「花からたち」
[片袖]
「私達の父や母は明治時代ですからね。その父母はもう江戸時代です。と
ても遠い時代のように考えていますけれど、私達子供の頃はあのお爺さん
とかおばあちゃんはみんな江戸時代・・・、そのように遠くはない」
「そうですよ。今蔵にあるほとんどが江戸時代のものですよ」
「あの翡翠はどのくらい昔のでしょうかね〜」
「わかりません。でも近年のものではありませんね」
「女性の持ち物は凄いですね。良いものは何代にも渡って使うものですか
ら、女の執念が宿っているのかもしれません」
「着物も何代も着ますし・・・」
「ああ。そうでした!忘れていました。トクの七五三の晴れ着もういいそ
うです。差し上げますのでお忘れにならないように・・・」
「うれしい・・・」
「亜紀ちゃん。うれしいの?一度、私の家に遊びにいらっしゃい」
ちょっと男勝りの亜紀ちゃんでも、晴れ着は違うらしい。
「行きます。行きます・・・」
「それじゃ、来週に来たら良いですよ。亜紀ちゃん待っていますよ」
口数の少ない久松さんの奥さんが話しをした。
「場所はお父さんが知っているからね。詳しく教えてあげるよ」
法事の会食も滞る事なく終り、皆が帰途についた。
家に帰りつくと亜紀ちゃんは今日一日を一気に話し始めた。それに引換え
菊はほとんど話さなかった。そのユトリが全くないほど亜紀は喋り続けた
のだ。
「それで、お父さんトクちゃんのお家教えて・・・」
女の子は、キッチリ話しを詰めてくる。
「ああ、わかったよ」
丁寧に場所を説明して、その部屋の玄関までの雰囲気まで話しをした。
私としても知りうる限りの話しをしたつもりだった。
「明日、行ってみるよ」
大胆な娘なのに、慎重だった。
翌日会社から帰って来ると、待ち構えたように亜紀ちゃんが話しかけて来
た。
「お父さんあそこの廊下暗いね。もう少し明るい方がいいよ。近頃蛍光灯
と言うのがあって、ピカピカとしてメチャクチャに明るい電気があるよ」
「知っているよ。でも一本が高い」
「幸ちゃんが言っていたよ。あまり切れないんだって、永久に使える電球
なんだって言っていたよ」
「見たのは見たけど、あんな廊下に使うと盗られないかなぁ・・・」
「絶対明るい方がいいよ」
傍から、菊ちゃんも言う・・・。
「僕も・・・」
「あれ、お前も行ったのかい?」
「亜紀ちゃんが一緒に行こうって言うから・・・」
「ほう・・・亜紀ちゃんの家来か・・」
「うん」
「近頃よく亜紀ちゃんと遊んでいるなぁ」
「シズニイはよくおじいちゃんの所にいっているらしい・・・」
ヤクザの親分だ。子供がダメだったから孫に白羽の矢を立てているのだろ
うか?心配になって来た。山本に聞いてみよう。
「お前も行った事あるのかい?」
「あるよ。でもあの大きなガラス戸がとても重くて一人では開けられない、
誰かついて来てくれないと・・・」
「ああ、あのガラス戸ね・・・。勝手口があるだろう?」
「何時も開いていない・・」
一般の家は勝手は開いているのに
「そうか・・・」
話しが途切れた。
「亜紀ちゃん。本当は優しいよ」
家来には優しいのかもしれない。キッチリと割切った話し方をする亜紀ち
ゃんの周りには、必ず一人か二人はいる。今は菊だ・・・。
「トクちゃんの家は菊ちゃんも一緒に行こうって話しているんだ」
「七五三の着物だよ?」
「菊ちゃん、学校も行っていないし、暇なんだって・・・」
「何でも見ておく事はいいだろう。菊いってみるかい?」
頷いた。
その週の休日になると、二人は揃ってトクちゃんの家に向かった。
「今日はお客さんなのだから、亜紀ちゃんの言う事をよく聞くのだよ。わ
かった菊・・・」
「うん」
「うんはダメ・・。ハイ」
「はい」
道を歩きながら、説教がましく亜紀お姉さんは厳しい。
家のドア−の前につくと、又私を見ながら
「ちゃんとしておくのだよ」とボソボソと声をかける。「ハイ」と勢いよ
く返すと
「少し声が大きい」と返された。
私はもう一度小さな声で同じ返事を小声で返した。
「こんにちは・・・」
「ハイ。待っていましたよ」
納骨の時はほとんど話さなかった、トクちゃんのお母さんがニコニコしな
がら戸を開けてくれた。
暗闇から戸を開けると、眩しいくらいの細い瑞光がサッと広がったかと思
うとその辺りを生き返らせた。
「お邪魔します。菊も一緒なのですが・・・」
「いいですよ。子供は大歓迎です。何時も二人だけですもの・・・」
「トクちゃんは・・・」
「仏壇もないのですよ」
正面にトクちゃんの写真と線香と蝋燭が飾られてある。簡素な造りだけれ
ども、とても神聖な領域を感じた。
「どうぞ、お参りしてください」
蝋燭の火に線香をかざすと、炎をつけた。
「これは吹いてはいけないのでした・・・」
夫婦が話し始める。
「トクと違って元気がいいですよね」
「本当だよね。トクはいるのかいないのかわからないくらいだったよね」
「最後の日だけ何を急いでいるのかわからないくらい活発だったし・・」
「亜紀ちゃんの家にまだ何枚か写真があるから、その内に又持ってきます
よ。焼増しできるのだと思いますが・・・」
「ありがたいネ」
「亜紀ちゃん、今日はね。トクの七五三の着物をあげるから一度着てみて
くれる?あそこの衣紋掛に掛かっているのだけれど、直ぐ持ってきますか
らね」
「あれですか・・・。凄いキレイ・・・着たことない」
「そう、あれはまだトクが一度袖を通しただけ。仕付糸もついているので
すよ」
「いいのかなぁ・・・」
「いいですよ。もう誰も着てくれる人がいないのですから・・・」
「もったいない」
「ちょっと袖を通してくれる。帯も持ってきますからね、少し待っていて
くださいね・・・」
奥に入ってしまった。
「あの火事の時、トクがもう火達磨になっているときに、どこをどう思っ
たのか、この着物と他一式を持ち出したのだよね」
「トクちゃんはアッと言う間だって聞いています。火に包まれて何か残し
たいと思ったのが・・・」
亜紀ちゃんは口をへの字に曲げて、涙を食いしばった。
「お待たせ・・・。これ別誂えなのですよ。私のおばあちゃんの時の帯を
子供用に作らせたのよ。金糸と白銀を織り交ぜた唐織なの・・、昔のだか
ら少し寸法が小さいので作り変えたのよ。とても高価なものですの」
「おばさん、これ重いですね」
「このような帯はもう日本では出来ないって言っていました」
「本当に子供用?」
「そうですよ。これに併せて着物を作ったと言う方が良いくらいです」
「着せ付けてみましょうか?」
「お前の一番の楽しみだな。亜紀ちゃんいい?」
「おばさん、お願いします」
着ていた前ボタンの付いたワンピ−スをさっさと脱ぎ捨てると、小さなズ
ロ−スをはいたオカッパの子供が居た。
簡単な寝巻き型の襦袢を着けると紐を結びながら
「これも私が作ったのよ」
「おばさんが・・・」
「そう。この襦袢もね・・」
「私の家のお母さん毎日毎日、お針仕事・・・」
「そうでしたね。お母さん仕立て屋さんですものね。亜紀ちゃんはお手伝
いしています?」
「していません」
おきゃんな亜紀ちゃんもこのお母さんにかかるとおしとやかに見える。
「着物縫っている時は近づくと、お母さん恐い・・・、怒る」
「そりゃ、たいへんでしょう。お高い着物もあるでしょうに・・・」
いつも着せつけているように、パサッとかシュッと言わせながら出来あが
って行く。
「ほら、出来た・・・。かわいいでしょ。やっぱり女の子・・・」
私はそうは思えなかった・・・。男の子が赤い着物を着ているようなチグ
ハグな感覚を受けた。
「少し化粧をしてみましょうか」
トクのお母さんもそのように感じたのだろうか。なんとか普通の状態まで
戻さなければ、変なのだ。トクちゃんだったら可愛いだろうに・・・。
何もない部屋の隅に何処から買ったのか、黒檀のしっかりした鏡が置いて
ある。
「こちらにいらっしゃい。美人にしてあげる」
無理だろうに・・・私はそう思った。
「お姉ちゃん。きれい・・・」
「おべべが・・・・」
「トクちゃん、こちらにお出で・・・、アッ。トクちゃんじゃあ無かった
ね。亜紀ちゃん。化粧してあげるから・・・」
「はいィ・・・」
いつもと違う可愛い声だ・・・。
暫くして、亜紀ちゃんが顔を出した。
「どう?可愛くなった」
その顔を見て仰天した。いつも見ている亜紀ちゃんとかなり違う。それだ
けじゃない。個性が強いながらもとても可愛い。
「いつもは髪の毛を前にしているのを、少し上に持ち上げてみましたよ。
少しオデコちゃんですけれど、とても可愛い・・・」
「亜紀ちゃんね。オデコ嫌い・・・。ピカピカ光る」
「そんな事ないよ。可愛いって皆に言われるよ・・・。きっと・・・」
「菊ちゃん。どう思う?」
「カワイイよ」
「お姉さんが恐いからでしょう」
「そんな事ないよ。でも・・・」
「いつも私の言うことばっかり聞いているから、菊ちゃんの言うことは信
用出来ない」
「そんなことないよね」
トクちゃんのお父さんも
「亜紀ちゃん本当にかわいいよ」
「でもね。菊ちゃんにしてみたらもっと可愛いかもしれないよ」
私はいつも女の子達ばかりと遊んでいる。勢いそう言う遊びだと安心でき
るのだ。
「トクちゃん。じゃなかった。亜紀ちゃんが終ってから少しやってみよう
かな・・・。時間があれば・・・」
私はその言葉にドキドキした。何故だかわからない。
「面白いからやってください。トクちゃんのお母さん・・・。でもこのお
べべ大きいよ」
「着物はね。何とでもなるのよ。これだってかなり大きいのよ。あちらこ
ちらに仕付をつけて、こじんまりしているけれど十三くらいまでは使える
ようになっているの・・・」
「菊ちゃんはもっともっと、ちいさいよ」
「外を歩くわけでもないし、大丈夫よ」
「菊はどうなの?」
「僕は・・・。どうでもいい・・・」
本当は先ほどの亜紀ちゃんの変身に驚いた。是非やってみて私がどのよう
に変るのか見てみたい。でもあからさまに言えない・・・。
トクのお母さんが近づいて来て
「ううん。これは可愛くなるかもしれない。やってみなければわかりませ
んが・・・」
亜紀ちゃんだって充分、可愛い・・。
トクちゃんのお父さんが言う。
「亜紀ちゃん可愛いよ。やはり女の子だよね。今まで見たこともないほど
可愛いよ。男にはできないよな・・・」
「写真に撮っておきたいですよね」
「前だったらカメラあったんだけど・・・。火事にあってしまったからね、
しかたないさ」
「どっかにカメラ貸してくれるところないだろうかな・・・」
「河合さんところとか・・・」
「お父さん少し自転車で行ってみてくださらない?」
「河合さんがいればいいのだけれど・・・」
「行ってみて・・・」
「じゃあ、行ってくるよ」
お父さんは出て行った。
「もう少し、本格的に出来るよね。少し頭にカモジを入れて髪の毛を上げ
てみましょうか。もっと可愛くなりますよ」
女性は火事にあってもすぐ自分の環境を整え、その日から化粧を始める。
それほど火事からたっていないにも関わらず、頭のタボまで出来るほど集
めたのだ。
「菊ちゃん。こっちにおいで・・・。亜紀ちゃんの化粧を一緒に見ておく
といいよ。男だって有名な顔師さんだっているのですから、立派な職業で
すよ」
明るいこの部屋でポツッと一人いるのは寂しい。
「はいィ・・・」
少し暗いが陽の光りが横からホンノリと入る。亜紀ちゃんの頬が薄化粧に
下の赤味がピンクに浮いて出てきてきれい・・・。
「お父さん、必死になって自転車漕いでいるでしょうね」
「今日でなくてもいいのに・・・」
「そんな事ないよ。明日にだってどうなるかわからない・・・」
そう言うとトクちゃんのお母さんは目頭を押さえた。
「ごめんなさい・・・」
亜紀ちゃんは素直に謝った。
「亜紀ちゃん。後から見ると背の高さもトクと一緒・・・。ここに生きて
いるみたい」
「おばさん。私もトクちゃん生きているみたいだと思っていますよ。だっ
てすごく遊んだ仲間なのですもの、ちょっと静かなトクちゃんだったけれ
と、私と気があっていつも一緒にいたのよ」
「そう言えば声も似ている・・・」
「そうかなあ・・・」
私も似ていると思っていた。多少歯切れが良いのが亜紀ちゃん、トクちゃ
んは自分の意見をあまり出さない。でも亜紀ちゃんにはそれがわからない
らしい。
「ちょっと、横を向いて頂戴・・・。この髪が難しいのよね。左右均等で
ないときれいじゃないので・・・」
横向きにさせると、亜紀ちゃんの顔が私の正面に向く。
「ウフッ・・・!何みてんのよ」
「おねえちゃん」
「恥ずかしいよ。横向いて・・・」
「横向くのは無理だよ。両方とも壁だものね」
「じゃあ、後ろ向いていてよ・・・」
「いやッ・・」
「いいじゃ、ありませんか。化粧することは恥ずかしいことではありませ
んよ。きれいになって皆を幸せすることはいいことですよ」
「私、した事ないし・・・」
「それじゃ、教えてあげる」
「いやッ・・・」
「なんで・・・?」
「したくないもん」
「かわいいのに、トクも時々化粧してあげたのよ。でも死んだ時にはでき
なかった・・・。本当はきれいになりたかったろうに・・・」
またトクちゃんのお母さんは言葉に詰まった。
「おばさん。ごめんなさい・・・」
「いいのよ、でもね。今少し私も夢をみているのよ。楽しかったトクちゃ
んとの思い出。普通こんなにしていても別に何とも思わなかった。それが
死んでしまうと、あれもこれも・・・あんな事もと思い出すのよ」
「このおべべいいの?」
「いいのよ。これは本当はトクが持って行くもの・・・。私はそれを持た
せて行かせる事ができなかった、思い出だもの。その後、いっその事燃や
してしまおうかと思った。そのようなもの亜紀ちゃんにと言った事がピッ
タリだと思ったのは、本当は嬉しかったし、肩の荷が軽くなった」
おばさんは手順よく。顔を整える。本当にきれいになったと思う。
「お姉さん、キレィ?」
おばさんが私に問い掛ける。
「いつもと違う・・・」
「いつもは?」
亜紀ちゃんが言う。
「いつももキレイ」
「街歩いて来ようかなぁ」
「歩いて来てもいいよ。多分草履も箱の中に入っているはず・・・」
「足袋までしか・・・」
「そのような事はありません。全部一式入っているはずです。調べてみま
しょう。少し待っていてね・・・」
おばさんはその畳の場から離れて、奥の方に行った。残った二人は気恥ず
かしい・・・。
見た事の無い、キレイなお姉さんがいる。
「亜紀ちゃん。可愛いい」
思っていた事を素直に言った。
「ホント?」
「見た事ない・・・」
「嘘じゃないでしょうね」
「ホントに可愛いよ」
「菊ちゃんの方が似合うと思うよ。ウリザネ型の典型だものね」
「僕恥ずかしいよ」
「でもね。菊ちゃんの晴れ着はないの・・・」
「いらないッ」
「トクちゃんって幸せだったんだね。このようにしてもらって・・・。私
は皆幸ちゃんのオサガリ・・・」
「今度のこの着物は違うけど・・・」
「トクちゃんのオサガリ・・・」
奥から大きな箱を持ち出して来た・・・。トクちゃんのお母さんは私達兄
弟の前でおもいきり箱を披露して、パッとばかりにフタを開けた。
あの火事の中、このような物をどうして持ち出したのだろうかと思う程、
大きな箱だった。
今持ち出した小物の入っている箱の他に、白い箱が入っている。
「これこれ、これがポックリよ。振ると鈴が鳴るのよ。ほらね・・・」
チリチリと箱の中で鳴る音は、か細い・・・。
「おばさん、これも?・・・」
「そうですよ。勿論、あげますよ」
「開けてみていい?」
「はい、どうぞ・・・。これも新調したのですよ」
「高かったでしょうに・・・」
「菊ちゃんって言ったよね。もしかしたら・・・。もしかしたらトクちゃ
んの三歳の時の衣装がこの下にあるかもしれない」
おばさんは底の方に手を入れて、調べている。
私は漠然とした気持ちで居た。有ってもいいし、無くてもいい。
「もしかしたら、有るかも知れない・・・」
指先を確かめるように動かしている。
「一度。全部出してみましょうね・・・。そうしないと他の物も皺がつい
てしまいますし、どちらにしても直さなければいけないのですからね」
まだあまり古くない衣装紙に包まれた紐を一ッづつ丁寧に開ける。
「この多当紙は古いね。これは私の産着なのかもしれない」
「そんなに古いのですか?」
「毎年、虫干ししていますし・・・。ず〜と持ちますよ」
中には古いものあるらしい。
「トクちゃんも使ったのよ。昔は衣類って高いものだったのよ」
「今だって大切にしています」
「昔と違って、それほどでもないけれど・・・。ありましたありました。
これがそうです」
持ち上げた衣装紙を畳の上に置くと
「思い出しますね。トクちゃん。まだよくわからないものだから最初着せ
たら嫌がってね。でもとっても可愛いいって言ったらおとなしくなって、
あの娘それから目覚めたのかも知れない」
「キレイな着物ですね」
「カンカンに簪挿してあげるよっていったら、自分から頭を持ってきて、
ちゃんと御髪を向けるのですよ。あれほど嫌がっていたのに・・・」
「女の子は皆そうかもしれません。私も、本当は嫌だったのに・・・」
亜紀ちゃんは男みたいな性格しているし、私の方が本当は似合っているか
もしれない。
「ほう〜ら。まだ完璧・・・」
亜紀ちゃんの着物と違って、とても小さい。
「三歳だったらこんなに小さいのね。でもね、これこの辺を解くと大き
くなるのですよ」
樟脳の臭いが家中に充満する。
「出しておきましょう」
私はそれを聞いて、心臓がドキドキしたのを憶える。もしかして私の為
にそれを出したのか・・・。
「亜紀ちゃん、あなたの頭飾りなどあるの?」
「うん、あるよ。幸ちゃんのお下がりだけれど・・・」
「じゃあ、ここにあるものは使わなくてもいいよね。髪飾り程度だったら
持っていてもいいから、ここに置いておきましょう」
亜紀ちゃんは少し不満そう。本当は幸ちゃんのお下がりじゃなく、新しい
ものを頭につけたかったのはわからないでもない。
「ちょっと、菊ちゃん。こちらに来て見て・・・」
いままでのドキドキが更に大きな音を立てて囃子たてる。汗もドッと流れ
る。
「なんでしょう」
覗き込んだ先には、箱の中直しこまれた小物が色々入っている。
「亜紀ちゃんとってもきれいになったでしょう・・・」
「うん」
「あなたもなりたい?なりたいのだったらしてあげるわ」
「う〜ん。わからない」
その時だった玄関の鍵を開ける音がした。
「あら、お父さん。早かったわね。どうしたのかしら?」
「ただいまッ、帰ってきましたよ。写真機借りてきたよ。これ新型なん
だって・・・。横向きに撮るんだね。今までは箱の中の画像を見ていた
のだけれど、そのような事しなくてもいいのだって・・・。見たままが
その通り撮れるのって便利だよね」
「私は見た事ありませんが、そのようなもの舶来ものでありましたよ」
「きれいに撮れるらしい。ここ見てごらん」
「本当ですね。きれいッ」
「まだ、撮ってもいないのに・・・、なんでもいいから撮ってみたい」
「何でもいいからじゃあないでしょう。亜紀ちゃんの写真を撮るために借
りてきたのでしょう」
「撮りましょうか」
「少し待ってください。今少し・・・」
「フイルム忘れていた。写真屋さんから買ってきますよ」
「その間にしておきます」
またも、お父さんは出て行った。
「もう少し結い上げをきれいにしたかったのよ」
亜紀ちゃんはジッと固まったまま、なされるままになっている。指先だけ
が器用に動いて、小さな日本人形は出来あがって行く。
「これで、もういいわ。できあがり・・・」
「おばさん。ありがとう」
「昔は美容師さん少しだけれど、やっていたのよ」
「すごい。私もなりたい・・・」
小さな日本人形はいままでに思ってもみなかったような事を話す。
「亜紀ちゃん、そうなのよね。私も子供の頃、芸者さんを身近に見た事が
あるの・・・。それが本当にこの世の人ではないように綺麗に見えたのよ。
透明な空気のように感じたのよ」
「ふぅ〜ん」
「そのような勉強をしたいと、髪結屋さんや美容師さんに行っては勉強し
たの・・・。でも思い通りに綺麗にできた事はあまりない。自分には出来
ないと思った」
「おばさん。凄いって・・・」
「結婚してから、自分の子供にはそうしてあげようと思っていたのに・・」
「・・・・」
「でも、亜紀ちゃんに少しでもできたから、今は満足している」
「本当の七五三の時も、来るよ・・・きっと・・・」
「そう、嬉しいわ・・・・」
暫く、話しが途絶えた。
「ボクちゃん。来てみてごらん。これトクが三歳の時に着た着物・・・」
「ふぅ〜ん」
「似合うといいけれどね・・・」
「小さい・・・」
亜紀ちゃんのと比べてとても小さい」
「大丈夫、ちゃんと着れると思うしね」
私の前の差し出して、当てて見る。
「うん、うん・・・。これは行ける」
自分で納得している。
「ちょっとズボン脱いで着てみる?」
「うん」
半分嬉しかった。でも半分は似合わなかったらどうしようと心配・・・。
「トクのが全部揃っているからね。大丈夫だよ」
私はパンツとランニングで仁王立ちになって、これからのおばさんの技術
に身を委ねる。
私の後ろに立ちはだかる不安はすぐに被さってきた。
「ほうらね。何っていう事ないよね」
柔らかい布が私の肩にかけられてくる。樟脳のツンと刺す臭いが変に心地
良い。おかしなものだなって思った。いままでは耐えられないと思ってい
たものが、一瞬の内に感覚が激変してしまったのだ。
不思議に直接触るこの布の感じは悪くない。サラリとしている上に柔らか
い。とても気持ちがいいのだ。
「私は似合うと思うけれどね・・・」
「亜紀ちゃんは似合わないと思う・・・」
直ぐそばの姉は毒舌を吐く。
「今はおかしいけれど、ちゃんとすればかなりかわいくなりますよ」
私もそうだと思う。背は小さいし、シズニイはいつも女みたいと言ってい
たし、トクちゃん達と遊んでいても違和感が全くない。
「少しやってみるかな?」
ハイとは言えない・・・、私は黙って次ぎの言葉を待つ。
「あまり暑くないのに汗かいているね。石鹸で顔を洗ってくるといいよ。
ちょっと着ただけだから、これは脱いで・・・」
私はパンツのまま台所に連れて行かれた。
「おばさんはね。あなたがかわいい顔をしているのでどうしてもやってみ
たいのよ。嫌だったらしょうがないけれど、化粧やらさせてくれる。もし
かしたらトクよりキレイになるかもしれないと思っているのよ」
「いいよ・・・」
私はドキドキしながら言った。
「ありがとう。無理言って悪いね・・・。石鹸持ってくるからね・・・。
亜紀ちゃん。鏡台そこにあるからね見ていてもいいよ。女性は暇があれば
鏡を見ているのよね。亜紀ちゃんもそう?」
「見たこと無い・・・」
「そう。おばさんは小さい頃からそうだったよ」
と言いながら、小さな声で
「あなたはどう?」
私は戸惑った。改めて鏡などは見たことがない。小さな声で
「みてもいい・・・」
後ろからおばさんの影が近づく。
「そうよねぇ〜」
ギュッと抱きしめられる。
私は躊躇したが、そのまま抵抗もせずにじっとしていた。
緩やかな抱擁の後にまたその抱擁が少しずつ開錠されてくる。
「さぁ。このタオルで顔を拭いて・・・」
明るい亜紀ちゃんの部屋はまだそのままの絹が脱ぎ捨てられている。
「まだ、水気が残っているよね。しっかり拭かなければ・・・」
おばさんは丁寧に私の顔を拭く。
亜紀ちゃんの時にはこのようにしなかったのに、何故だかわからなかった。
「どのようになるかわからないけれど、やってみるわね・・・」
亜紀ちゃんが鏡台から引き下がる。いままでは近づいた事もない化粧品の
匂いが更に近づく。
「やりましょう」
水のような液体を手に付けると手早く両手で擦りつけ、私の顔に広げる。
爽やかな空気が顔全体を埋め尽くす。
「きれいな肌ね。子供はみんなそうなのかしらね」
パタパタと本当に急いでいるかの如く、手早くあちらこちらを顔につける。
「少し目を閉じていて・・・」
「はい・・・」
あちらこちらをトントン、パタパタ・・・。顔を触って貰うのは気持ちの
いいものだと思った。気持ち良くて眠たい・・・。
「少し目を開けて見て・・・」
垂れ下がって重い目蓋が眠たい、それを引き上げる。
アッと思った。急に目が覚めたこれまでと全く違う私が居る。
「おばさん!女みたい・・・」
「女みたいって?」
「うん・・・」
「おばさんは女よ・・・」
「違うよ。僕が・・・」
「まだ途中だよ」
「何か違う」
「今は肌だけ触ったところよ」
「それでも、女みたい・・・」
「そうかなぁ。じゃ、もう少し目を閉じてみていて頂戴・・」
ワクワクした。本当に変わるのがわかったので余計に興奮するのかもしれ
ない。
もういいよと言う言葉がとても楽しみなのが自分でもおかしいと思った。
さっきよりもかなり時間がたった。
まだかな、まだかなと思いっていると玄関のドァーの音がする。
「あぁ、お父さん?」
「ただいま、帰りましたよ」
「どう?」
「やっぱり、そうだったか・・・」
私を見てビックリしているのに違いない。それにしても何がそうだったの
だろう?
「フイルムあったの?」
「あったよ。ホレこれッ」
「入れてよ。亜紀ちゃんを撮らなければいけないからね」
「私の思った通りだよね」
「それは私の案なのでしょ」
「まあ、どっちでもいいよ。とりあえずフイルムいれるよ。暗いところあ
るかな?」
「ご不浄はどう?」
「そうだねそこだったら少しは暗いかな?」
私は目を閉じたまま、もういいよと言う声を一途に待っている。
「おばさん、まだ?」
「もう少し待っていてね}
少し離れたところで亜紀ちゃんの声が聞こえる。
「もう少しまっていてね。今フイルムいれるから・・・」
「はい・・」
「亜紀ちゃんきれいになったね。今日のは本番の写真じゃないけれどね。
一応写真とっておこうと思っているのだよ。それにしても可愛くなったよ
ね」
「おじさん、どこで撮るの?」
「別に考えてないのだよ。ここで撮るつもりだけれど・・・。ちよっと奥
の方に行ってくるよ」
「どこ・・・」
「便所」
「何するの?」
「写真のフイルム入れるのだよ。亜紀ちゃんの写真撮ってあげるよ」
「うれしい・・・」
「あまり写真などとることないからね、せっかくの記念だからね」
「前の七五三の時に撮ったことあるよ」
「きれいに撮れた?」
「うん、とっても綺麗に撮れた」
「とりあえず、いってくるね」
亜紀ちゃんとおじさんはオシャベリを始めると止まらない。
話が切れたあたりで私も目を閉じているのが、次第に辛くなってきた。
「おばさんもう目あけてもいい?」
「もういいよ。もう少しだけどね。もう少し待っていてね」
私はもう我慢できなくなってきた。
人の気配がすると
「わッ〜。変・・・」
亜紀ちゃんの声だった。
「変じゃありません。これでいのですよ・・・」
「変!」
変の連発だった。私はもっと不安になってきた。
「もう、目あけていい?」
「いいよ。どうぞ・・・」
開けてみてビックリした。予想に反して女の子ではない似ても似つかわし
いノッペリした顔が居た。
「おばさん・・・、おかしい・・・」
私はガックリした。綺麗でもなんともない私の顔がそこにあった。
「おかしくはありませんよ。日本美人はこんな顔でいいのですよ」
「・・・・」
「頭がないからですよ」
亜紀ちゃんがすかさず言う。
「おばさん、おかしいよ。菊は男の子だからおかしいに決まっている」
「あら、そんなことありませんよ。凄いかわいい顔になりますよ」
「カツラでもつけてみなければ・・・」
「カツラはありませんが似たもので念のためやってみましょうか?」
「してして・・・」
亜紀ちゃんはそれを茶化すように喜んで言う。
「菊ちゃんの地毛が少し大目だからそれを上げて、タボ入れてあとは髪飾
りで隠す。それで十分ですよ」
私はもう自分でもかわいそうだった。
「おばさん、もう・・・」
「おばさんに任せなさい。自信あるのだから・・・安心しなさい」
おとうさんのフイルムを入れ終わったのか戻って来た。
「いやいや、可愛いね。このままでも十分だよね」
「亜紀ちゃんと菊ちゃんはおかしいって言うのですよ」
「おかしくなんかはないよ。わからないのだね」
早く逃げてかえりたい。とくに目と口元がおかしいのだ。私の口の大きさ
と全然違う。
「おとうさん。菊ちゃんもう少し後になるから、先に亜紀ちゃんだけ写真
撮っていて・・・」
「オ−ケ−だよ。亜紀ちゃんおいで・・・」
「はい・・・」
「ここで少し撮って、外でも撮ってみようね」
二人はしばらくそこで写真を撮っていたが、やがて外に出て行った。
「静かになったね。少し痛いかもしれないけれど、髪を持ち上げてみるね」
ギュッと持ち上げる髪の毛は思いの外に痛い。
「あら、痛いのね・・・。でも少し辛抱してね」
私は自分がそのような顔をしているのかと思うと。少し情け無かった。
「大丈夫です」
「男の子は我慢だよね。いや、あなたは違うかも知れないけれど」
男も女も同じ、我慢をするよねッとそう心の中で叫んだ。
前に行ったり。後に廻ったり。忙しいのは手に取るようにわかった。
「本当に肌がきれいねぇ」
そんな事はどうでもよかった。
「さあ、出来あがったようよ」
その鏡を見て、びっくりした。
「おばさん、これッって・・・」
「そう、あなたなのよ。トクにソックリ・・・」
「トクちゃんとソックリ?」
「トクちゃんは女の子だよ。僕は男の子・・・全然違うよ」
「それでもね。洋服や髪型でかなりかわるものよ。だれかトクに似ている
って聞いた事ない?」
「うんにゃ。ない・・・」
「私は似ていると思うの・・・」
「そんな事ないよ。僕は僕だもの・・・」
「鏡。見てみる?」
「いいや。見ない・・・」
その時また玄関がにぎやかになった。写真を撮り終えて帰ってきたのだ。
「おおッ・・・」
ここのお父さんが私を見て声をあげた。その次に入ってきた亜紀ちゃんは
「ビックリしたぁ。トクちゃんかと思ったぁ」
「似てないよ・・・。僕・・・」
「お前の言った通りだな。私の負けだよ」
「そうでしょう。良く似ています・・・」
亜紀ちゃんがビックリしてみている。
「亜紀ちゃんどうしたの?」
「トクちゃんの若い頃・・・にそっくり・・・」
「まだ皆わかいよ・・・」
おじさんがそう言う。
私はもう一度鏡を見てみようと思った。方向をまったく違う方に向いてい
るので、思いっきり首をひねらなければならない。
先ほどは見ていても、みていなかったのだ。恥ずかしい・・・。
「おばさん、もう一度鏡見てみるよ」
「亜紀ちゃんと一緒に見てごらん。よく似ているよね」
「トクちゃん・・・」
「どうぞ・・・」
指さされた鏡台に、電球が反射してまぶしい。
「はい・・・」
今度は座りなおして見てみる。
亜紀ちゃんの隣に見知らぬ女の子がいる。
「トクちゃん・・・」
「僕だよ。僕」
「違うみたい。どうみても・・・」
鏡の後ろにトクちゃんのお父さんとお母さん・・・。
ジッと見つめている顔がある。
見るみる内にオバサンの顔が歪んでくる。
「トクちゃん・・・」
感極まったのか、もう我慢もできず。大粒の涙がマブタから流れ出てくる。
「いいよ。泣いても・・・」
そう言う。オジサンの顔もキリリと引き締めた顔から、ポタリポタリと雫
が落ちてきているのだ。
オバサンはホッと振り返ると、奥の方に行ってしまった。
亜紀ちゃんはもう黙ってみている。
私はどうしていいのかわからなくなった。私は私・・・、何の感慨もない
自分なのだ。
「亜紀ちゃん・・・」
「・・・」
小さな声で
「どうしょうか?」
「うん・・・」
見合わせる顔は微妙に前の顔と違う。
「どうする?」
「写真撮りに行こう!」
そうだ。写真がいい・・・。
亜紀ちゃんはまだ傍で残っているトクちゃんのお父さんに
「それッ、撮りに行きましょう」
オジサンは催促されるなりにカメラを引き寄せた。
「写真を撮ろう。ここで何枚か撮ってそれから外で・・・」
「亜紀ちゃんと二人で撮って・・・」
思い出したように亜紀ちゃんが元気になる。あまりのショックのためか急
に口数が少なくなってしまったのか?
「ああ、いいよ。お母さんは何処に行ったのかな?」
奥の方から
「ハイ、直ぐ出て来ます」
着物の褄を直しながら、またさっきのような明るい顔をして現れた。
「本当に女の子のようですね。声も高いし・・・だれも気がつかないと思
いますよ」
私は黙ってしまった。喜んでいいのか。悪いのか判断が出来ない。
「菊ちゃん。緊張しないで・・・、まずは亜紀ちゃんと二人で・・・」
亜紀ちゃんは私の手を取り、窓際に進んだ。
「そこ、そこ・・・・」
カメラマンのお父さんが言う。
私は亜紀ちゃんと並んだ姿を想像してみた。写真はまだない。それなのに
この思い出は二度とないだろう思った。少なくても今はとても女らしくな
ければいけない。
「あれ〜、菊ちゃんの方が女みたいだよ。亜紀ちゃんもう少し足を引いて
ちょうだい。そのまま仁王立ちはいけませんよ」
トクちゃんのお母さんが言う。
「もう・・・」
亜紀ちゃんは小さな声で不満たらしく言う。
「亜紀ちゃん。我慢して・・・」
私も亜紀ちゃんに小さな声で答える。
「いいよ。それで・・・撮るよ」
カチャリと音がすると、次ぎのフィルムを巻き上げる。
「亜紀ちゃんは外で撮ったから、今度は菊ちゃんの番だね。お母さんも行
くかい。この辺りだけどね」
「亜紀ちゃん、一緒に行っていい?」
「いいですよ。亜紀ちゃんここで待っている」
「そう。じゃ、お願いするかな・・・」
ここのご夫婦と一緒に出かけるなどと想像もしていなかった。亜紀ちゃん
もなんとなく人ごとのように言う。
「さっき、いい所を見つけてきたんだよ。記念撮影にはいいことろだと思
うから急いでいってみよう」
「遠くじゃないのでしょうね」
「とても近くだよ。裏道・・・」
「?」
「壁があってね。その壁が太陽に斜めに光線を受けて、立体感が出てとて
もきれいに写るだよ」
「あんな汚い場所が・・・」
「それが最高なのだがね」
「菊ちゃん、急いで行って来よう」
そう言うと私の手をオバサンは強く握りしめたまま、履いたオジョジョを
ツッかけるように私に履かせた。
「入らなくてもいいのよ。少しだからだっこして行ってあげるからね」
私と外に出た。空は暗くはなかったけれど曇りだった。
高い見たこともない景色は良いものだと思った。
裏に出ると、倒れかけているように壁が見える。一部分だけ斜めに傾斜し
て不思議な広がりを感ずる。
「今度は三脚を持ってきたからね」
カチャリ、カチャリと音を立てながら格好よく設営していく。
「本格的なのですね・・・」
「そりゃあ、そうさ・・・。何とかお前の望みを叶えようと思ってね」
「トクがいるみたい」
「菊ちゃんと一字違いだものね」
確かに一字違いだった。自分でも知らなかった。
私はずり落ちそうなオジョジョを親指で挟みながら、必死に耐えていた。
「この辺でいいよね。下ろすよ」
地面に着地すると、オジョジョは意外に小さく足がはみ出て落ちそうにな
る。
「小さいからごめんね。写真だけ撮ればそれでいいのよ。少し我慢してね」
「はい」
私は人が来なければいいなと思いながら待っていた。
「お母さん、そこに立っていて・・・。こちらの方が明るいからこちらの
方を少し向いてみて・・・」
「2.8の125かな・・・」
とか一人ごとをいいながらカメラを覗き込んでは、何かしている。
「少しこっちを向いていて。菊ちゃん鳩がここから出てくるからね。見て
いてな・・・ホラ!」
カチャリとシャッタ−が落ちる。
「おかしいィな。鳩が出ないな。逃げちゃったかな?」
「お父さん。早くいいから撮ってちょうだい」
「今度は本当に出るよ・・・」
カチャと音がしたが出なかった。失敗だなと思った。
「三人で撮ってみようかな。タ−マ−はこれだな」
触るとすぐにジ−ィとなりはじめた。私は何が何かわからずにそれをみて
いた。
二人の間に潰されるように私はいる。
狭いなあと思っている内に終わったらしい。
「さあ、終わったよ。今度はトク一人で撮るからね」
私はトクじゃない。菊だなどと思う間もなく。二人が離れて私はポツネン
とその場に残された。
「この辺りを見て・・・」
言われるがままに私はした。なんだか重痒い気がした。これをしている最
中でも人は通る。皆は親切にカメラの前を邪魔しないように間隙を縫って
通る。
「誰にもわからないようだね」
「そうね」
分からない訳がない。私はそう思っている・・・、だからここでの撮影は
冷汗が出てきている。オジョジョは小さいし逃げる訳にはいかないのだ。
「もう一度、一緒に撮りたい・・・」
トクちゃんあのお母さんはそう言うともう私のそばに並んでいた。
「私がしゃがんで、ここにトクがいる・・・」
自分で納得して、写真に納まりたいのだ。
撮り終えると次に言い出した。
「抱っこしてもいいかなぁ」
「いいよ」
オジサンが言う。
大きな袂が私を包みこんだ。
大島の硬い繊維の中に豊満な乳房が感じられる。あッ、お母さん・・・。
素直な気持ちでお母さんを受け入れてしまっている。
両の手もさっきと違ってきつく抱きとめる。
「いい感じだな・・・。これはいい・・・」
私もポッとなっている。ほんのりと化粧の白粉が香る
「お母さんみたい」
「そう、トクちゃんみたいよ」
「お白粉がいい匂い・・・」
「トクもこうして抱いてやったのよ。もっと沢山抱いてやればよかったの
に・・・、火に包まれた時ばかり夢にでてくる」
「オバサン。僕でよかったらトクちゃんの代わりしてあげるよ」
「ほんと!とてもうれしいわ」
「僕。男だけれど・・・。オバサンの時だけ女の子でいいよ」
「うれしい。トクが帰ってきたみたい・・・」
「亜紀ちゃんに内緒にして・・・」
「分かっているわよ。お父さんもきっと喜ぶと思うわ」
話している間も、オジサンもカメラのアチラコチラを触りながら撮ってい
る。
「何を話しているのだい。いい写真が沢山撮れたよ。もう終わりだからね。
後一枚だけ・・・。はい、これで終わり」
「さあ、帰りましょうか?」
「そうだね。歩けるかい?」
「履物が小さくて歩けない・・・」
「そうか。じゃあ、お母さんに抱っこしてもらって・・・」
私はそれのほうが良かった。
「はい、いらっしゃい」
家ではほとんどこんな優しいお母さんはいない。いつも仕事ばかりしてい
るし傍にも寄り付けない。
抱っこされるのには少し大きな子だのに、私は甘えるように首筋にしがみ
ついた。
「あれ、久松さん?どこの子?」
帰りの道で声をかけられた。
「この子?親戚の子・・・」
「ほう、死んだトクちゃんに似てるね。親戚の子だったら有りえるよ。可
愛い子だね」
「ありがとうございます」
私は本当にトクちゃんになってしまったのか?
「きれいなオベベ着せてもらって、お似合いですよ」
私は違う・・・。私は男の子。
「急いで帰りましょう。家に他の子供が待っていますので・・・」
話を振り切るように終わらせようとしている。私だって早く帰りたいのだ。
「あら、歩けないのですか?」
「いいえ、違います。今急いでいますので・・・」
「そうですか、久松さんまたお会いしましょう」
「はい・・・」
返事もそこそこに、私を抱きかかえたまま路地を抜けるように通る。暗い
通路は私をホッとさせる。
玄関前の暗い廊下も安心だ。鍵も閉めずに出てきたドア−を開けると眩し
いばかりの光が走る。曇り空でも外は明るいのだ。
「亜紀ちゃんお留守番ありがとう。大分待った?」
「それほど待っていません。ラジオ聞いていたの・・・。講談聞いていた
のだけど、少し怖かった。最初はそうでもなかったのに今ゾ〜としていた
の。よかった!」
「ラジオ消せばいいのに・・・」
「それもできないほど怖かったの・・・」
「じゃ、私が消してあげましょうね・・・」
怖そうな声が消えた。
「お父さん。フイルムの現像はいつ出すの?」
「今から出そうと思っているんだよ。それにカメラも返さなければいけな
いし・・・いまから一走り行って来ようかな」
「もう、今日中に終わらせるといいですよ」
「じゃ、行って来るか・・・。自転車で行ってくるね」
「じゃあね」
大きな掛け声を出して、また外に出て行った。残った者は女・子供ばかり
だった。
「亜紀ちゃん、もう帰る?」
「帰りたいけど、着物ぬがなきゃね」
「僕も・・・」
「その着物は亜紀ちゃんにあげるって言っていたでしょう。今日持って帰
っていいのよ」
「オバサンありがとう。でもこれトクちゃんの着物でしょう」
「いいえ、これはもうだれも着る人がいないのよ。だから着れる人が持つ
のが一番よ」
私も今着ているこの着物が欲しい・・・。
だれもこれには触れてくれない。
「この着物はちゃんと袋に入れてあげるから持って帰ってね」
「亜紀ちゃん、持って帰りなよ。せっかくだから着てあげたら・・・」
「そうします。今度、写真撮れたら持ってきますね」
「亜紀ちゃん。今撮ったばっかりでしょう」
「あ、そうか・・・」
亜紀ちゃんは帯を左手で緩めようとはしているけれど、思い通りにはなら
ない。
「解けないよ。オバサン・・・」
「最初はね。小物から外すのですよ。でないとバラバラと落ちてくるでし
ょう」
「どこからはずせばいいの?」
「オバサンがやってあげるから、少し待っていて・・・」
亜紀ちゃんはもう嫌ッて言う感じだった。
私はその反対にこのままで静かに時間を過ごしたいと思っている。先ほど
まではどうでも良いと思っていたのに、どうして考えが変わるのか不思議
だった。
オバサンは亜紀ちゃんの後ろに回って、スルリスルリと丁寧に帯をはずし
始めた。着物が取れると
「ああ・・。スッキリした。楽チン楽チン・・・」
本当にスッキリした顔だった。
私の番だ。
「菊ちゃんは・・・」
「はい。そうしてください」
「どうでしたか?」
「わからなかったのかな?」
亜紀ちゃんが
「そりゃ、分かるさ・・・。男だもん」
「でも、誰も気が付かないようでしたよ」
「僕は分からない」
「菊ちゃんが見ている訳じゃないからそれは難しい」
「誰か見ていた?」
「見て話かけてきたけど、かわいいねって言っていたよ」
「私の時は、誰も何も言わなかったよ」
「たまたま人がいなかったのかなぁ」
その話をしながら、私を取り巻いている帯に手を掛けた。
「何かもったいないね」
私もそのままでいいと思っていた。
「早く脱ぎなさいよ。私はスッキリしたよ」
そうは思わない私は・・・
「おべべは気持ちがいいんだね。サラサラしているし・・・」
「そうね。絹は気持ちがいいものだからね」
亜紀ちゃんは、フ〜んという顔でこちらを見ている。
「オバサンこの着物ももらってもいいの?」
「いいえ。これはダメ。これはトクが前の七五三の時に袖を通した唯一
の着物。どこかでまた会えそうな気にがするの・・・」
「亜紀ちゃんの着物は貰わなくてもいいよ」
「亜紀ちゃん優しいのだね。でもこれはあなたにあげるって最初から思
っていたのよ。でもこちらはトクの思い出が一杯詰まっているのよ」
私は女心が判らなくなってしまっている。
サラリと着ていた着物が落ちると、冷たい外気が私の周りに充満する。
「でもね・・・。トクは居ないのだね・・・トクは・・」
詰まってしまった言葉は、聞くだけでも切ない。
「オバサン別にいいですよ。欲しいと思って言ったわけじゃありませんか
ら、もういいのです」
「いいえ、私が欲張り過ぎたのね。トクを忘れようとしているのに、記憶
に亡霊のように現れてくる。鮮明な炎の中に不動明王のような火炎に包ま
れて・・・」
「もう、いいのです」
「亜紀ちゃんの着物もいい」
「あッ、ごめんなさい。本当は今日はいい日のはずなのが・・・」
キリリと蘇える顔は私を抱きかかえる顔だった。
「フンギリがつかない私のために、もう少し時間を下さい。そうだ、あ
なたのお母さん和裁やっているって言っていたよね」
「ええ、そうですけれど・・・」
「この片袖だけもう少し、私の手元に預かっていてもいい?」
「片袖だけ?」
その時ここのお父さんが帰ってきた。
「亜紀ちゃんはそのまま帰ったらいいよ。可愛い顔になっているし、お母
さんもきっとビックリするよ」
「もう、亜紀ちゃんはめんどうだからこのまま帰ります」
「僕は・・・?」
心配だった。このまま帰ったらどのように言われるのか・・、多分、怒ら
れるかも知れない。
「菊ちゃんはちゃんと落として帰りますよ」
亜紀ちゃんは
「そのまま帰ったら・・・」
とニヤニヤしながら言う。
「僕は嫌だ」
言いながらも亜紀ちゃんの目をうかがう。
いつもなげやり、その顔が怖いのだ。
「オバサンがその化粧をとってあげるから、心配しなくていいですよ」
「そのままでもいいのに・・・」
亜紀ちゃんの言葉に対してオバサンは言う。
「他の女の子が羨むかもしれませんね。トクちゃんなどどのように思って
いるか心配・・・。だって本当に可愛いものね」
「菊ちゃんは男にしておくのは無理がある」
オジサンもそれにあわせて言う。
私はどうしていいのか分からない。それほど考えた事もないのだ。
「こちらにいらっしゃい。ちゃんとしてあげるから・・・」
顔を何かしらないものを塗りつけるとサッサと作業をする。
頭も痛いほど引っ張ったり、ピンを取ったり見る々々スッキリしてくる。
「さあ、これで完璧ですよ。あとは石鹸で顔を洗って・・・ナゲシはあそ
こにありますからね」
私は流しの方に行った。とても高くて水道まで手が届かない。
後ろから声がする。
「そうよね。足が届かないものね・・・」
「何も考えずに来ていました」
「どうしょうかなぁ。普通はいけないのだけれども、その上に上がってい
いよ。いつもは料理する所・・・」
「そこにも上がれない」
「大丈夫、私がしてあげる」
軽々と私を抱きあげる。またしても母の匂いがする。
「石鹸あるからね。水少し出しておくからシッカリ顔洗ってね」
シュルシュルと流れ落ちる水道水に手を触れると急にむなしくなる。
手に石鹸を付けて顔に付けた。
ヌルヌルとする顔が、今まで洗った顔と違うのが直ぐにわかった。これで
もう二度とない体験が終わるのだ。端から端まで余すところなく綺麗に洗
った。
「オバサン洗った」
「まだまだ、それは洗ったとは言わないのよね」
「洗ったよ」
「いつもはそのくらいでも、お化粧の時はそれをとらないと残るのよ」
「綺麗に洗ったよ」
「例えば、耳の後ろとか、あごの下とか・・・、洗った」
私はそこまで洗っていない。黙って次の言葉を待った。
「タオルで擦るとすぐ分かるのよね。もう一度洗ってみましょう」
その言葉に促されるように、もう一度石鹸を付けた。
「もう、頭もあらっちゃお」
「それのほうが早いね」
スッキリした気分だった。石鹸の泡立ちがすごい。
「もういいかなぁ」
「まだまだ、耳の後ろは?」
「アッ、まだやっていない」
「全部、全部・・・わすれないでね」
「もう洗ったかなぁ」
「大体良いようよ」
「いつもしているのかなぁ。お母さんやっているのをほとんど見たことな
いよ」
「あ、ここまだみたいよ。タオルが汚れている」
あごの下をタオルに付いた色を見せてそう言う。私はガチャガチャ言わせ
ながらまたそこに石鹸を擦りつけた。洗い終えると、
「これで完璧だよね。さあ降りようね」
オバサンは大きく手を広げている。あの大きな胸に飛び込む勇気はない。
「さあ、来なさい・・・」
躊躇はしたけれど、私一人ではこの台は降りられない。
手を出すよりも、彼女の胸が私に覆い被さる。
「このまま、ジッとしておきたい・・・」
私の耳元で小さな声でそう言うと、ギュッと強く抱きしめてくる。
私の目玉はどうしてよいのか、そのまま宙を走る。
「オバサン・・・」
「ウン・・・。下ろしてあげるからね。少しだけ・・・」
私は黙ってなすがままになっていた。
「はい、ありがとう」
小さな声で下に下ろしてくれた。
明るい部屋には何故か行きたくなかった。この瞬間にオバサンは私をトク
ちゃんと思って夢の世界にいるのだ。
「また、いつか来るよね」
「ウン。来る・・・」
私は促せられるままに素直に答えた。
「さあ、行きましょう。綺麗になったし、男前になったわね」
グズグズと差し込まれたピンだらけで痛かった頭も、スッキリとなって爽
快だ。終わればもう二度としたくなくなっていた。
「美は女性の命なのよ。菊ちゃんきれいだったよ・・・。本当なんだよ」
いくらオバサンに言われても私はそうは思えなかった。このオバサンはト
クちゃんの夢を見ているだけ・・・。たまたま私のどこかが似ていたのか
もしれない。鏡など二度と見る気もしない。
「あ〜あ、終わった。向こうに行こう」
亜紀ちゃんが目ざとく見つけて
「どうだった。白粉・・・」
「お姉ちゃんは・・・」
「好きじゃない。臭いだもの」
「臭くはないけど・・・。何か変・・・」
「菊ちゃん、この匂い好き?」
「うん、好きだよ・・・」
「私、嫌い」
「オバサンは好き」
「オジサンも好きだよ・・・」
皆好きなのに、嫌いなのは亜紀ちゃんだけ不思議なものだ。
「もう遅くなるから帰ろう・・・」
急に亜紀ちゃんが言い出した。
「ちょっと待ってね。やっぱり着物を持って帰ってもらおう。片袖だけ外
すから・・・」
「おい、そんな事しないで全部持って帰らせてあげなよ」
「でも・・・」
「でもも何もない。亜紀ちゃんも喜ぶし、トクだってその方がいい」
「小さい方よ」
「どちらもだよ」
「・・・・もう一回だけ考えさせて」
「厄介だな」
「僕はいいですよ。着ないし・・・」
「・・・・」
「片袖だけでいいのです。後は思い残す事はないの・・・」
「お前の好きにしなさい」
「菊ちゃん。明日又来て・・くれる」
「はい」
私には抵抗する理由はない。
「亜紀ちゃんは学校だから行けないよ」
「ここくらいだったら来れるよね」
「前、シズニイきたことあるよ。裏通りのにある食べ物屋さんだったけれ
ど・・・」
あまり遠くない食堂の裏だった。
「お父さんは仕事だし、私は一人だから一日ここにいるからいつでもいい
からね」
「亜紀ちゃんなしだよ」
「大丈夫だよ。シズニイと何度もきたもの・・・」
本当は一回しか来た事がなかった。
亜紀ちゃんは着物を脱ぎ捨てて、気の抜けた日本化粧をしたまま洋服を着
ている。頭の髪の毛が上に突っ立って、今流行りのキュ−ピ−さんに成っ
ている。
「じゃ、帰りましょう」
木のドァ−を押すと外の電気が明るく、通路を照らす。外は暗くなりかけ
ている。昼間には気がつかなかった、スモカ歯磨粉の黒人の白い歯が私を
見つめる・・その宣伝に思わず竦くんでしまった。
「お姉ちゃん・・・」
「どうしたの?」
私は亜紀ちゃんに手を出した。小脇に抱えた風呂敷にすがった。
「どうしたのよォ・・・」
「あれ・・・」
「白い歯がキレイだよね」
「怖くない?」
「怖くない、怖くない・・・。宣伝だよ・・・」
「僕は・・・」
「へぇ〜。あれ怖いの?」
「・・・・」
「横見てごらん。マツダランプの電球の宣伝もあるよ。アッチの方を見と
きなさいよ」
「うん・・・」
「変なの・・・。女みたい・・・」
変であろうがなかろうが、怖いものは怖い。亜紀ちゃんにはわからないの
だ。
「早く行こうよ」
「いいよ。早く行こう」
闇雲に走った。亜紀ちゃんも一緒に走った。帰りついた時はもう足元まで
真っ暗だった。
はあはあ言いながら玄関の戸をひき開けると、その場でズックを履いたま
ま、バタンと板の間に倒れかかった。亜紀ちゃんはまだ余力があるのかそ
のまま、奥の方に行ってしまった。
「おかあさん、着物貰ってきたよ。トクちゃんの着物だよ。風呂敷はまた
返してって言っていたよ」
「そう。どれどれ見せてごらん」
「これ・・・」
「いや〜。これは立派な風呂敷だよね。縮緬の高級品だよ」
「開けてみて・・・」
「はいはい。少し待っていてね。あら、菊ちゃんは?」
「玄関・・・」
「どうしているのかしら?」
「倒れているよ」
「えッ、倒れている」
「走って帰ってきたから・・・」
「そう、それじゃ仕方ないわね。見せてね・・・。これは凄いね。履物ま
で全部揃っているのね。完璧・・・」
「もう、一枚あった・・・」
「どのようなものだったの?」
「少し小さい・・・」
「じゃあ、もう少し前の七五三の時?のかな?」
「そうみたい。菊ちゃんなかなか来ないね。少し行ってみる・・・」
母はその場で座り込んで、そのオベベを見ていた。
「お母さん!大変。菊ちゃん倒れている。息していないよ」
母はその着物を投げ捨てると、玄関に急いだ。菊ちゃんがうつ伏せたまま、
そこに絶えていた。
「あっ、大変・・・」
引き起こすと、ツッ〜と大きな息をした。顔は蒼かった。
「大丈夫、気を失っているだけ・・・」
トボンとした目で起こしたままの姿で見ている。
「大丈夫かい?」
母が尋ねても、何が起こったのかわからないようにボ−としている。
「さっき亜紀ちゃんと帰ってきたでしょう。
「うん、歯磨粉が怖かった・・・」
「走って帰ってきたじゃない?」
「覚えていない・・・」
「じゃあ、何で玄関で寝ているの?」
「わからない・・・?」
「お母さん・・・、菊ちゃんおかしいよ」
「もう帰ってきたのだから、いいじゃない。昔から体力には弱かったから
ね。亜紀ちゃんみたいに履物がアッチコッチに脱ぎっぱなしには成ってな
いよりは良いですよ」
「だって急いでいたんだよ」
「急いでいても・・・です」
「菊ちゃん、どこまで覚えているの?」
「歯磨粉は覚えているよ」
「後は?」
「しらない・・・けれど走った。途中でわからない」
「まぁいいじゃないですか。とりあえず帰ってきたのだから・・・」
「私なんか、いつも全部覚えているけれど・・・」
「亜紀ちゃんと違うのよ。菊ちゃんまだ小さいでしょ。だからまだそれ程
強くないのよ」
「学校でも弱い子いるよ。すぐバタリと倒れる。女の子みたい」
「そうじゃないでしょう。じゃあ、あなたは男の子なの?」
「そう。みんなに言われる・・・」
「でもね。今お化粧しているでしょ。可愛いってすぐ思ったわ。久松さん
の奥さんとても化粧上手なのね」
「菊ちゃんもしてみたの・・・」
「菊ちゃんも?」
「女の子になったんだよ」
「女?」
「トクちゃんの着物があったんだよ。それでそれを着てみた」
「ふうん???」
「トクちゃんのお母さん美容師さんだったんだって・・・。それで着物を
きた後に少しだけ顔に化粧して、頭も触って・・・」
「菊ちゃんが化けてみたわけ?」
「よく似合っていたよ」
「そうかな?」
「それがネ。トクちゃんそっくりなんですって・・・」
「そういえば、そうかもしれない。気が付かなかったけれどそうかもしれ
ない」
息を吹き返してボ−としている菊ちゃんを挟んで、一生懸命二人で話して
いる。
「向こうのお母さん、マジマジと菊ちゃん見ていたよ」
「そう・・・」
「菊ちゃん・・。女の子になったんだって?」
「・・・・」
「まだこの子寝ぼけているみたい」
私は何がどうなったのか理解できない。頭の中も整理が出来ない状態なの
だ。ただボンヤリと輪郭の分かる記憶を辿っている。
「それよりも、持って帰った着物見よ!」
「菊ちゃんも一緒においで・・・」
お母さんに引っ張れるように、今度は居間の広間に行った。
袋から出された七五三の一式は華やかな花園のような光景だった。
「今時よくこんなに揃えられたね」
「昔はお金持ちだった・・・」
「それとね。どこの親も子供の幸せのために精一杯の事をするのよ。本当
はお金は関係ないことなのね。できなければそれはそれでいいのよ」
「向こうで見ていた時はそうでもなかったのに、ここでは凄く立派に見え
る」
「元々いい着物なのよ」
「お母さん専門家よね」
「針の尻押し・・・の」
「菊ちゃんのはどうだったの?」
「よくは見ていなかったけど、もっと華やかな感じはした」
「普通は三歳から七歳まで使えるように造るのよね。生地の断ち方が基本
的には全然違うのだけれど。無理やり上げをして使うのよね」
「亜紀ちゃんの今の着物?」
「そう。あれは幸ちゃんのお下がり。それでも十分・・・」
「あれでもいいよ」
「でもこれの方がもっと立派よ」
「亜紀ちゃんには分からない」
「写真撮ってあげなきゃね」
「写真は撮ったよ。たくさん・・・」
「写真機あったの?」
「借りてきたらしい」
「じゃあ。亜紀ちゃんのはいいよね。これ着なくても・・・」
「亜紀ちゃんはこっちの着たいよ。だってこれトクちゃんのものだったも
の・・・。大切なお友達の代わりに私が行くの・・・」
「ああ、そうだったよね。家にあるのはお正月だって着れるものね」
「そう、お正月に着るよ」
「写真はいつ出来るの?」
「分からない・・・。それに菊ちゃんも撮っていたよ」
「えぇ〜。菊ちゃんのも・・・。女の子の着物で?」
「そう・・・」
「え。それは困ったね。他に見せびらかしたりしないでしょうね」
「わからない」
「行って聞いてみようかしら・・・」
「トクちゃんとよく似ていたって喜んでいたよ」
「それにしても・・・」
「わりとキレイだった」
「菊ちゃんはどうだった?いくら女っぽいと言ったって・・・」
私が女ってぽいって?本当だろうか?自分の母からそのような話を聞くの
も初めてだった。
「わからない・・・」
「いつも優柔不断だものね。だから菊ちゃんは皆に利用されるのよ」
「貴方はもっと自分の意見をシッカリ持つべきよ」
「・・・・」
自分としてはシッカリ持っているつもりだった。このような事はどうでも
良いことだった。
亜紀ちゃんは言う。
「シズニイと何か悪い遊びしているのじゃないか心配・・・」
「悪い遊びなどしていないよ。それに近頃は祖父ちゃんの所に行っている
し・・・」
「あのヤクザの・・・。菊ちゃんは行った事あるの?」
「ないよ。だってあそこは大人が行くところだって言っていたよ」
「菊ちゃんは子供だものね」
「僕いかないよ。だってあそこは怖いもの・・・」
「亜紀ちゃんと遊んでいる方がいいよね」
「ううん、本当は幸ちゃんがいい・・・。」
「亜紀ちゃんは怖いの・・・」
「うん」
「菊ちゃん、ハッキリ言うね。後で覚えておきなさい」
「でも、本当は優しい」
「もう遅いよ」
「もういい加減にしなさい。菊ちゃん写真撮ったの?」
「うん、撮ったよ。あれは、あそこのお母さんの思い出に残すって言って
いたよ。トクちゃんの写真がないからじゃないかなって思っているけど・
・・」
「亜紀ちゃん、トクちゃんに似ていた?」
「知らない」
「僕は知らない。でも明日又行く事になっているよ」
「何で?」
「着物を貰いに行く」
「トクちゃんの?」
「そう、前の着物。この着物と一緒に入っていたんだよ。ただ、まだトク
ちゃんの何かがあるのかな、離したくないらしい」
「それで・・明日は・・・?」
「亜紀ちゃんは行けないので、僕一人で行ってくる・・・」
「お母さんも一緒に行こうかな?」
「いいよ。一緒でも・・・」
その一日は気分が高揚した一日だった。夕食をとると眠気が襲ってきた。
次の日もいいお天気だった。昨日のあの白い歯の顔を思い出すと、背筋が
ゾクゾクと何故かしてしまう。
今日は早く行って早く帰ろう・・・。それがいい・・、それがいい・・。
自分の中に何度となく言い返した。
亜紀ちゃんも学校に行ってしまった。いつも残る私は母の傍でいつも暮ら
している。一日過ぎてしまうとその次の日も同じだ。
「今日は久松さんのところにいくのでしょう?」
「そうだけれど、お母さんはどうするの?」
「やっぱり仕事が忙しいから、あなただけで行って来なさい」
「ふぅ〜ん。それじゃ行ってくるか・・・」
重い腰を上げた。
「何時ごろ帰ってくるの?」
「分からない。昨日みたいに遅くはなく、早く帰ってくるよ」
「写真の事はシッカリ聞いてきなさい」
「分かっているよ。もうぅ〜」
外に出ると昨日とは違うように思えた。確か上の道を左の方に行けばいい
筈だ」
一人で出るのはもしかしたら、初めてかも知れない。
真直ぐ真直ぐに歩いて行くと、知っている所に出るはずだったが無い。道
は間違っているわけではないのに。繁華な街を通り過ぎて不安になって来
た。見失ったか・・・。
もうこの辺りで左に曲がらなければ行き過ぎてしまう。思い切って曲がる
とここも全く知らない所になってしまった。大きなお茶屋さんからお茶の
香りが道路まで零れ落ちる。大人はどうして覚えるのだろうか不思議だっ
た。心配になって元の道まで戻ることにした。左に曲がると今度は全く知
らない交差点に出る。左左と曲がったのだから・・・。もう心配は極度に
あがってしまう。どうしてだろうか?もう闇雲に歩く・・・。
歩き疲れて右に見覚えのある看板が見える。スモカの歯磨粉の宣伝看板だ。
確か左に見えなければいけない看板が右に見える・・・。頭の中が混乱し
て全くわからない。
その看板を背にして正面を見ると確かにその建物だった。
半分恐ろしい道路音痴から開放されると思うと、勇気が少し出てきた。
ドア−の前に立つと、何と言って呼び出せば良いのか。また考え込んでし
まった。
ノックすると直ぐに反応してきた。
「菊ちゃん?」
「そう、ボク・・・」
「よう来られたね。私はお母さんか誰かと一緒に来るかと思っていました
よ・・・待っていたんだよ」
「お母さん言っていたよ。写真はどうするのかって・・」
「あの写真は私専用の写真なの・・・。トクちゃんの面影が少しでも残っ
ていればそれだけでいいのよ」
「残っていなければ・・・」
「写真は全部あげるわよ。トクじゃないもの・・・」
「ボクにはわからない」
「とりあえず、入りなさいよ・・・」
私は入るなり、面食らった・・・。
「ごめんね。抱き上げていい?」
そう言う間もなく、シッカリ抱き上げられて、頬を擦りつけてきた。
「なんだか昔のトクちゃんみたいに柔らかい・・・」
私は苦しい、それにどこにも掴まるところが無く吊り上げられている。腕
の脇が少し痛い。
オバサンはこのまま上に上がって行った。
「僕、下駄はいてるの・・・」
「いいのよ。ここに重ねて置いておけば・・・」
さっさと履物をとると私を膝の上に乗せたまま、また後ろから抱きしめて
来た。
オバサンの息が荒く聞こえる。
「少しこのまま、していてもいい?」
嫌とも言えず、黙って頷いた。
「菊ちゃん。ここにいる時だけトクちゃんと呼んでいい?」
これも黙って頷いた。
少しづつ荒い息使いも落ち着いてきた。気が付くと私はトクちゃんのお母
さんの胸の中にいた。もしかしたら心臓の音が聞こえるかなと思った。
少し肌蹴た胸に耳をぴったりと押し当てた。
ドクドクとシャ−という音が交互に聞こえた。
よく聞こえる・・・。静かにしていればそればかりの世界になってしまう。
この肌の持ち主もそれを黙って受け入れている。冷たかった耳もほんのり
とその温かさが伝わってくる。
今までの緊張感と反比例して、心地よい温かさが眠気を誘う。
目を閉じなくとも、自然と目蓋が下がる。
いけない、いけないこれは布団の中でもなんでもない。オバサンの胸に上
なのだ。スックリと包まれたこの自然の温かさは人間には避けれない安心
感があるのだ。
「あれ、眠たくなったの?」
「ううん。でも・・・」
「トクちゃんみたいだね。トクもよくオッパイを飲みながら寝ていたよ」
「僕は飲まないよ」
「そう。でも眠たいのでしょ」
「うん・・・」
「ちょっと待ってね。軍隊で使った毛布があるから出してくるからね」
「家にもあるよ」
「ここのはキレイなのよ」
私はそのままで良いと思っている。持って来るからと言って私はその温か
いぬくもりから離されてしまった。
「この毛布ね。本当は戦争に外地に行かなければならないところ、戦争が
終わって、ただ貰いに行ったという状態なのよ。その後も勿体ないから、
他の人にあげていたのよね。それが火事になってその人から困っているだ
ろうからと言って返してきたの・・・」
ほとんどその話は聞いていなかった。今までの疲れと緊張感がこのホンワ
カとした温さに崩壊してしまうように感じた。
静かに被さる毛布とトクちゃんのお母さんの温かさが私を包む。
毛布を頭から被ると昼間でも夜のように暗い。
「トクちゃん・・・。トクちゃん・・・」
トクちゃんのお母さんはヒソヒソ話のように呼びかけてくる。
私もお母さんに抱きつく。
「久しぶり・・・。いつもこうしていたのにね。段々と友達と遊ぶ時間が
多くなって・・・お母さん本当は寂しかったのよ」
そうだったのか・・・。トクちゃんと遊ぶ時はそれほど楽しいものでは無
かったが、その影ではそういう事もあったのだ。
「気持ちがいい。眠たい・・・」
「そう・・・。うれしいわ。そのまま寝てもいいのよ」
ぬくぬくした抱擁の中で、何ともいえない安心感がこの世の全てになって
しまった。
静かになった私に満足してしまった。
気がつくとトクちゃんのお母さんが何かうごめいている。
「あっ、気がついた?」
私の顔全体に柔らかい肌がある。私はこれが何なのかまだわからないでい
た。
諸肌からこぼれ落ちた乳房がこの暗闇でもはっきりわかる。
無意識にそれを両手にしてしまう。
「柔らかい・・・」
「そう・・・。久しぶり・・・。うれしいわ」
トクちゃんはお母さんといつもこうしていたのか?
「トク。オッパイ飲んで・・・。まだ出る・・・」
私はその誘いに素直にその口元にある乳首を吸い込んだ。
「吸うだけ・・・。噛んじゃだめよ、痛いから・・・」
軽く吸ってみた。ジワッとこぼれ出る甘い味と香り。あまり出ないけれど
間違いなく口の中には甘い味がする。濃いキャラメルのようだった。
「出るでしょう?」
「うん」
口に含んだまま言葉を返す。
「あまり強く吸わないでね。トクはちゃんと吸う力を知っていて上手に吸
っていたから・・・、赤ちゃんの時から極最近まで吸っていたから・・・
ホラッ・・・」
乳房を私の口元に強く押し当てる。
「前よりもっと出てきたでしょう。女の体は自然そうなっているのよ」
前よりは薄いが確かに水分は多く出てきている。
「両方出ていたから多分、反対側も出ると思うよ」
その反対側も私の口元に差し出す。両方の肌蹴た谷間を越えて新たな呼吸
をする。
噛まないで吸うだけではとても頬の下がつらい。
適度の温かさと口だけの単調な運動は、私の脳を眠りに誘う。
「あら、トク・・・眠たくなったの。いつもだよね。こうしているうちに
寝てしまうのは・・・。私も寝てしまうけれどね」
「もう、眠たいよ」
私は乳首を含んだままそう言う。
「いいのだよ。寝ても・・・」
「うん」
その言葉を聴くとまた先ほどとは違う、大きな眠りに就いた。
ホッと気がつくとまだ自分は口元より、沢山の唾が流れ落ちているのが気
がついた。
「アッ」
私はヨダレを思い切り大きく啜った。
それでもダメだった事はわかっていた。ヒンヤリとつめたい感じはもう零
れたヨダレだった。慌てて起きた私の目に飛び込んだその下は仰天する程
赤い血色だった。
「あっ・・・」
叫んだまま、もう一度凝視した。
いつの間にか、もう一つの女体はなくなっていて、そこに見覚えのある枕
の上に私は寝ていた。
「あっ。トクちゃんの着物の上・・・」
その取りはずされた一枚の布に、とんでもない地図を作ってしまった。
「あら、起きたのね・・・どうしたの?」
「これ・・・」
「何、これって?」
「ヨダレ・・・」
「いいじゃないの?洗濯に出すから・・・」
「これは?」
「トクの着物の片袖・・・」
「トクちゃんはお姉さんでしょう。まだオッパイ吸っていたの?」
「そうなの、それがどちらともなく赤ちゃんの時からの習慣だったのよね、
やめられないまま、ほんにこの前までしていたものだから、自然とオッパ
イが張って、誰でもいいから私のオッパイを吸って欲しかった。夫は気持
ち悪がるし、トクの物だったので触りもしない。だからなんとなしに気持
だけが高揚していたのよ」
「亜紀ちゃんだったら、同じ歳だよ」
「でも、あの娘には女性を感じない・・・。菊ちゃんには普通以上に女性
と言っても、トクを感じるのよ」
「僕は・・・」
「どうしても、菊ちゃんを私が欲しかった・・・」
「トクには私の分身としてずッ〜といたものだから、気が狂いそうだった
のよ。それが菊ちゃんを見てから後、自然と落ち着いてきたの・・・不思
議でしょう」
「シズニイと一緒に遊んでいても、何かが違うと思っています。あのよう
に荒々しくないし、もっと自分には他に生き方があると思っていた・・」
「それでこの赤いオベベの片袖を一生持ち続けてみたいと思ったのよ。し
かも菊ちゃんの記憶もここに留めて・・・」
「それで片袖なのか・・・」
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