始めての乗り物に緊張した。お父さんは軽々と私を抱えあげると、中 にいるお母さんに渡した。 七三に分けた髪のポマ−ドの匂いから、芳しいホンノリとした白粉の匂い が、私の脳を洗脳した。 私は白粉がいい。 単純にそう思った。 お父さんが乗り込むと、自転車のペダルを二、三度漕ぐとけたたましい爆 音がして、エンジンに火がついた。 山側の神社は坂道が多い。それでも自転車と違って坂になるほど勢いが増 す。二人の間に入っていても振り落とされそうになる。 「初めてかい?」 「そう、初めて乗ったの・・・」 「お嬢ちゃん、初めてかい?」 バイクの運転手が聞く? 「そうなんですよ。この娘・・・」 「もう安心ですよね。三歳までが大きな節目ですから、もう五歳くらいで しょう?」 「・・・・」 無情にもこのお母さんは自分の子供じゃない。それも七歳を迎える寸前に 不慮の事故で亡くしたのだ。 運転手は続けて言う。 「幸せそうですな。家にも居ますけどね。金が無いからろくな事も出来や しない。ガラクタ息子達ばかりですワ」 かわいそうに、身に茨を巻きつけられているようだろう・・・。 それに私の間に割り込む様に容赦なく言葉の絨毯爆撃が始まる。 夫婦は黙って聞いている。 私にはとてもトクちゃんのことが思い出されて不憫でしょうがない。それ でも黙って聞いている夫婦がかわいそう。 そのバイクから降りると、解き放されるように気が楽になった。 「さあ、行きましょう。とりあえずは一番上まで・・・」 「歩けるかい?」 「うん・・・」 私は消え入るような声で言った。今日は女の子なのだ。バレないようにし なけらば・・・。 「本当にわからないね。声だって女の子のようだね。絶対わからないよ。 それどころかこの辺りの女の子よりも可愛い・・・」 「そう思いますよ。だって私の腕もいいのですもの・・・」 「そうだよね。お前は元プロなのだものな・・・」 「美容はお任せくださいな・・・」 それほどの人はいなかったが、七五三のシ−ズンに突入した日にしては少 し多いような気がした。いつもはほとんど人が歩いていないのだ。 「チラリホラリだな。ちょうどいいくらいの人影だぞ」 「そうですね。多いと困りますし・・・」 「いや、私は構わん・・・」 「この子可愛いですからね。ズ〜と勝っていますし・・・」 勝っているって?私が・・・・。 一瞬喜んでいいのか、悲しんでいいのかわからなくなった。 いやいや、今日こそは娘でいよう。それが今日の役目・・・。 神社の階段は急だ。それでもオジョジョが抜けないように注意してゆっく りと歩く。両手を二人に手をとられたまま歩く私は気楽だ。足元の履物が 抜けないようにさえしておけばいいのだ。 「知っている人、いるかい?」 「今のところ、いませんね」 「トクは?」 「いない・・・」 私は答えた。 不思議に普通に答えたのにも関わらず、直ぐ傍を歩いている人は気がつか ない。私が本当に男の子である事に気がつかないのだろうか? トクちゃんのお母さんが言っているように本当に勝っているのだろか? 「知っている人いても別にかまわんけどね。ただ塙さんのご家族だったら 分かるだろうね。知っていないのだろう?」 「別に話してはいませんけど、トクの晴れ着を持って帰った時でも好意的 でしたし、半分は知っていると思いますよ」 「トクはどうでした?」 「知っていないと思う」 本当は全く話題にもならなかったし、その感じもない。今日亜紀ちゃんが この場にいたらどうしようか、不安だ。 階段を上がりきると本殿が正面に見える。いつもと同じ様に左の清め水で 手を清めた。不浄なこの男の似非七五三の参加を神様はどんな感じで見て いるのだろうか? それを思うとなんとなく背中に寒いものを感じた。 こんなもので清められるわけがない。それでも気休めに過ぎないかもしれ ない。 チャラチャラと滴り落ちる水は、私の心と違って清浄なのだ。 「亜紀ちゃんは今日来ないと思います」 朝の具合だとだれもそれの話もしなかったし、そのような素振りも見せな かった。太鼓判だと思っている。そうで無ければ私はこのように落ち着い て話もできないだろう。 だけども誰か知っている人に会うかも知れない。その時は黙っていれば分 からないだろう。 神社のガラガラを鳴らして、手を叩いて無事に今日の役目を終える。 「お祓いしてもらおう・・・」 「そうね・・・」 前から決まっていたのか、黙ってお父さんとお母さんに従う。 右の社務所で受付をして、その社務所の右からその本殿の中に入る。長い 祝詞の後に大きな祓串でバサッバサッと頭に被るように払う。 厳かではあるものの、私には全くわからない。暗い抹香くさい場所を出る と外はおもいきり明るい。 「これからね。千歳飴もらうのだよ・・・」 お母さんがそう言う。 ダラダラと集団のまま一列に並んで出て行くと、向うの方から一人づつ何 かをもらっている。私の前までくるとその係りの人は 「はい、お嬢ちゃん。千歳飴・・・」 と言って私に手渡ししてくれた。 長い紙の下より半分くらいに何かが入っている。その割には大きな袋だな と思った。 元の社務所の脇から板階段を下りると、下は玉砂利。少しは歩き慣れたオ ジョジョもこの玉砂利は歩き難い。 「お疲れさんでした。もう終わりだよ。これから街に出て食事をするか、 何かをして帰りましょう」 私の大役もそろそろ終わりそうだ。 真直ぐ前に来た道を帰るのかと思えば、向うの方に引っ張って行く。 「来た階段を下りないの?」 私はできるだけ出してはいけない声を出した。 「帰りはね、女坂を帰る慣わしになっているのだよ。少しなだらかな坂道 なのだよね」 来る時に手を清めたその後ろを回り込むと普通の道に出る。その鳥居をく ぐるともう民家がすぐ傍に迫る。皆がその道をダラダラと歩く。 道に沿って歩くと元の階段の入り口の下に出る。これは確かに簡単だと思 った。振り返ると急な階段に赤いオベベを着た、たくさんな人が昇って行 く。 漠然と見ている一番上に見覚えのある着物が見えたような気がした。それ っきり私の視界から消えた。 もしかしたらとは思ったけども、今は知らないのが一番。私は口を噤んで しまった。もう過ぎ去った過去だった。 亜紀ちゃんの着物は確かに見間違いするはずはない。心臓が急にドキドキ と音を立て始めた。 「近頃アイスキャンデ−じゃなく。アイスクリ−ムと言うものがあるらし いけど、お父さん連れて行ってくれる?」 「昔からあったよ。ただあまりこの辺りでは食べた事ないね。アイスクリ ンって聞いた事ないかい?」 「ある、ある・・・。でも食べた事ない・・・」 「トクちゃんはどうだい?」 「ない・・・」 私はそれどころじゃなかった。早鐘を落ち着かせるために神社の下手の方 ばかり目をやった。 「ないのであったら、今から食べに行こうよ」 「嬉しい・・・」 「ちょっと高級なレストランに入って見るか・・・な」 「そこでアイスクリ−ム・・・・」 「じゃ・・、行こう」 急に弾みのついた歩測でその女坂を駆け下りるように下ると、一つの橋に たどり着く。狭くなった橋を渡りながら、後ろを振り返ると神社に参道の 一番上の大杉が全てを包みかえすように、森のように見えた。 もう、大丈夫・・・・。 ホッとすると足の親指の間が痛いのが分かった。 無理することない。ユックリ歩こう。そう思うと 「あれどうしたの、トクちゃん?」 「足痛い・・・」 「そりゃそうよね。いつもはいていないオジョジョだものね」 「おんぶしていこうか?」 「お父さん、行こうか?じゃなくてしてあげなさいよ。トクの時もそうで したよね。確か・・・」 「そうだ。そうだ。思い出したぞ」 「私がオジョジョと千歳飴持ちますよ」 「そうしてくれるかい?」 私も黙って頷いた。 お母さんに抱えあげられると、景色が一変した。大人は皆このような高さ で見ているのだろうか。 大きな背中にしがみつくともう安心だった。 足の痛みからも直ぐに解放されて、風がさわやかにタビの間から流れ込ん できた。 手に待っていた大きな邪魔な千歳飴もなくなるともう、空を飛んでいるよ うな軽快な気分だった。 気が緩むと急に眠たくなってきた。背中の温かさがまた無上の眠気を誘う、 もういいかと思うと睡眠の内に入ってしまった。 「トクちゃん・・。トクちゃん」 優しい声がしたかと思うと、私は前後を取り乱した。 「ここ、どこ?」 「レストランに入ったところよ」 少し暗いけれど、キラキラと光るガラスが眩しい。 「どこに座るかい?」 どこも空いていて、外人の家族が一家族いるだけだった。 少し薄暗いけれど何となく落ち着いた雰囲気だった。外人向けの静かな音 楽が流れ、いつも派手なトランペットやドラムの音が流れるキャバレ−と は全く無縁の世界だった。 「いいところねぇ・・・」 「アメ公だって、こんな人もいるんだよな・・・」 「違う世界ね・・・」 ウエイタ−がしゃれた白のジャケットを着こなして、近づいて来た。 私達はキラキラの反射するクリスタルシャンデリアの真下に座った。 「ようこそ、メニュ−を・・・」 彼はそれを開きながら、お父さんの前に置いて去った。 「いろいろあるけれど、どれにする?」 「トクちゃんは?バニラ・イチゴ・チョコレ−ト・・・」 「イチゴ・・・」 バニラって何だろうと思った。でもそれを言う勇気がなかった。 決まらなかった。彼は私を無視して・・。 「はい、承知いたしました。暫くお待ちください」 腕に白いナプキンを掛けた。少し長身のウエイタ−は去っていった。 「あそこの外人さん。いつもの人達と違うね」 「ああ、あれは将校だね。どこの世界でも同じだよ。一般の兵隊は少し荒 れているのが当たり前。近頃またお隣の国でうるさくなってきているから ね・・・。おかげさんで日本は好景気。助かっているって言っていいのか いやになるね」 ウエイタ−がまたやって来た。 夫婦は何にするかの相談も無しに 「イチゴのアイスクリ−ム・・・」 とお母さんが言った。 お父さんは黙って、頷いた。 「きれいなところですね・・・」 「昔、よく使ったものだよね。あの人も昔のまま、でも昔と違うね。もっ と華やかだったような気がする」 「お客さん少ないし・・・」 「それにもっと若く、キリッとしていたね」 「何食べていたの?」 「ペキンダックとかフカひれのス−プだとか」 「今と大違い・・」 「その頃はそのように思っていなかったけれど、楽しい食事じゃなかった よね」 「今のアイスクリ−ムと違うよね」 「同じだよ・・・。あの人も・・・」 「知っているかしら・・・」 「知っているよ。でも話さないだろうな」 その話をしている後ろから、話かけてくる人がいる。先程から静かに食事 をしている外人さんだった。 「すみません。食事の最中。この子の写真を撮りたいのですが・・・」 私はドキッとした。 私は女の子じゃあない。 それは流暢な日本語だった。 「何に使うのですか?」 「いいえ、何にと言うわけではありません。日本のお嬢ちゃんとてもかわ いいので、ついつい・・・」 「ここで?」 「いいえ、できれば外で・・・」 「どうする?」 「いいわよ・・・トクは?」 私は黙って頷いた。 「お店の人が心配するので、私だけ残りますわ。どうぞ・・・」 「お前、行けよ。俺が待っているよ」 「トク、急いでいきましょう。アイスクリ−ムが来る前に・・・」 私は急きたてられるようにその大きな椅子から滑り下りた。 外に出ると、外人さんは私とお母さんを並べパシャとシャッタ−を落とし た。次は私一人を立たせてそれを二度ほどボタンの音をさせると深々と頭 を下げて礼を言った。 何か偽物の女の子を写真に撮っているわけで、半分罪悪感がして変な感じ だった。 元の席に着くともうアイスクリ−ムが来ていた。 「平べったいガラスなんですね」 「そう、これの方が融けづらい・・・・」 「食べよう・・・」 「戴きます・・・」 声を揃えて、スプ−ンを持った。角張った四角のスプ−ンだった。こんな もの見たこともない。 口の中に入れると、とろけるようなと言う表現通り、本当に直ぐにとろけ た。 「このウエハ−スは?」 「私も知らない・・・、でも昔から付いてくるね」 「どうして食べるのかしら?」 「かわりばんこに食べるらしいよ」 私は話だけ聞いていた。 ガラスの器は不安定だったし、食べづらかった。それでも今まで食べた中 では右にでるものがない程おいしかった。 「おいしいね〜」 口の中に入れるととろけてそれがフワッといい香りのする。鼻までそのい い香りが到達するのがわかった。 近くでガタッと音がして、外人さんが出て行く。私に笑顔を向けて 「かわいい子ですね」 ともう一度私に声をかけてくれた。私はすくんでしまうと余計にその外人 さんは大きな赤い顔をクチャクチャにして、笑顔を畳み返してくれた。 とても恥ずかしかった。 「あの外人さん、目が高いね」 「そうねぇ〜」 「世界共通なんでしょうね・・・」 「そうだね・・・」 私はこぼさないように、注意して最後の一匙を口に運んで、ホッとした。 「おいしかった。アイスキャンディと違う・・・。シャキシャキしていな いし、柔らかかった・・・」 レストランの中は誰もいない。静かな天井に響いて声がこもった。 「お母さんは食べたのかい?」 「ええ、おいしかったわ。これからどうします?」 「そうだね。これから写真館に行って写真を撮るのだよ」 「記念撮影・・・。あのトクの写真も・・・・」 「お母さんそれは言わないって言う約束だよ」 「そうでした。そうでした・・・。今日が初めてなんですよね」 「もう、この日しかないのだよね。だいぶ待っただろうね」 「いいえ。私はトクちゃんが居れば幸せ・・・」 私の顔をノゾキ込む。目には涙が一杯だった。 「さあ、そろそろ出ようかな〜」 お父さんが立ち上がると、私は慌てて椅子から転げ落ちた。 「着物なんだからな、注意して動かなきゃ危ないよ」 「そうよね。女の人は振りや裾を絶えず注意しておかないと、直ぐにダメ にしてしまうのよ・・・わかった?」 本当にそう思った。いつもの動きとは違うのだとは思ってはいても、つい つい急ぐ時は気をつけなければいけないのだ。 黙ってしまった。その通りだったのだ。 「あさ、行きましょう」 「そこは混んでいるときは大変だからな〜。今日は平日だからそれほどで はないとは思うけど・・・」 「大丈夫だと思いますけど・・・」 場所は直ぐ近くだった。 写真館の看板の出ている玄関から、土足で歩ける階段を上がる左右にそこ で撮られた写真が飾られている。皆がほとんど無表情なツルリとした顔を している。少し暗い。 受付を通ると、三階まで案内されて待つことになった。 他にも数家族そこで待っていた。何もすることがないのでお互いに時間を もてあそんでいたし、ボ−としている人もいた。 今、入ったばかりだから時間がかかるのは分かっていた。 「暗いね。何か・・・」 「そうだね、今日は平日だのに混んでいるね」 「土日だったらもっと大変でしょうね」 「前、そうだったよね・・・」 「それは無い事でしょう・・・」 「ああ、そうだった・・・。ごめん、ごめん」 「私、ご不浄に行って来ます・・・」 「いいよ、どうぞ・・・」 そう言って、行ってしまった。行ってしまった後に私も急に行きたくなっ た。冷たいものを食べたせいか、我慢ができないほどでは無いにしても、 これから写真を撮るのにも、ちょうど調整するのには良い時間だった。 お母さんが帰ってくると直ぐに 「僕も・・・」 と言った。 「連れて行ってあげるわよ」 と言われてドキリとした。女便所など行ったこともない。お母さんはそん な事にお構いもなしに私の手を引く。 二階の撮影室の入口の脇に便所と書かれた戸がある。 引くと中は結構広いが少し暗い。小窓が高い位置についているだけで、天 井には小さな裸電球がついている。床はタイル張りでこれも暗い。 先客が一人待っていた。誰か中にいるのだ。 「今誰か入っているみたいね。少し待っててね」 ガタガタと音はすれども、中々出てこない。 「何かあったのかな?」 お母さんは心配して様子をうかがう。 出る気配がしてから、出てきた人を見て仰天してしまった。 まぎれもしない亜紀ちゃんだった。私はとっさに顔をあらぬ方に向けてい た。お母さんも「あら・・・」と言ったまま、黙った。 亜紀ちゃんは全く気づかず、私達の方に近づいてくる。クルリと向きを変 えると手洗いの水道に手をかざすようにして、直ぐに逃げ出るようにして 出て行った。 私はお母さんに小さな声で言った。 「判らなかったのかなぁ〜、亜紀ちゃん・・・」 「分からなかったのでしょう。急いでいたし、一人でご不浄に来た事だけ でも立派よ。振りのある着物でしょう。子供はとても大変なのよ。今度は あなたの番よ」 「着物を着ていたので私の袖を触って行ったよ」 「それでも分からないのよね。気が動転しているのよ。裾をまくしあげて パンツを下ろして用をたすのよ」 「オシッコ行きたい・・・」 待っていればいるほど、私の頭の中はそれで一杯になる。 今度こそ私の番なのだ。 戸が開くと、直ぐに入り込んだ。そとも暗かったけれども、中はそれ以上 に暗い。 「お振りを帯に挟むのよ・・・そうしたらこうして・・・」 と無造作に裾をめくりあげる。 「寒い・・・」 本当に寒かった。 無造作にパンツをずり降ろす。 「あっ、無いっ」 と言ったまま一度は止まった手で、黙ってそのパンツを全部脱がしてしま った。私はそのままそこに居た。 急に正気を取り戻したお母さんは、たくし上げた裾を持ったまま私を便器 の方に行くように勧める。満水を湛えた私の膀胱から勢いよく暗い奈落に 落ちて行く。 「菊ちゃん、昔から・・・」 「何が?」 「オチンチン・・・」 「何が???」 「昔から小さいの?」 「ううん。そのまま・・・」 「あんた、女の子?」 「うんにゅあ。男の子って病院の先生言っていたよ・・・」 「そうぅ〜・・・」 向きを変えてお母さんを見ると、目線は私の下に向かう。 「パンツゥ・・・」 そう言うと俄かに正気を取り戻したように、前後を見立てて私の前にそれ を差し出した。お母さんが座り込むと私は両の肩に手をかけてそのパンツ に、左右と足をつきこんだ。自然な親子のようであった。 はきこむと直ぐに上げてくれると、正直ホッとした。 「亜紀ちゃん分かったかなぁ〜。心配だぁ」 「分からないと思いますよ。あんなに急いでいたのですものね。何かご不 浄であったのですよ」 「私の袖、触っていった・・・」 「それでも多分わからないと思いますよ」 「亜紀ちゃん、ちょっとパ−の事あるんだよね」 「いや、シッカリしていますよ」 便所のカンヌキを空けると、もう私の次の人が便所の前待っていた。 「お待たせいたしました」 私は黙ってすり抜けるようにして通った。本当に誰も気がつかないのが不 思議だった。 元の所に戻るとお父さんはタバコをくゆらせながら、膝に置いた手持ちの 鳥打帽の凹みを持ったまま、時間を持て余してていた。 「混んでいたのかい?」 それには答えずに 「亜紀ちゃんが居たんです・・・」 「便所にかい?」 「すれ違いで・・・。私も気づかなかったのですが、菊ちゃんが気がつい て・・・」 「トクがねぇ・・・」 言い直して、私を見返した。 私は返事をせずに、あごだけ縦に振った。 その時に私達の前にいた組がスタジオの方に呼ばれて行った。 これで完全に亜紀ちゃん達には会わないで済むだろうとホッとした。 もう後は待つだけの時間があるだけだった。 辺りを見回すと、いつもと違う着飾った子供達とチョットおつに棲ました 大人達が、それぞれが場所を決めて落ち着かなそうにいる。 自然に耳だけが鋭利になって行く。 「あの子、男の子・・・」 と、言う声が聞こえて来た。 もしかしたら、私の事???・・・。 余計に耳だけが鋭くなっていく。 「女の子みたいだね。瓜実顔だし・・・。公達みたいだね・・・」 いよいよ心配になってきた。 私の事だッ、と思うと顔が急に真っ赤になってきた。 今までは寒いと思ってきたのに、何故か熱くて仕方が無い。 なおも注意して、耳だけが大きくなってきた。 「女の子だったらかわいいだろうに・・・」 エッなんだって、もしかしたら男の子?そのまま慌てて該当する子供の顔 を目だけでを探した。 向うの隅に上下のス−ツを着た男の子がいる。明らかにヨソイキの着なれ ない洋服が不自然。顔は暗くてよくわからない。 お父さんとお母さんには聞こえないのか、関心がないのか知らない顔をし ている。 暫くするといよいよ呼び出しの声がかかった。 部屋の中はこじんまりとした部屋で暖炉のような場所が薄暗い中に見えた。 「そちらに立って下さい」 言われるままに立つと、ごちゃごちゃとした撮影機材が正面に見えた。 大きな三脚に袋を被せたカメラがこちらをうかがっている。 「少しで終わりますからね。お嬢ちゃんここ見てね、いいですか?」 と言ったままガサガサと何かしている。 皆も黙っている。 「はい、すぐ終わりますからね。ここみてね・・・。ここ・・・」 と言った瞬間にボハ〜と青い閃光が走った。煙も白く立ち昇った。 目まいがするほど強い光だった。 「もう一枚撮りますからね」 薄暗いところから声だけが聞こえてくる。声がこもって変なのだ。 ガシャというかバッというか、異様な音がしてその全てが終わった。 外に出る扉のすぐ傍に受付のオバサンが居て、その事務引継ぎをそしてい た。 「可愛いいお嬢ちゃんねぇ」 「ありがとう、ございます。いくらになりますか?」 お父さんはそれに答えたがお母さんと私は返事もせずに、お母さんとその 場を立ち去った。 外に出ると 「いやね。あのとって付けたようなお世辞は・・・、お父さん早く出てこ ないかしらね」 私は久々に本当の太陽光線が一階の方から差し込んでいるのを見て、ホッ としている。 お父さんが出てくると 「確かに、塙さんが名簿に書いてあった。ちよっと前だったのでよかった よね」 「遇わなかってよかったね」 私は確かに遇ったのに・・・、多分分かっていないだろう・・・。 「もう急いで帰ろうよね。着替えもあるし・・・」 本当にそうだった。今日一日は夢のような一日だった。一生忘れることは 無いだろう。 家に帰るともう凄い速さでバラバラと解きほぐし、自由の身となった。足 の足袋をとるとス−ス−と涼しい風が指間に入る。 「さあ、顔を洗いにいこうね」 台所に行くと、私にしっかり目を閉じておくようにと言われ、私もそれに 従った。タオルが顔に当てられると雫がふき取られる度毎にさわやかな母 の薫風が匂袋から私を覆う。 「気持ちいい・・・」 「そうでしょう。そうでしょう・・・」 いや、いや、そうではなくて優しい香りなのだ・・・・。 「さ、これで終わり。急いでお洋服を着ましょうね」 本当のお母さんよりいいなと思った。 「今日はありがとうね。本当に楽しい時間だったよ」 「トクが小さい頃を本当に思い出させてくれてありがとう。これ帰りなが ら食べて頂戴・・・」 どこで買ってきたのか。新聞紙に包まれた小さなどら焼きだった。 「もう、遅くなるから帰る」 私はそっけなく言い放ったが、気持ちよく返事が返ってきた。 「私がその辺まで送りますよ」 「いいです。何度か来ていますから帰れます」 そのまま、外に出た。暗い廊下の向うに例の歯磨きの看板が見える。でき るだけそれを見ないように急ぎ足で出る。 今日はまだ明るい・・・。少し冒険してもう一つ前から回り道をしてみよ うと思った。道を辿ると意外と簡単だった。家にも予定以上に早く帰り着 いたように思う。 玄関を入ると、さっきまで歩いたであろう赤い鼻緒の子供草履が歩いて入 ったままの形で、散らかっている。

次のペ−ジへ

表紙(表題部)へ