「花からたち」
[祝言](1)
「お父さん、母子草ってよく知っていらっしゃるのですね。それがそうで
すか・・」
「そうだよ。春の七草の別名オギョウという名前もあるしね。見れば柔ら
かい産毛で包まれているように思うだろ・・。私は母がこれをお餅に入れ
て団子を作ってくれたことを思い出すのだ。母の遠い思い出なのだよね」
「私の家ではヨモギでしたよ」
「ヨモギもしたけれど、早春の最初の頃は何故かそうした。理由はわから
ないけれど・・・」
「そうですか。私はヨモギだけです」
「だから母子草は私にとっては母の思い出とつながっているのだよ。あの
柔らかい産毛に包まれて・・・。父子草もあるのも知っているかい?」
「それは全く知りません」
「母子草に比べて少し、貧弱なのだよね。母に対して父なのだろうけれど、
ヒョロヒョロして頼り甲斐ない。あのような名前を付けて欲しくないね」
「そのような事にこだわらなくてもいいですよ。お父さんはお父さん。男
だとか女だとかそのような事・・・。ね。菊ちゃん」
又、私はギクッとした。
この子が成人を迎える頃には、男は男。女は女などとうるさい事を言うよ
うな時代ではなくなっているかもしれない。
「私はだね・・・。母子草に比べて父子草は女々しいと言ったのだよ。別
の名前の方がよかったと思っているのだよ」
「私は父子草を知りませんからはっきり言えませんが、それを例えば継子
草とかにしたらいいとでも言うのですか?父は強くて立派なものに例えれ
ばいいとでも言うのですか?今は女性も選挙権が与えられて、たくさんの
国会議員も誕生しました。これからは皆平等です」
「まいったな〜。そのようなつもりで言ったわけじゃあないのだが・・・、
今度見つけたらその父子草を持って来て見せるよ」
鼻緒も何となく早めに作ってしまった。追い詰められると仕事が雑になる。
国全体が民主主義だとか、平等だとか、今までとは違う方向に大きく動い
ている。エラそうにしていた親や、先生の権威が失墜してしまう。街には
横文字が氾濫して、小便くさい街角には派手な色のパンパンガ−ルが立つ。
世は様変わりだ。カ−キ色にいやがらせするような派手な女性が出現して
いる。横目で見ながら何故このように激変してしまったのか、それさえも
理解できていない。
私は時代に即応できない自分の性格をよく知ってもいるし、無理して合わ
せようとも思っていない。
「この子は大丈夫だろうか?」
「大丈夫ですよ。この子は別に問題はありません。見えないところだし何
かあっても、松本先生もああ言ってくれますし・・・。ただこの子が物心
ついての事はとても大切ですから、あなたともよく話しておかなければな
りません」
「そうだね。もうそろそろ話をしておかなければいけないね」
「松本先生とも同席してもらうといいと思いますよ。時々検診を受けてい
ますがその時に話してみましょうか?」
「何を話せば良いのか、話さないほうが良いのか私にもわからないから・
・・そのほうがいいね。河合も七五三の時の影響があったからなのだから、
とても子供の時は大切なのだよね」
「学校に行くようになると、それぞれの個体差が成長の違いになってきま
すから、こわいです」
「今、河合の家ではいよいよ大詰めのところになっている。少し後になっ
て松本先生に相談してみよう」
「そうします。お父さんも一緒にお願いしますよ」
「わかった。そうしよう・・・」
春には間違い無くなっているのだが、フワフラとした綿雪が舞っているそ
の日は静かな春だった。
「帰ってきました。大体の祝言の予定が決まりました。どうすべきかはこ
れから大変ですが、よろしくお願いします。
「仲人さんはどうしたのですか?」
「仲人さん?」
「いや、どうしようかと困っているのです・・・、両方を知っている人が
いないのです。塙さんなどは最適ですが・・・。どうです?」
「いや、私は歳が若いし、それだけの器量がない」
「そのようなことないですよ」
「それにそのような地位にもない」
「大丈夫です。引き受けてくれれば道は開けるものです」
「いままでやった事はありません」
「やった事ないことはだれでも同じですよ。やってみましょう」
「いや、あなたの家は名門ですし、もっと他の有名人が仲人などを担当す
るべきです」
「そのような事はありません。今は時代も変りました。前のような前時代
的な結婚式はあげようとは思っていません。それに今は食糧難です。一人
だけ贅沢なことをしようにも出来ない状態です。する気もありませんから
安心していてください」
「それじゃあ。どのような事をすればいいのですか・・・」
「ちょっと破天荒になるかも・・・しれない」
「前はどうしたのですか?」
「大変だったらしいですよ。昔のしきたり通りにやったらしいです。伝承
している人がその時に居て、それをするのが当然だということだったらし
い。その人はそれが仕事でしたから何かある毎にその通りやっていました。
それがその人が亡くなりましたら、全てが初めての事になってしまいまし
た。それでも人間ってなんら変化もなく普通に生活できるのですね」
「不思議ですね」
「そのしきたりって何の役目をしていたのでしょうか?」
「それはそれで必要だったのでしょう。それが生活の全てだった事だって
あったのですから・・・」
「仲人などと大それた事。それに河合さんの親戚のあのデップリと肥えた
方などにどのように言われるかと思うと心配です」
「あの人ですか・・・。あれは私も困っているのですよ。父がいる時はと
ても従順な人でしたが、父は亡くなると急に元気になって、何かかやと言
うのです。あのおばあちゃんも困っていました」
「親戚の誰に当たるのですか?」
「父の弟のようです。養子に行って河合を名乗っていませんが、養子縁組
の時の怨恨があるらしく事ある毎に問題を言ってくるのです。養子先では
一応成功していますので元気になる理由の一つになっているようです。そ
れでも私の事は目の上のタンコブのようなもので、単純に家督を相続した
だけじゃあないかと思っているようです。婚姻届のハンコは絶対の押さん
ぞなどといっていますが、戸籍法の改正などありますから、全然意味がな
いのですけれどね」
「その人はそのしきたりなど知っているのでしょうか?」
「知っていません。私が今一番知っています。伝承者はいませんが、それ
を伝承しようと思えば今でもできますよ」
「それをするつもりですか?」
「先ほども言った通り、それをするつもりはありません。破天荒な事にな
るかも知れませんが・・・」
「誰かにそれを伝える事はありませんか?」
「そうですね。貴美子さんには伝えようと思っています。だから式自身は
とても簡素にしますが、内容はとても重いものにしようと思っています」
「貴美子さんは?」
「それでいいと思っています」
「私は何をすればいいのでしょうか?」
「とりあえずは色々な物を集めなければいけません。簡単に入手できるも
のから、季節柄手に入らないもの。それにナマ物で直近でなけれないけな
いので大変なものまであります。家に女中さんでしっかりした者を一人付
けますから、その人と協力してやってください・・・。一番最後の式その
ものはとても簡素なものです。見たらわかります」
「わかりました・・・」
「それではやっていただけるのですね?」
「今時、物がありませんから大変ですよ。何か代りになるもので代用する
ことになるかもしれません」
「それでは少しだけですが、お話しましょうか?」
「今、聞いても忘れるとは思いますが・・・」
「それじゃあ、忘れない程度にお話しましょう。まず本当は貴美子さんが
まだここに居ないという、つまり嫁入り前の話が普通なのですが、現在同
居しているので、式前の話は出来ませんが・・・。当日だけ別の所に宿を
とってここに来てもらいます。そこから始めるようにしようと思っていま
す。使者や随行する人やその役割をこれから決めて行きますのでよろしく
お願いいたします」
「式当日だけなのですね・・・」
「そうです・・・」
「それだけだったら出来そうです」
「いや、本当はその前からあるのですが、それが破天荒な事なのですよ。
それでも色々な用事がありますよ。この都会では今や雉を集める事など
出来ないかもしれませんが、今頃から話しておけば大丈夫でしょう」
「雉を何にするのですか?」
「嶋臺飾りにするのですよ。正確にはそれに添えるのですが・・・」
「・・・?・・・」
「嶋型の臺の上に五葉松があってそれに鶴や亀などを水引で作りますその
作り方もあるのです。五葉松も水引で作りますが、今ではとても無理です
から、本当の盆栽の松を使います。昔は何ヶ月にもかけてその嶋臺飾を造
ったものです」
「先に言っていた雉は何に使うのですか?」
「雉は床飾りの四足台の大小の内の小に飾ります。鯉と対になるのですが、
鯉もナマモノですから、生きの良いものでなければいけませんし、飾りに
した時は濡れ過ぎていたり、または乾き過ぎもいけません。丁度頃合がと
ても難しいのです」
「その他には?」
「勝栗とか、スルメとか、熨斗等コジャコジャとしたものがたくさんあり
ます」
「花嫁衣装などは?」
「この家の花嫁の白無垢は、二代くらい前から同じものを使っています。
今回もそれを使います。その前は黒の花嫁衣裳だったらしいのですが、今
は蔵の中に入ってそのままになっています」
「何でもあるのですね・・・」
「あのお蔵の中は見たことも入った事もありませんが、こちらに引越しす
る時は大変でしたでしょう」
「大方はツヅラに入っていますからそのまま持ってくれば解決します。た
だツヅラが古くなると底が抜けたりしますから、そのような事がないよう
に板で補強したりして持ってきました。いざと言う時のために鉄の閂がつ
いていますのでそれに棒をかけるだけでいいのです。とりあえずは何も見
ずにそのままここのお蔵に入れましたが・・・。さてその花嫁衣裳はどこ
にあるのやら・・・。また家捜し、いや蔵探ししなければいけません。あ
るのは間違いないのですが・・・」
「貴美子さんは・・・」
「彼女のものですから、一度本格的に蔵を調べてみたらいいですよ。花嫁
衣装もきっと出てきます。使ったらまた当分の間使いませんから、これを
作ってくれた所に持って行けば、きれいに染抜洗濯してくれます。何も苦
労はいりません・・・」
「一度探してみます・・・」
いつもは能弁な貴美子さん。国に帰ってから後、少しおとなしい。
「それに大変なのは祝言なのですよ」
「シュウゲンって何ですか?」
「祝言って、高砂ですよ・・・?」
「高砂って?」
「それ・・。謡とか能とかに出てくる」
「ああ・・・それ・・、全く知りません」
「それを一晩中謡うのですよ。眠たくなったら他の人が・・・。基本的に
は高砂ですが、謡の目出度い曲趣だったら何でもします。式が終わって寝
所に入る頃から謡い始めて、翌朝明けるまで順番に謡います。それは親戚
皆しますが、外から入ってくる人は初めての事ですから大変です」
「そのような事やっているのですか?」
「そうです。高砂の始めの、今を始め乃旅衣って始まるとゾ〜とします。
延々とやるのですから、上手下手も関係ないのです。上手はまだいいので
すが、下手なのは苦痛です。私もその類ですから・・・寒気します」
「私は全く知りませんが・・・」
「知らない人は読んでもいいのです。それは本屋さんに行けば売っていま
す、高砂って言えばわかります」
「そうします。何かわかりませんが、そうしろって言えばそうします」
「まあ、朝まで謡う必要はありませんが・・・」
「貴美子さん所の親戚は・・・」
「練習するって言っていました」
「知っているのでしょうかね〜」
「あの辺りは昔盛んだったらしいのです。今はそうではありませんが、老
人にはかなり知っている人がいるようです」
「私にはかなり大変です・・・」
「概ねそのようになりますが、それでいいですか?」
「それでいいです。何とかなるでしょう・・・、それで世に中動いて行く
ものです」
「それじゃ、これで私は用事がありますので、これで・・・」
河合はそそくさとこの場を去って行った。
彼が去ると貴美子さんが待っていたように口を開いた。
「彼の女装のことなのですが・・・」
「そう、そう・・・。その話が聞きたかったのです。あなたのお父さんと
意気投合したのではありませんか?」
「そうとも、そうでないとも言えます」
「そうでないと言う事は、何が違うのですか?」
「かなり違うところがありますが、やる事は同じ事なのですが・・・」
「お父さんは化粧から入ったのでしょう。化粧は自然の物を使う専門家で
すからね、少し違うかもしれない。それに化粧歴史にも詳しいし、それも
少し違う」
「河合の場合は、七五三が引金になっているだけですからね」
「最初はそのような話はなかったのです。まずマルイチさん所に行きまし
て、この前の話を蒸し返すような事はしないという亊をお伝えいたしまし
た。行きの坂道の途中ですから先に用事を済ませました。以前、塙さんが
来た時よりもマルイチさんは緊張していたようです。もうお歳ですからこ
れが最後のお出会いになるのかもしれません。私は以前と違って今度は河
合の所にお嫁に行くのですから、とても前のマルイチさんの対応と変わっ
てしまいました。本当はマルイチさんにとってはウエノイケの娘には過ぎ
ないのでしょうけれど・・・。でもとても喜んでくれました。あの村の子
は皆同じ自分の子供みたいものですから・・・」
「あの大きな屋根が雪で埋もれているのを想像すると、童話の世界のよう
ですね」
「現実はそのようなものではありません」
その通りだと思った。よろしからぬ発言に少し悔いた・・・。
「マルイチさんは以前は河合のお父さんしか知りませんでしたので、あま
りの違いにビックリしたそうです。お父さんは恰幅のある人だったので、
想像していた人と違う小柄で機敏に動く河合をみて、何か戸惑っていたよ
うですが、話始めるとなかなかよく話のわかる人だったので安心した様子
でした」
「そうですか・・・。私も河合のお父さん知っていますが、そのような感
じですね。だた河合はとても頭がよく、活発ですから本当はあのお父さん
より優れているのではないかと思っています。経済活動や社会活動はお父
さんの数倍の働きをしているようです。今は時流に乗っています」
「私は知りませんが、確かに活動は凄まじいものがあります。いつも家に
はいませんが、カバンの中身はいつも重い・・・。ようです。それでも女
装をしているのですから・・・。あのエネルギ−はどこから来ているので
しょうか?・・・ね」
「そう。その女装のことだったのですが・・・」
「私の父の所に行っての事でした。挨拶が終わると、先ず単刀直入に話始
めました。いつもはあまりこう言う場には出ていませんが、ああ河合は話
を詰める時はこのようにするのだなって、思いました」
「貴美子さんと結婚したいと言ったのですね」
「そうです。それに彼はこの辺りでは有力な山持ちです。昔はこの辺りと
言っても平地の方ですがそこに住まいがあったらしいのです。だから私の
家紋と河合の家紋が一緒なのは無理からぬ話なのです。マルイチさんはそ
のお祖父さんにお金を借りて、それで山を失いました。皆がよく知ってい
るの話なのです」
「それは私も聞きました。結婚の話は順調に進んだのですか?」
「進みました。こうなれば河合の考えている通りに物事が運びました。父
は具体的には何も持っていませんでしたので、何ら反対もしませんでした」
「一方的に終わってしまったのですね・・・」
「そうです・・・。それで例によって塙さんが来られた時と同じように、
化粧の話になってきたのです。父はこの人は大丈夫と思う人には必ずと言
って良いほど、化粧談義をします。長年の研究の成果は人に話したくなる
のはいたし方のない事です。父は母との出会いをとても大切に思っていま
すし、それが結果として今も延々とこの田舎で研究が出来るのですから、
本当は恵まれた状況にあると思わなければいけないのでしょう」
「先に話した化粧と女装はどのように意見の違いがあったのでしょうか?
私にはわからないのです。同じように思いますが・・・」
「まず、父がこの前と同じように化粧について話始めました。何ともそれ
を河合さんは黙って聞いているのです。その話を興味深そうに耳を澄まし
して・・・。父は河合が女装をするなどとはこれっぽっちも知っていませ
んから、以前の結婚の話と違って得意になって話しています」
「それじゃ、やってみましょうかって言わなかったのですか?」
「言いました・・・。それからはとんでもない事なってしまったのですよ。
化粧の一番大切なのは下地です。河合にはそれが全くわかっていませんで
したので、今までは自分の顔に洗顔もせずにただベタベタ塗り重ねていた
だけとちがって、基礎基礎って話しているのに呆然としていました」
「それで実際に化粧をどのようにしたのですか?」
「父は自分の部屋に彼を連れて行きました。いろいろなビンに入った植物
や鉱物、末は動物まで結果としてよかったものが、棚一杯に並んでいます。
私も父だけその資料が知っているだけで、私自身は良く知りません。時々
話の上だけにその効果を話してくれるだけです。私はそこまではしようと
は思っていませんのでいい加減にしか聞いていません。話もわかりません
ので途中でその場を離れました。それに女同士、母にだけに話しておきた
い事もあったのです」
「河合もしたのでしょうか?」
「してはいないようでした。実際は私もみていませんから確かな事は知り
ませんが、父は自分の顔に化粧をしたのは確かなようです」
「河合はストレスが溜まったのじゃないですかね?」
「そうみたいです。帰って来てからよく自分の秘密の部屋で、何かゴソゴ
ソしていますから・・・。その教えてもらった基礎なのか、それともスト
レスの反動かもしれませんが、余計に加速がついたようです」
「その結果はどうでしたか?」
「上手にはなったようです。父の影響かも知れませんが、洗顔はとてもこ
まめにしています。それで化粧のノリがよいのでしょう。不自然さが段々
と取れてきているようです」
「化粧品は貰ってきたのはあるのですか?」
「貰ってきたのもありますが、具体的にはこれがどのようなもので出来て
いるのか、製法はどうしているのかは全く知りませんから、今あるものを
一滴でも貴重品扱にしているようです」
「よく頂けましたね・・・」
「そうなのです。河合は素直に自分が女装すると言ったらしいのです」
「言ったらしい・・・?」
「そう。言ったらしいのです・・・。それは父から直接聞いたわけでも河
合からそのような話をしたという事でもありません」
「そうではないかと言う事なのですね・・」
「父は化粧の仕方を丹念に最初から、教えていたようですが・・・、私に
はまだキッチリ教えた事などありません。部分々々は聞いたことはありま
すから、一応はいいのでしょうけれど私などいつも不安です。それに比べ
て父はとても自信をもっています。専門家なのですね。特に男性特有のヒ
ゲの処理の仕方や化粧で隠す仕方など、いろいろ研究しているみたいです
よ」
「実際の化粧品屋さんではあまり用がありませんよね」
「そうでもないようです。例えば女性でも大きなアザがあった場合はその
アザを隠す必要があるわけですから、化粧の大きな役割があるわけです。
父が言っていましたが、化粧は単に装うだけからその下の深層心理に至る
重要な役目を持っているらしいのです。できれば男性にもそれに相応しい
化粧は絶対に必要だと言っていました。今は女性のものだと思っています
が、父は以前よりそのように言っていました」
「そう言えば役者さんの化粧でもなんとなく青く見えますね。私も近くの
芝居小屋に行って見たことがありますが、薄く見えています。河合の時は
どうだったかな〜、良く憶えていない」
「その話をかなり細かくしたみたいです。でも父と彼の大きく違うのは化
粧は化粧そのものを進化させるための研究と、女装のための化粧とはかな
り隔たりがあったようです。父は女装は化粧の結果ですが、彼は化粧は女
装の手段にしかすぎないのです。若干の温度差が少しず食い違いをみせて
くるのはいたしかたない事です」
「それほど大きな違いだとは思いませんが・・・」
「私もそう思います。譲歩するようなことでもありませんから、本当はだ
れにも知られたくない事を話せたのではないでしょうかね」
「私にもまだ正面切って話はしていませんし・・・。そのチャンスも話の
話題もありません。貴美子さんもまだ話していないっていう事になってい
るのでしょう?」
「そうです。まだ彼から話していいという話にはなっていませんので・・」
「かなり詳しくは知っているのですが・・・」
「そうですね・・・。でもそれで幸せっていう事もありますし・・・」
「その後の化粧は変ったのでしょうか?」
「変ったのだと思います、と言うのは、あまり外には出てこなくなったの
です。いつも中に居て何かしていますがあまり出てきません。夜間は彼の
部屋の前には律ちゃんと私だけしか通りませんから、ほとんど今度は出入
りがないと言った方がいいでしょうか。まだその後は日も浅いですから、
よくわかりません。そればかりか今仕事も忙しいらしく、いつも急いで出
て行きます」
「一度、会ったら教えてください。どのような事になっているか?興味が
あります」
「あら、塙さんもやるのですか?」
「滅相もない。やりませんよ。貴美子さんがお綺麗だから、何か秘訣があ
るのではないかと探っているのです」
「綺麗って言う事はありません。私はただこまめに洗顔しているだけです、
あとは父の妙薬を少し降り掛けて、はい出来上がりです」
「河合もなるのでしょうかね?」
「なると思いますよ。父は外仕事であのくらいですから、これから数ヶ月
は特に変ると思います」
「式の予定は決まったのでしょうか?」
「決まりましたが、問題が一つあるのです。出席者の問題が出てきました。
彼の方の出席者はたくさんあると思いますが、私の方は田舎なのでこちら
の方に出られません。精々集めてもニ十名そこそこです。彼の方は声をか
けなければいけない人だけでも五十名くらいはいるそうですので大変です。
結婚とはホトホト大変な事だと思いました。それでも彼は今までにはない
大改革をやるのだと頑張っています」
「近頃、新婚旅行などと言うものが流行り始めていますが、それもするの
でしょうか?」
「するらしいですよ。式が終わると祝言が夜を通してはじまりますよね。
その前に出てしまうらしいですよ。親戚は祝言の意味がないって怒り出す
人もいるのではないかと思っていますが、彼はそうするつもりです」
「新婚旅行か?それもいいな。米が配給だから米持って新婚旅行など少し
興ざめだけどしかたないかな?」
「あの人言い出したら、必ずやるのですから・・・それがいい時もわるい
時も・・・」
「実行力があると言った方がいいのかもしれない」
あの人もと言い始めたその言葉は、貴美子さんも彼の嫁になるのだという
裏返しの言葉なのだ。
「お父さんも後一ヶ月ほどしたら出てくるそうです。そうしたらこの家に
お呼びいたしますよ。ここには五右衛門風呂もありませんし、御不浄もき
れいなタイル張りですから心配いりません。お部屋も電気のスイッチが一
つずつ付いていますから、とても便利です。あそこはやっと電気が来た所
ですから、このように便利なものとは思ってもみないでしょう。私は最初
あまりの明るさにビツクリしましたが、今はこれが普通に思えてきました」
「これが普通ですよ、ラジオもありますし・・・」
「向こうは夜になれば、後はただ寝るだけです。土間に降りて明日の準備
をしたり、上に上がって蚕の世話をしたりするだけで、他に何の楽しみも
ありません。都会っておかしな所なのですよね。商店街は夜でも煌々と灯
がついているし・・・」
「それに紛れて、女装して歩く人もいる・・・」
「いいえ、それはいいのですよ・・・」
「そうです・・・、それはそれ・・・」
茶化すつもりはなかったのだったが、まずい言葉の返し方だった。
言葉も詰まってしまった。
実際の所、信州に行って後は彼女は本当に変ってしまったのに、今気がつ
いた。
言葉を選ばなければ・・・。
「貴美子さんの花嫁は綺麗でしょうね」
「いいえ、私など・・・。もっと綺麗な方いらっしゃいますよ」
話を変えようとした。
「河合さんは自分でも着てみたいと言ってましたよ」
「ええ〜。そりゃあ無理でしょう・・・」
「私が終わった後にコッソリ着てみたいって言ってました」
「そのような時間はないでしょうに・・・」
「着るだけじゃあなくって、化粧も・・と・・」
「本気かなあ?」
「本気みたいですよ・・・」
「それが新婚旅行の口実だったりして・・・」
「そうなのです。行ったと見せかけてと言う無理な計画も立てています」
「そのような事は無理ですよね・・・」
「ところが全く無理じゃないのです。女装をするにつけてはそれに協力す
る人がいるらしいのです」
「そのような人が本当にいるのですか?」
「いるらしいのです。男性も女性も・・・」
「そのような事?!?・・・。本当ですか?・・・」
「本当です。女性は美容関係の人らしいのです。化粧は芸者や舞台化粧が
専門です。一般の化粧はサッパリですが・・・。白塗りを含めてできるら
しいのです。勿論、花嫁衣裳の化粧も着付けもできるらしいのです」
「それで河合が思い立ったのですね。貴美子さんはどのように思っている
のですか?」
「先ほど言った通りですが、何によらず、無理をしてその日に花嫁にこだ
わる必要はないと思うのですが・・・」
「そうですね。その通りです。同感です」
私は強調した口調で貴美子さんに伝えた・・・。
お嫁さんになる頃には時代がまた変っているかもしれませんから・・・考
えてみれば気の永い話になりそうですよ」
「女性でも同じですよ」
「河合家のものですから、いつでもできるような気がするのですが、持ち
出す時にはそれだけの名目が必要なのも理解できます。それに自分一人で
はできない事だってあります」
「そうらしいですよ。管理は厳しいらしいです。こちらの蔵に移った時だ
って私はほとんど中身を見ていません。箱ばかりを蔵に入れたことしか記
憶ありません。それもホコリだらけで・・・」
「貴美子さんの所には蔵はなかったのですか?」
「ありましたよ。それも同じですよ。実際にはその蔵に入ったりすること
などはほとんどありませんでしたから、何が入っているのかは知りません」
「おおオバアチャンの貴重な資料などが入っているのかも知れませんね」
「そのようなモノはないでしょう・・・。多分。それでも河合は本気です
からするかも知れませんから、心配です。何か良案ありませんかね」
「本気なのでしょうから、やらさせたらどうでしょうか?」
「私はかまいませんが・・・」
「予行演習という事で、本式に化粧もしてみたら・・・」
「面白いかもしれません。このような事言って良いのかわかりませんが、
私の父も参加して本格的に化粧もしてみたら・・・。力量もわかります。
街の美容師さんと協作になりますよ。父の方も力を入れると思います」
「本当になれば、とても面白い事になりそうですね・・」
「人ごとのように言っていますが、当人達は大変ですよ・・・。この計画
だと少し時間が足りそうにありません。これは別にとる必要があると思い
ますが・・・」
「この戦後にこのような事して・・・、ほんの数年前だったら国辱的な事
でしたね。今はそのような事を言われることもなくなりました。いい時代
になりました」
「ただ、河合の親戚やここの仲居さん達には知られたくありません。騒ぎ
になるでしょうから静かにすることが必要ですね。何かいい名目がありま
せんかね」
「今、ちょっとでは出てきません。少し考えてみましょう。いいアイデア
が出てくるでしょう」
この話がどこに行くのかわからない・・・、冗談にしても本気にしても、
このような事が出来ることが考えられるだけでも、時代が大きく変ったと
いう事がわかる。
その数日後、また貴美子さんから連絡が入った。
河合から私的なことで相談があるとの事だったので、急いで行くと玄関先
で河合とすれ違いに外出して行く・・・。
「悪いなぁ〜。直ぐ来るとは思わなかった。今少し予定があるので、細か
い事は貴美子に聞いて貰いたい」
そう言って、寄りつきに待たせてある車の中に入って行った。みるみる変
る流行りの車に乗り込む彼を見て、本当に彼らしいと思った。リンタク屋
の浜口が見ればどのように思うだろうか・・・。
玄関を入ると、直ぐに一番近くにある応接に通された。
彼女はすぐに出てきた。
「これ、河合からです・・・。謡本なのです・・、塙さんにと言うことな
ので・・・」
「ははぁ〜。これが高砂ですか・・・」
そう言って中も見ずに
「ありがとうございました。よろしく言ってください」
彼の細やかな、人を飽きさせない心配りを感じた。
「何の話なのでしょうか?」
「この前の話なのですが・・・」
花嫁衣裳を着たいという切実な彼の希望の声が聞こえてくるようだった。
「花嫁衣装の事ですか?」
私はわかっていながら、念押しの一言を付け足した。
「そうなのです。それで私は父と塙さんの化粧談義をしていた事を河合に
話したのです。塙さんはその点では結構、好意的に見てくれていますし、
理解もしてくれています。それを話した上で、河合の女装の事をちゃんと
理解してもらう為にも女装をしている事を、話してみたらどうか?と聞い
てみたのです」
「私もそれの方が気が楽になります」
「彼はとても恐怖に感じています。まずは彼の社会的な地位のイメ−ジ的
なダウンです。これが大事な掌から漏れてしまう事です。それとこれがと
ても恐いらしいのですが、昔からの親友を失うかもしれないという事なの
です。私は塙さんには相談させていただいていますから、解決済みで問題
はないのですが・・・。彼にとっては一大事件なのです。女装が好きなの
で集まった人達とは違うからです」
「なるほど・・・、そうかもしれない」
「自分の女装の正当制を言っていた割には、現実に立ち返るとそれを主張
できないのですね」
「人間はね・・・」
こわいと思った。自分だって何を頼りに生きているのか、本当はわからな
いのだ。それにしても女は強い・・・。
「今日は本気で塙さんに話をしようと思っていたらしいです。半分観念し
た状態でしたが、どうしても行かなければならない用事が出まして、それ
で行ってしまったのです。でも何時かは河合の口から女装の事を話さなけ
ればならない・・・それが延びてしまっただけです」
「いまさら、貴美子さんと話すような事でもありません・・・ね」
「そうなのですが、先ほど言いましたように一度こちらの方に父母をご招
待しようと思っています。その時に花嫁衣裳を出して、その話をしようと
思っています。ご招待ですから今度は河合の方から使者を立たせる事が必
要があるのです・・・それに、秘密の河合の花嫁衣裳の話がありますし、
その話が出きる人は塙さんしかありません」
「一度、信州に行けっていう事なのですね。しかも密命をおびて・・・」
「また大変なお役になりますが・・・、以前に父と河合は会っていますか
ら、少しはいいとは思いますが・・・」
「お父さんには少しでも話しをしているのですか?」
「全くしていません。何故かは父は河合さんの事をあまり良い評価してい
ないようなのです」
「どこの父親もそうですよ。私の家内の父も私を良く思っていません・・
・それだからと言って拒否する理由はないわけですから、娘親の悲しい抵
抗だと思ったらいいですよ。私もそうなるのかなぁ〜」
「素直に喜んでくれれば良いのに・・・」
「そうですよね・・・・」
もう、言いようがない。うなだれる私も不甲斐ない。
「それで、行ってくれますよね?」
「行きましょう。用件はその花嫁衣裳の事ですよね」
「そうなのですが、結婚式のやり方などもこちらに来て相談したいと言う
事です・・・」
「何時行けばいいのでしょうか?」
「近々、都合のよい時でいいそうです。要は上手くまとめてくれればいい
のです」
「わかりました。やりましょう」
「あとはお任せ致します。河合には私から伝えておきます・・・今日は緊
張して帰ってくると思いますよ。塙さんに女装の事を伝えた事になってい
ますから、本人はもしかしたら塙さんが怒ってもう絶交だなど言われるの
ではないかと、心配している事だと思います」
「それはないとは限りません。心配だろうな〜」
「こう言うことは直接話した方が気が楽なのですよね。今日は進駐軍の指
令官から、学校の認可内定の話があるそうです。呼出しですから絶対に行
かなればなりません。これの方も本決まりですよ」
「順調ですね・・・。私の方は明日でも行けるのですが一つ二つ準備しな
ければなりません。それに貴美子さん・・・。あなたのお父さんに女装の
事、特に化粧の事を伝えていてくれますか。一つ突破口が欲しいのです。
手紙を書いてくれるととても助かります」
「そうでしょうね。私の父は女装をどのように考えているのか、正確には
知りませんから少しこわいですね。河合もあまり話してくれませんから・
・・」
「私の方が聞きやすいかも知れませんね・・・。手紙も簡単に書いてくれ
たらいいですよ。河合が花嫁衣裳を着てみたいって言ってました、くらい
でいいですよ。出発は明後日にします」
「わかりました・・・」
信州に行くには、あの特攻で亡くなった友達の彼女に彼の話を伝えようと
思っている。私には彼が女装していて彼女に迷惑をかけてしまうと思って
いた彼の気持ちを、何とかして事無く伝えなければならない。
未だに一人で過ごしているかもしれないのだ。あの知覧の空の中に散って
しまった友達の心を伝えなければならない。なんと皮肉なこれも女装に関
わっている・・・。
名前も忘れかけているし、住所を書いたノ−トも何処にあるのか探さなけ
ればならない・・・。
家に帰るとまず家捜しを始めた。近頃使わなくなった色メガネや時計や帽
子やいろいろなものが一度に目の前に広がった。ホンの数年前だった事が
もう数年では済まない年数が経っているに気がついた。
古びた物は特にアメリカの色が氾濫するそれとはとても隔絶する・・・。
「ああぁ〜。戦後は定着してきている」
彼の住所と名前を書いたノ−トは、その間からスルリと今に跳び越えてき
た・・・。むしゃぶりついた。彼の顔が浮かぶ・・・。
あれほど熱く話した事も・・・。
能登の輪島に春は来たのだろうか?その夜は軽い疲れが彼の顔を亡姿とし
て消えは現れ、現れては失せてしまう。
「あなた、うなされていますよ」
時ならぬ妻の声に起きてしまった。
「そうか?うぅん・・・。少し・・・な」
大丈夫だ。今少し待ってくれ。亡心よ・・私は今少しで君の願いを果たす
事ができる・・・。
そう心の中で答えた。
肩から貫ける、何かが眠りを誘う・・・。
翌々朝には、信州に向かった。汽車は豪快な音をたたては走る。外は温い
風が舞い、飛び散る・・・。
しかしながら、信州に着くと曇天の薄寒い・・・。
霞む山々は濃紺に影の如く見える。雪山なのに何故に淋しそうにあるのだ
ろうか?
今日は前回と同じ町の同じ旅館に泊まる事にしよう。明日早朝のバスに乗
って行こう。
玄関に立つと昨年の事が夢のように思い出されてくる。そうだよ・・・こ
こからあの北村さんの家に向かい、そして貴美子さんが来て今度は祝言の
話しで私がここに来ているのだ。
大きな声で旅館に訪問を告げた。
「すみません。だれか居ますか?」
相変わらず森閑とした黒い廊下が、冷たく静まりかえっている。
「はい。少しお待ち下さい」
直ぐ横の玉暖簾の内から声が聞こえる。
「今日、泊まりたいのですが・・・?」
「素泊まりですか?」
声の主が近づきながら言う。
顔が見えた・・・。一瞬息を呑んでしまった。
「もしか・・・。塙さん・・・。ですか?」
「あの時の・・・・」
「千代です。花井・・・」
「なんでこのような所に・・・・」
「塙さんこそ・・・」
「偶然です・・・。本当に・・・」
顔が変ってしまっていた。少しの間でもこのように変ってしまうのかと思
う程変化が激しい。
「あれから、河合のおばあちゃん亡くなりまして、あの多田の家に河合が
引越しをしたのです。激変です・・・」
「玄関先では・・・、どうぞお上がりください・・・。すみませんお客様
です・・・」
静かな黒光りする廊下を奥の方に案内する。私は黙ってついて行く。
「どうぞ、お入りください・・・。襖の手がかりをスッと引くと曇天にも
関わらず、部屋の明るさが空気を揺する。
「お茶を準備してきます。少しお待ちくださいませ。お食事はいかがなさ
いますか?」
「お願いします。持参した米あります・・・。これです」
旅行には自分の食べる米は持っていかなければならない。なければとても
高い闇米を食べなければなならい。
「はい、わかりました。食べ物でお嫌いなものは・・・」
「肉系が・・・」
「承知いたしました。それではお茶を持って参りますので少しお待ちくだ
さい」
「花井さん、どうぞ、差し支えなければあなたもお持ち出しに上、ご一緒
に・・・」
「ありがとうございます。ここの主人に聞いてみます。今日は暇なのでい
いかも知れませんが、勝手なことはできません・・・。今は雇われている
身ですから・・・突然仕事も忙しい事がありますので、それも聞いてきま
す」
「以前きた時は、全く一人でしたが・・・」
「奥の山でダムの工事が始まるらしいのです。それで出張や何やかやで突
然忙しい事があるのです・・・。主人に聞いてきます」
暫くして彼女はお盆にお茶を載せてやって来た。さらに付火を十能にいれ
て、五徳の中に丹念に付け火と炭を並べヤカンを置くと部屋がそこだけホ
ンノリ温かくなる。ヤカンの中もチュンと音させる。もうすでにヤカンの
中は熱いのだ。
「さぁ〜、火鉢におあたりください・・・。炭斗もここに置いておきます」
急須に湯を点して、湯のみそれを入れるとに黄金色の香りを放つ・・・。
両手に抱え込むようにして暖をとる。
「黙っていてごめんなさい。いろいろ考え込んでしまって・・・」
「いいえ。構いません・・・。それにしても奇遇です・・・ね」
「あのおばあちゃん亡くなられたのですか・・・」
「そうですが・・・。この宿、今日の他の人のお泊りは?」
「今の所、塙さんだけです。ここのご主人、私が彼氏を呼んだと勘違いし
ているみたいです」
声を一飲みして、お茶を点し番えた。
「私がね。多田から頼まれて河合に女中に入った時はとても苦しかった。
いっその事、あのおばあちゃんからダメだと言われた方が私が気が楽だっ
たのです。それがどのようなダメな素振をしても、私をかばってくれるの
です。あのような天使のような人がいるかと思えば、多田と言えばなにく
れとなく怒りけなす・・・。毎日が針のムシロに寝ているようでした」
「他のお客さんは大丈夫ですかね・・・」
「平日はほとんど来ません。観光地でもありませんし、このような田舎の
旅館、よく生き残っています。昔は街道に沿っていたのですが今は寂びれ
て道に犬が昼寝をしているような状態です。大丈夫です・・・。お食事は
まかないですが私の手料理になります。本当に料理する人もいないのです。
ここの主人も歳で、この旅館も維持できないらしいのです。それで私が今
頑張って、昔の罪滅ぼしをしているのです。おかしな話しですがそれが塙
さんに遇えるなどと考えてもみた事もありません。一切の結縁を絶ってき
たのですから・・・」
「そうですか。どうしてここにきたのですか?」
「私もわかりません。闇雲に来た汽車に乗りできるだけ遠くに来ました。
たまたま長野行だったのですね。しかもそこからまた適当なバスに乗りそ
の終点から歩きました。だからここが何処でどういう経路を通ってきたの
か全く今でもわかりません。そしてこの宿に着いたのです。一宿しました。
次の日もそのまま泊まろうと思っていました。そうしたら一度にたくさん
のお客さんでした。ここのご主人ただオロオロしているだけです。お手伝
いしますと言って、食事の手当てから寝床のしつけまで全部しました。こ
このご主人とても喜んでくれました。次の日はまた元の静けさになりまし
たが・・・、私がお願いしました。ここで働きたいって・・・。前、河合
さん所でお願いしたのと同じですが・・・。今度は本気です」
「それで、ここに就職したのですね」
「ご主人。お手当ては出せないよっていうのです。即座にそれでいいです
といいました。私もそれの方がいいのです。今は親子のような関係になっ
ています。ここのご主人、昔は羽振りがよかったらしく、その時の話しば
かりしています。昔の旅館仲間と善光寺さんの裏の旅館に芸者をあげてド
ンチャン騒ぎをした事など同じ話しをよくしますよ」
「そうですか。私はここの奥の村に河合の山があるのですよ。その材木の
切出しとかそのような用事ですよ。今回は少し違う用事ですが・・・」
言いかけて言葉に詰まった。そこまで言わなくても良いだろうと思ったか
らだった。
「お食事の仕度とお風呂と準備いたしますので、暫くお待ちください。す
っかり話し込んでしまいました。お客様が最優先にお風呂をお使いできま
すので、準備できましたらお呼びいたします。どちらを先になさいますか
?」
「それじゃ、風呂かな」
「これは内緒ですが、お客様が終わると直ぐにここのご主人が入るのです
よ。風呂が本当に好きらしいのです。本当は道楽者なのでしょうね・・。
これは内緒の話です・・・」
そう言い残すと襖の戸を音もなく、スゥ−と閉めて出て行った。本当はな
かなか腕前の仕草だった。以前の河合のところにいる時とは全然違う感覚
だった。
不思議だ。
暫く時間がたった。以前は全く用のない時間ばかりだったのに、今度はな
にくれとなく待つ時間も楽しい。
「お待たせいたしました。お風呂が出来あがりました。場所は・・・」
「知っていますよ。前来た事ありますから・・・」
「すみません。いつも言っているものですから、ついつい・・・」
私は正面玄関近くにある風呂場に向かった。風呂場近くは湿気ているのか
廊下の音のキシミが大きい。
気持ちよくあがるとそのギシギシと言う足音をさせて元の部屋まで戻る。
それと入れ替わりに人の足音が風呂に向かう。聞いた通りのここのご主人
だな・・と思った。
部屋に帰るとすっかり食事の仕度が出来ていた。川魚と山菜となにやら、
たくさんの食べ物が食卓を賑わせている。とても賄い仕事ではない。
部屋は暑いくらいの熱気を感じた。
暑いのでガラス戸を開けると、空く間もないほど星が見える。
「あぁ、晴れたのだな・・・」
素晴らしい黒い晴天なのだ。
「失礼いたします」
「はい。どうぞ・・・」
「あぁ〜、寒いこと・・・」
「そうでしたね。すぐ戸を閉めます」
戸を閉めて少し厚手のカ−テンを引くと、こもっていた温かさが戻ってき
た。
「塙さんはお酒、召し上がられます?ここのご主人は全くダメなので、私
一人ではとても飲めないのです。お酒はたくさんあります。飲み残しを集
めているのですが集まる一方なのです。捨てるわけにもいかず困っていま
す」
「飲みますよ。普通に・・・」
「よかった。それじゃ持って参ります・・・」
彼女は一升瓶と酒器一式を持って入って来た。
「熱燗にしますね。お食事の前に先ず一献・・・」
そういいながら、ヤカンの蓋を取って燗つけを掛けた。
「河合さん、まだやっているのですか?」
「何を?」
「女の格好・・・」
「・・・・」
「あれは、大嫌いです・・・。本当に・・・」
「ええ、やっていますよ・・」
「もしかしたら塙さんもやっているのでは・・・
「いや、いや、やっていません・・・。女装は・・・」
「本当ですか?男性は隠れて皆やっているのかと思いました」
「そのような訳ないでしょう」
「熱燗できましたよ。人肌が最高って言いますよね。冬の夜寒は私だって
そのように思いますよ。一人で飲むわけにはいきませんから、冷で口に含
んだりして紛らしています」
「私は毎日は飲みませんからそのような事はありませんが・・・」
「前は毎日飲んでいましたよ。多田などともよく飲みました」
「凄いのですね。酒豪の女なのですね」
「酒豪じゃありません・・・。まあ、一献・・・」
「今日のお酒は全部タダです。たくさんありますから、お気になさらない
でください。私も飲まさせていただくわ」
「食事も一緒に・・・」
「ありがとうございます。一応は準備しておきました。ここの主人、塙さ
んを彼氏だと思って気を使って、今日はいいよって言ってくれました。嬉
しい久しぶりのお休み気分です。いつも暇ですけれども・・・」
「今日は宴会ですね。思いもよらなかった・・・。今日はただ寝るだけだ
って思っていましたよ」
「私も・・・・」
暫く二人とも食べていた。
今日は朝早くから出て、昼は駅弁。お腹は空いていた。最初のお酒が急に
その緊張をほぐしている。
「少し頭が痛い・・・」
「窓を開けましょう。炭の性だと思います」
ガラリと戸を開けると静けさと寒さが雪崩れ込む。
「うォ〜・・・。寒!」
先ほどの寒さには比べる事のできない程の冷たい夜が襲ってくる。
「閉めましょう・・・」
「もういいでしょう。炭も最初だけですよ。後は大丈夫です」
「もう一度、酒の呑み直しですかね〜」
「そうしましょう。一度ザッとかたずけます」
彼女は手早く終わった皿や鉢や碗を積み上げて、下がって行った。
酒の肴になりそうなものを美味しそうに並べ変えると、また宴会が始まる。
「まッ。それ呑み干してください・・・。どうぞ・・」
今までは飯台を挟んで向かっていたのに、今は火鉢を挟んで横に座ってい
る。温かい普通の雰囲気についつい気が緩む。
「酔ってはいけない。酔っていけない」
自分に言い聞かせた。横の火鉢が余計に頭の回転を鈍らせる。
気がつくと私は布団の中で眠っていた。とっさの事に私はここが何処なの
かさえもわからなくなってしまっていた。
傍にいるはずの家内が違う。大きさが違うのだ・・・。後ろからのお尻の
大きさもかなり違う。
「えゥ〜。ここは・・・」
冷静に考え込んだ。異様に漂う焼いたシシャモの魚を焼いた臭いが自分の
家ではない事を示している。
触っているお尻から手を離した。
漆黒の中で、頭の中だけ懸命に記憶を辿る。
これは花井千代さんだと思い出すのにはそれほどの時間はいらなかった。
「千代さん・・・。花井さん・・・」
小さな声で声かけた。
黙って彼女はこちらに向きを変えて私にからみついて来た。
「千代さん・・・」
私はもう一度声をかけた。まだ寝ぼけているのかもしれない。そのまま私
の手を誘導していく。
嘘だろう・・・。心の中でそう語る。朦朧とした頭の中だけが鮮明さを求
めている。これで良いのだろうか。悪いのだろうか?
「千代さん・・・」
「はい・・・」
弱々とした声が返って来た。
「起きてください・・・」
「あッ、寝てしまったのですね」
千代は取っていた私の手を両の手で抱きしめる。
「一体どうしたのでしょうか?食事を終わってから酒を呑み始めた頃まで
は憶えているのですが・・・」
千代は静かに添えた手を解いて話始めた・・・。
「あの後、塙さんはさされるお酒を杯を返さずに呑んでいました。途中便
所にいかれて暫く帰ってこないので心配して探しました。そうしたらこの
部屋への帰りなのでしょうか、廊下で倒れていましたので声をかけて連れ
て帰りました。とても寒い寒いと言っていました。部屋に帰ると食卓を端
に持っていき、お布団を敷いてお休みになるのが一番とおすすめいたしま
した。そのままもぐり込んでいましたので、私は最後のお風呂をいただき
ました。少し心配でしたのでまたお部屋を伺いました。そうするとまだ起
きて火鉢に当たっているではありませんか」
「本当に寒かったのでしょうね」
「そうだと思います。唇が色変っていました・・・。お酒に燗つけて呑ん
で寝てしまえば大丈夫ですよって気軽に言いました。そうしたらそこにあ
る酒をまた温め、今度は私もご相伴いたしました」
「また呑み始めたのですか?」
「いいえ、その後すぐ温かくなる方法を思いつきました。私はお風呂をい
ただいていましたので、手も足もとてもホコホコしていましたので、まだ
お風呂も温かいとおもいますので、もう一度行かれたらどうすかといいま
した」
「お風呂は好きな方ですから、すぐに行ったでしょうね」
「そうです。そして私もそこで待っていました。それでも次第に寒くなっ
てきますので、少しだけならいいだろうと思って、塙さんのお布団に足だ
け入れさせていただきました。そうしたら急に眠気が襲ってきました。眠
気は本当に波状的にやってくるのですね」
「もう、私は覚えていません。完璧に・・・」
「帰って来た気配を感じて、私は慌てて起き上がりましたが、もう呑むよ
り眠たいと思っていましたが、塙さんはもう一度呑み始めたのです。その
後は私も覚えていません」
不思議な雰囲気だった。男と女が同じ布団のなかにいて、話をしている。
何故このような事になったのかを二人で話合っているのだ。
「私もないのですよ。何かあったのでしょか?」
「さぁ〜?知りません・・・」
「私もです・・・」
「外は寒いですね〜」
「こうしていると、人肌っていいですね〜」
「本当はとてもいけない事をしているのですけれど・・・」
「そうですね・・・」
手繰り寄せる千代の体は、そっと寄り添ってくる。
話している唇はそこにある。暗闇を通して息の音だけが荒く見える。
千代は黙ってまた絡み付いてきた。
東雲色の光がカ−テンの間を通してスズメの声と共和する。
彼女は朝食の仕度に降りて行った。しばらくするとどこでも同じような朝
食が運ばれてきた。
「ここの主人、一緒に食べてきていいよって言うのですよ。いやらしい・
・・、本当は彼氏じゃあないのに・・・」
「それでも朝食一緒に持ってきているじゃあないか・・・」
「ここの主人がそういうからです。やはり少しでも若い方が気があいます
から・・・。そのようなものです」
「そりゃあ。彼氏でなくったってそうですよね」
美味しい朝食とは言えなかったけれど、昨日の余韻が今の時間を和やかに
している。仮の宿の夫婦のような時間だった。
少し痛い二日酔いの頭を振り絞って、立上がると少しふらついた。
「このような二日酔いで話しをするのは、少し問題だね・・・。大切な話
しなのだが・・・」
「少し治まるまで、ここでゆっくりしたら・・・」
「あの村まではバスの便が少ない。時間を外すと行けなくなってしまう」
「大丈夫ですよ。あそこにダムを作る計画があって、そこの事務所がすぐ
近くにあるのです。それで賛成派はそこの事務所の車を送迎用に使ってい
ます。反対派は使っていませんが・・・。塙さんは何派かわかりませんが
あそこに用事のある人はみなそこの車を使っています。運転手が何時でも
最優先にしてくれます」
「大丈夫かなぁ?よくダム問題でその中に入りそうな気がするのだが・・」
「大丈夫ですよ。バス停の少し前あたりで降ろしてもらえば、誰だってわ
かりませんよ。だって全然関係ない人でしょう・・・」
「頭は痛いし、私にはわからないけれど、他の人は酒くさいと思いますよ」
「数時間なのでしょう。何とかそれを出しましょう」
「どうすればいいのでしょうかね」
「向かい酒をするといいとかいいますが、あれは確かによくなりますが実
際にはよくなっていないのでしょう。もう一度お風呂に入ったらいかがで
しょうか?仕度してきます」
彼女は黙って立上がって、そのまま外に出て行った。
「焚き上がりました。どうぞ・・・」
下の方から声が聞こえてきた。
浴衣のまま下に下りると、だれも人影も見えない。ツ−ンとした静けさと
寒さだけが居る。
そそくさと廊下を通ると、風呂場のガラリ戸を押す。
「風呂が酒くさくなるだろうな」
そう思いながら、湯船に入る・・・。
なんとなく二日酔いがよくなりそうな気がする。本当によくなっているの
かわからないが頭が朦朧としている。そそくさと風呂から出るとそこには
新しい浴衣が置いてあった。
それに着替えると余計に気分的には爽快になる。
しばらくはボ−ッとしていたが、思い出すかのように背広に着替えた。
さあ、出発だ・・・。
玄関まで下りて行くと、千代が飛び出してきた。
「ご案内いたしますよ・・。すぐ近くですから・・準備室は・・・」
「ありがとう。お任せします」
旅館のお支払いを済ませると、二人は揃って外にでた。知らない所を通っ
て行くと川の提のある所に出た。
その土手はハコベが柔らかく包んで、千曲川旅情の一節をロマンチックに
させてくれる。・・・今は春・・・。
千代は私の手を取って、下駄をキッキッと言わせながらその土手の石畳の
上を上手に引いていく。
遠くからみれば綺麗な春の構図が出来ている。
男と女はいつまでたってもこうなのかな〜と黙って歩きながら考えた。
今は春なのだ・・・・。
その事務所に着くと、千代は中に入って行った。向かいの山は昨日と打っ
て変って澄切っている。事務所だって綺麗に見える。
事務所の中の一人が出てきて、平身低頭に私を車に案内する。千代はさき
程と変って
「それでは、ありがとうございました」
と一言いって、その場から離れた。
私はその出てきた男に案内された車に乗り込むと、その男はすぐに運転を
始めた。
先に出た千代をその車が追い越すと、千代はその場で軽い会釈をした。あ
の河合の家でだた立っていた、彼女を思い出した。
「ああ・・。変った・・・確かに・・・」
運転手は黙って運転していた。
「バス停の少し前でいいですよ」
そう声をかけると
「みなさん、そう言っています。人家もなにもないところで降ろします。
ご安心ください」
本当に心得たものだった。
目的地まで行くと彼は車を停めて、私を降ろした。
ほとんど話しもしない。味気ない時間を無為に車の中で過ごしていただけ
だった。
開放された私の世界にカラマツの青さが目に飛び込んできた。
北村のマルイチさんの所には少し顔だけだしておこう。向こうの街から持
って来た土産を包みから取り出して準備をした。
バス停を通り過ぎると昨年の景色を彷彿させてくれた。この前は何も見ず
に通ったこの坂道は全然違う世界に見えてくる。真っ直ぐの坂道は全く違
って山に沿って大きく湾曲している。確かの記憶がかなり違う。
大きな道からマルイチさんの私道の脇道に向かった。家は屋根に草が生え
てそれさえ若緑になっている。左の風呂も便所も朽ちて人が住んでいる気
配がない。一年の月日はこのように変化させているのだ。私はさほど変っ
ていないのに・・・。
「こんにちは・・・。こんにちは・・・」
暫くして
「はい、だれですか?」
「塙です」
「塙?。ああそう言えば、イケノウエさんが言っていたな。少し待ってく
ださい。今行きますが・・・。ちょっとでは動けないのです・・・。待っ
ていてください」
以前でも腰が曲がっていたのに、年が人を変えてしまう。物理的にも・・。
「マルイチさんそのままでいいです。今日はイケノウエさんに用事なので
す。ご挨拶だけなのでそのままで・・・ここにお土産置いておきます。詳
しくはイケノウエさんに聞いてください」
「そうですか。じゃあよろしくお願いします」
ついに出てこなくなった。ここの山の管理も他の人に頼まなければならな
いだろう。歳は年々自由を奪っていく。考えてみればたしかおばあちゃん
がいたはずだった、どうしたのだろうか?前に歩いたイケノウエの道すが
ら、今日の大役を考えた。どこの断面から話し始めるか?難しい・・。
さほどの距離もない。すぐ上にあるような場所だった。
門もない製材所の雑然としたその奥に屋敷はある。
かなり大きな家だった。キュ−ン、キュ−ンと山に木霊せる音はここでは
とても大きな音になって、とても忙しいようだった。マルイチさんの所と
はとても違う。
「すみません・・・誰か居ますか?こんにちは・・・」
奥のほうから声が返ってきた・・・。
「はい、ああ・・塙さんですね・・・」
イケノウエの奥さんだった。まだまだ元気・・・。
「すみません。遅くなりました・・・」
「もう、バスの時間がなくなりましたので、今日は来られないのかと思い
ました。それで今、製材を始めたところですよ。少し待ってください。仕
事を始めると、騒音で聞こえなくなりますから・・・」
そう言い残して現場の方に急いで行った。
すぐにその音が止まった。
「やぁ〜、すみません。お待ちしていたのですが・・・。どうぞお上がり
ください」
私を奥へ向かい入れた。
始めてその家の中に入って驚いた。黒光りする直径が三尺ほどする明らか
な大黒柱は、手斧目も鋭く大きい。その柱根から天に至るまでまるで石炭
の如く輝いているのだ。
「何か美術館に入っているような感覚になります。とても整然として落着
いていますが、どうしてなのでしょうか?」
「この辺りでは普通です。家が大きいですから・・・昔からです。変った
事ではありません」
「マルイチさんところとは・・・」
「あそこは・・・。おばあちゃん病気になって、今、一人です。智ちゃん
は帰ってこないし、マルイチさん一人で暮らしているのです。ほとんど動
けませんので、私等夫婦が食事を運んでいます。昔の恩返しです。とても
立派な方だったのですよ・・・」
「ああ、そうです。この度はおめでとうございます。最初にこの話しをし
なければいけなかったですね」
「ありがとうございます」
両手をついて、深々と夫婦揃って頭を下げた。
「私も、このような展開になるとは思いもよらなかったですよ」
「何もかにも、塙さんのご縁をつくって頂いたからです・・・」
「いいえ、貴美子さんが自分で開いたのですよ。私などなにもしていませ
ん。貴美子さんは実際話してみると尚々素晴らしい人ですよ」
「この前は当人さんが来られまして、正式に嫁取りの話がありました。私
はそれまで躊躇していたのですが、もう覚悟もできました」
「覚悟といいますと・・・」
「あちらはあちらで大変な様子のようです。親戚がこぞって反対している
ようなのです・・・。どこの馬の骨かわからないって言っているみたいで
かわいそう・・・、私には反対する理由はないのです」
「失礼ですよね。私もその人達の話しは聞きましたが、余計な事ですよ」
「中小の名門や名家はそうなのですよね。お金だけで上がってきた者につ
いてはそういう傾向が強いのです。前にもありました・・・」
「そうですか・・・。私は貴美子さんが素晴らしいだけで良いと思うので
すが、お父さんもお母さんも立派な方です」
「それほどではありませんが・・・」
「それと貴美子さんから少し話しを聞きましたか?」
「手紙が来ました。花嫁衣裳をどうとかこうとかという事でしょう。化粧
をしてという話でしょう」
「そうです。実際はどうでしょう?」
「花嫁衣裳は横一文字に打掛けですよね?」
「私は知りません。話しの意味が全然・・・」
「そうですよね。大奥のものとほとんど同じなのですよ」
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