「花からたち」

[白爪草]

インク瓶に朱肉、それに紙の重たるい澱んだ空気・・・。 「高橋さん、居ます?」 「居ますが、どちらさんでございましょうか?」 「塙ッていいます」 「少しお待ち下さい」 彼女はその奥の戸に入って行った。 「いやぁ〜。すみません。お早く来られたのですね。本当は早い方がいい のですが・・・」 彼は事務用の手抜をとりながら出て来た。 「元々、私は暇ですから・・・」 「その内にとても忙しくなりますよ。河合さん、人使いが荒いって言って いますから・・・自分でです」 「いや〜、わかるような気がします」 今さっき見てきた仕事ブリだと時間が足りないのに間違いない。 「それじゃ。書類を拝見・・・」 暫くガサゴソとアッチコッチをひっくり返り見ていたかと思うと 「はい、これで結構です・・・」 簡単に終わってしまった。 「後、調印があるのですが今やってもらっていいですか?最後でもいいの ですが?」 「今やっておきましょう。結果は同じなのですから・・・」 「それじゃ、実印持っていましたらお願いします」 「これ・・・」 差し出すとあちらこちらとペタペタと押し始めた。 「はい、これで全て完了です。これで大丈夫だと思いますが、もしまた用 事がありましたら、ご連絡させていただきます」 「はい、それではそれでお願いします」 「塙さん、河合さん何をしようとしているのですか?」 「孤児院を造りたいらしいのです・・・」 「へぇ〜、それは奇特なことで・・・。お父さんもいろいろやっていまし が、何故、今・・・」 「戦争孤児に目を瞑ってられないらしいのです」 「それと塙さんの仕事とどう言う関係があるのですか?」 「関係があるといえば関係があるのですが・・・これは仕事ででやってい ます」 「仕事って、どういう事ですか」 「今、家不足でしょう。それをしようとしているのです」 「家だけじゃないですよ。何でも不足しています特に食べ物なんか・・」 「幸い河合家には山があるのでそれを使って、長屋を造ろうと思っていま す。市場は材木不足ですからそれは解決されるわけです」 本当は彼の経済的なバックボ−ンとしての役目を果たしたいのだとは言え ない。 「大丈夫なんですかね。あの人少し未知な所がありまして・・・」 「結婚してないって言う事ですか?」 「そうじゃなくって・・・」 「そうじゃなくって???」 「そうじゃなくって、あの人には女がいるのです」 「女が・・・。いてもいいじゃありませんか。私には関係がありませんし、 まわりくどい話しをしないでください」 もう私は我慢ができなくなってきた。噂話など聞きたくない・・・。 さらりと言って除け。スッキリと立ち去ろうとした時。 「どうも、女の格好をして街を歩いているらしい・・・」 グサリと氷ような尖った刀が根元まで心臓を貫いた。 平静を保つのに五秒は必要だった。 「それがどうした・・・」 「いや、そう言う噂がある・・・」 「無礼者・・・!」 「すみません・・・」 ついつい自分より年上に対して、言葉を言ってしまった。 その言い回し方や、人を盾にして自分を回避させるやり方に我慢がならな かったのだ。声を荒がけた私も自分ながら動転してしまっているのだった。 今見てきた彼の天空に留まる行動とタバコの火を付けたあの行動が激しく 私の目の前を往来する。私は確かにどちらも真実でまちがいないと思う。 彼の気持ちがわからないが、この司法書士の心の中は腐っている。 「話しは聞きたくはありません。私はこれから彼と仕事をするのです。こ の仕事が間違っているのなら、それをとやかくいうのであれば私にしても いいでしょう。けれども今のあなたの言葉は彼を傷つけるだけのためにし ている。そういう女が腐ったような言い回しは止めてもらいたい」 「・・・・」 「そのような事はどうでもよい事ではありませんか」 「わかっているのですが・・・」 「このような話しは私の前ではしないで下さい」 「わかりました」 河合君の名誉のためにもと言い足しをしようとは思ったものの、それは留 めた。事実は事実なのだから補足すれば泥沼に入ってしまう。 書類は完結したものの、後味の悪い日になってしまった。 もう一度、海岸に戻ってみよう。 夕方近くなると、潮風が寒さだけの風に変わってしまう。 その冷たい潮風の直ぐ横の暗い突堤の下に、数知れず小屋が皆静まり帰っ ているように居る。 突堤の上に行ってみよう。 下に子供が見える・・・。行ってみよう・・・。 直ぐ横の暗渠を伝わって下に降りる。 「何か取れるのかい?」 「貝・・・」 「食べるのかい?」 「うん、オカズ・・・」 彼は簡単に答えるだけの反応しかしない。 「この近くの子かい?」 「うん・・・」 忙しそうに網を岩の間に差し込んでは引き上げる作業の繰返しだ。 「今頃、寒くないかい・・・」 「潮が引かないから、しょうがない・・・」 そうだったんだ。いつでも出来る訳でもないのだ。 自分だってわかっていても、生活には関係のない事だから夕方近くには絶 対に潮干狩りに行ったりはしない。しかもこの寒さなのだ。 「今日、ここで黄色のセ−タ−を着たオジさん見たのだけれど、あの人は 知っているの?」 「あぁ、かあさん」 「かあさん・・・?」 「うん、母さんだよ」 「母さんじゃなくって、おじさんだよ」 「みんな、母さんっていっているよ」 「じゃ、自分のおかあさんは・・・?」 「かあちゃん・・・」 ここではかあちゃん、とうちゃんの世界なのだ。それにしても河合さんが かあさんとは、あまりにしても当を得てる。 「そのかあさん、何していたの?」 「病気の子がいたので、それ診ていたらしい。皆に近づかないようにって 言っていた」 食料事情だけでなく。衛生状態も非常に悪い。暗渠の中は糞尿まみれなの だ。時々は雨水がそれを押し流して海に流れ出る。 その時だけ綺麗になる。 今は蝿がたかりそれがその辺りに飛びまわっている。どんな病気があって もしかたのない状態なのだ。 「そのかあさん、良く来るの?」 「よく来るよ。子供が心配だ、心配だって口癖のようにいっているよ。俺 の所はとうちゃん、かあちゃんいるからまあいいけど、子供だけで暮らし ているところもあるよ」 「食事はどうしてるの?」 「その子達ははっきり知らないけど、何か拾って食べているみたい。昔は 良いところの子だったらしいけど・・・」 「おかあさん、お父さんはいない?」 「戦争が悪い・・・。両方とも死んだらしい。おかあさんは爆撃にあって その肉が電信柱の電線にぶら下がっていたって言っていた」 私はその言葉に生唾を飲み込んだ。 現状戦争に行っても直接敵に遭遇したわけでもない。私が生き残り、戦争 に行かないでもその身がバラバラになって、子が路頭に迷う。 「皆はその子のことどう思っているのかな」 「だってしょうがないよ。俺だってお腹空かしているんだ。人の事などか まってられない。朝から晩まで食べる事しか考えていない。いい食べ物が 残飯にでる所など誰も教えないよ。あの子達もそのような所を早く探し出 すといいんだけれど・・・。大人って良いところは一人占めにするんだよ」 そうか。これはこれで戦いがあるのか。 「病気の子ってどうなんだろう?」 「もうだめかもしれないって言っていた。かあさん、お医者さんみたいだ って皆が言っているよ。大体そのようになるし、俺達は医者に行けないん だ。汚いし、臭いって言う。行った事ないね。医者は嫌いだ」 「その時は・・・」 「ジッと寝ておくだけさ。死んでも役所の人が白い服を着た人を連れて来 て、外から何か書いてそれでその死体を持って行くだけさ。家の中に入る のはその時だけ・・・、簡単だよ」 現状どうしょうもない八方塞がりの中にいても、逃れることの出来ない命 は只、永らえなければならない。悲しいかなその日は食べなければならな い。それさえもままならないのだ。 「もうだめだ。見えなくなってしまった・・・」 気がつけば闇の中に二人が居る・・・。遊び疲れて空をみれば星が出てい た・・・それに似ている・・・。 「少しは取れたかい?」 「うん、充分充分・・・。オジさん楽しかったよ。俺なんかに話しかけて くれてありがとう。いつかきっと大金持ちになって、オジさんとこんな事 話したなっていつか話せる時がくる。俺きっとなるよ。今は勉強なんか出 来ないけれど、なんとかしてがんばってみるよ」 「かあさんに相談したら・・・」 「もう、話してあるよ。お前は見込みあるから心配すんなって言っていた、 とうちゃん、かあちゃんもそのつもりだよ」 「そりゃ、凄いね。もう暗いから上に上がろう。寒かったろ・・」 「うんにゃ、これからもっと寒くなるんだ。まだ楽だよ」 突堤の上に上がってみると、それは漆黒の闇の中に外で火を付けている。 原始時代を彷彿とさせる凄ささえある。 今の時間帯は大体どこの家でも夕食の時間なのだ。 それにしても、茶碗の音や食器の微かな音さえない。暗闇が全てを覆い隠 しているのだ。 日本書記に出てくる「民の竈の煙」を思い出した。 「もう、暗いね・・・」 「明るい内に食べられるものがあれば、食べるけどなければそのまま寝る だけ・・・、外で火を焚いてもいいけど、それをまた補充しなければいけ いので、用がなければ寝る」 「あそこに火が付いているけれど・・・」 「あぁ、あそこはかあさん来たところ・・・、危ないのと違うのかな?近 づくなって言っていたけど・・・。かわいそうな子達だった・・・」 「誰かが火を焚いているのだよね」 「うん、明日は俺も薪を集めてくるよ・・・」 ほのぼのと温かい温もりさえ遠くから感じる、素晴らしい明かりだった。 「じゃ、私も帰るね・・・」 「ああ、今日はありがとうございました」 ペコリと下げた頭はまだあどけなささえ残している。 その突堤を飛び降りると静かな潮騒の音が身に迫る。 何故か知らない涙が、ドッと両眼からあふれ出てくるのだ。 幸せの中に居てもそうでないと思う人、今々の幸せに感謝して時を大切に する人、夜叉のように幸せをむさぼり食おうとする人。そして幸せを少し でも別け与えようとする人。 「私は幸せだ・・・妻も子もいる。食べる事だって困っていない」 そう思うとこの暗い海岸で一人で声を上げて泣いていた。 この両腕にあの子の間接的な未来がかかっている、握りしめた素手がキリ キリと音が鳴る如く力が勝ってくる。 男の涙はふさわしくない。夜風に吹かれて乾くまで少し歩こう。 「ああ、シッカリ夜だ・・・」 「只今、帰りました・・・」 玄関のを開けると中は暖かな空気とシットリとした食べ物の臭いがする、 これが普通の家庭の光景だな、と思うと心から幸せな気持ちにさせる。 「只今、と言っているのに・・・」 「はあい〜」 「食事は何だい?」 「汁・・・」 「材料は?」 「さかな・・・」 言葉少なに対応している。この幸せな中に何か冷たいものを感じる。 上がって食卓につくと、それぞれがなんとなくよそよそしい。 「明日、菊虎ちゃんが帰ってくるのです」 「亜紀ちゃん達、お部屋かわったんだよ」 あの日当たりの良い部屋は、とられてしまったのか・・・。 食事は、妻の分け与えてくれた皿の中はほとんどは野菜ばかりの水・野菜 と少しばかりの魚だった。これでもまだ感謝しています。 翌日は10時頃より、河合さん宅に出掛けてみた。 玄関先よりおばあちゃんが出てきて、今日はいつもより早く用事があると 言って出て行った。 彼の行動は全くわかっていないらしく、それ以上は何も話しがない。 行く先はわかっていても、これから先は彼の領分。 このままでは少し時間もあるのであの司令官の家まで少し遠廻りになるが、 行ってみよう。 司令官の家の前は仮の小さな小屋も建って、そこに門衛も立っている。一 人入る時は何か通行証みたいなものが要るらしい。もっとも今日は見学だ からこのまま帰るが、思っていたより堅固な壁に隔たった奥にいる事だけ はわかった。 冬だというのに、蔦で被われたその壁はとても入れそうにもないし、浸入 すればすぐ足跡もわかってしまう。入り口は狭いが中はかなり広大な広さ を想像させる松林が奥に向って何本も見える。 いろいろ周りをうかがうだけで帰る事にした。 家に帰ってみると、大変な状況になっていた。 赤子の声がする。一人加わるとかなり違うものになっていた。 ミルクの臭いがどこと無く漂い、知らない内にいろいろなものが増えてい た。 昔よく着た浴衣がオシメに変わって、前の子達に使われてものがまた引っ 張りだされてそれに加わった。 以前はお手伝いさんがやってくれた事が、全て妻の肩にかかっている。前 ではとても考えられなかった仕事が山積みしている。それをただ黙々とこ なしているのだ。 「どれどれ・・・」 状況はほとんど変化がなかった。 相変わらず、痩せた猿の子のようだった。見るからに細い細い指が機械仕 掛けのように動く。 幸ちゃんは、ただただその子を見ている。 「どうだい?男の子だろう」 「うれしい・・・」 あまり大きな声では泣かないが、間違いなく菊虎は泣いている。 ミルクも充分飲むようになったらしい。哺乳瓶を温めたり、オシメを替え たり、家中がそれを中心に廻っているようだった。 それでも床の間には欠かさず花が一輪欠かさず挿されていて、それが一段 と非凡な妻の力量を顕わしている。 「幸ちゃん達、外で遊んでくる・・・」 自分達の部屋を占領されて居づらいのか、そう言い放つと外に飛び出して 行った。 妻も居場所を変えて、この暖かな部屋に自分の運針道具一式と頼まれもの を持ちこんで、本格的に始めた・・・。 自分の書斎にいけば良いのだが、私さえ居場所がなくなった。 また、海に行ってみよう。 気になる彼達がいる。 何か昨日話した彼から話しが入ってくるかも知れない。 少し海に近づくと、なんとなく心ざわめく・・・。 突堤に上がると、それにひきかえ海さえ青空だ。 すると、一人に子供が駆け寄って来た。ズボンも大きく穴が空き、シャツ だってボロボロだ。昨日の子には間違いないのだが暗闇での彼とは想像以 上の汚さだった。余計に臭気が漂ってくるようだった。 我慢しなければ、とっさに思ったのはそれだった。 「昨日のオジさんですか?」 「そうだよ・・・」 彼は礼儀正しく、ボロは着ててもハキハキと言う。私もそれに答える。 「今日、朝早い内にあの小屋のお兄さんが亡くなりました」 「いくつだったのかい?」 「五歳くらい・・・。かあさん言っていたけどチフスらしいって・・・」 「その辺消毒しなけりゃいけないね。だけどそのような様子はみえないけ ど・・・」 「昨日はその子寒い寒いって言うので周りで火を焚いて、布団も一杯架け たのだけれど、かあさん来て怒っていた。逆だよって・・・。死んでしま うって、それから直ぐだったよ。眠るようにして逝ってしまった」 「女の子はどうしたんだい」 「かあさんが連れて行った・・・」 「チフスの子をかい?」 「かあさんがそう言っていたから、みんなはそうだって言っていたけど・ ・・。本当はわからない・・・」 「どういう事?」 「役所の人は、白衣の人を連れて来て死んだ兄さん調べて、大きな桶を持 って来て、その中に座るようにして入れて暫くそのままにしていたけど、 他の人が大八車を持って来て、何処か持って行った」 昔使っていた棺桶は確かに座棺だった。今はどこの葬式でも座棺は見た事 もない。調べるにしても検死だけで後はそれに早く入れて帰る事を優先し た事は想像できる。 「早く帰ったのかい?細かい事調べなかったのかい?」 「うん、早く帰ったし、妹の事など名前さえ聞かなかった。皆も周りで見 ていただけ、チフスは怖いし・・・。かあさんはその子を連れて帰った後 だったので誰も言う人もいないし・・・」 「淋しいお葬式だったね」 「俺もああなるかと思うと・・・」 「そうだな、葬式とは違うな・・・」 その後もその界隈を消毒する気配もない。検死医を連れてきたのであろう が、その判断が間違ってはいないとは断言できないにしても、もう少しは 何かその周りの人にも説明をすべきであったのではなかろうか? 昔から行路病死者は土葬にして、証拠をそのまま残すと聞いている。その 子の躯も朽ち果てて土と同化してしまうだろう。 唯一の身内はそれも知らず、河合君の家に今いる。 「なんとかここから脱出したい・・・」 「もう少し待ってくれよ。かあさん。きっとなんとかするよ」 「あの子はどうなるのかな〜。心配だよ。あのままだとただ死ぬのを待っ ているようで・・・」 「そのように、危険なのかい」 「兄さんが先か、妹が先かっていう感じだったし・・・」 「そりゃ、大変だね・・・」 私はすぐさま、河合君の家に行く決意を固めた。 玄関はいつもと変わらず静かだった。戦前はこの家の前は出入りが多く、 華やかだった。それが全くない。 ベルを押すとこれもいつものおばあちゃんがでてくる。 「これは、塙のおぼっちゃん。今少しとりこんでいるのですが、お合い出 来るか聞いてきます・・・。玄関先では何ですから先にお上がり下さい」 暫くして、クレオソ−トの臭いをつけた彼がズカズカと入って来た。 「いやぁ、大変なことがあって、塙君にも見てもらった方が良いと思った ので・・・」 「どんな事・・・」 私は知らない事にした。 「二歳くらいの女の子なんだけれど、死にかかっている。非常に危険だ。 病気も大体想像できる。それを承知で家に連れて来た。どこかいい病院は ないだろうか?」 私は例の松本病院を思い出した。 「いい病院あるよ。私の家から四丁ほど先に松本病院がある。今頃は昼だ から、お休みかもしれないが来てくれるかも知れない。電話あったらかけ みたら・・・」 「ありがとう。そうしてみる・・・」 急いでまた奥の廊下に入って行った。声が聞こえる。 「あの〜、河合といいますが・・・、子供が死にそうなんです。急いで来 てもらえませんか?」 「はい。そうです」 「そうです」 一方的な返事しかできない。意味もわからない。 暫くして、電話は終わった。 「よかった。今昼休みだって、すぐ来るって言っていた」 「よかったな〜。あそこは昨日まで家の息子がご厄介になっていた所なの だよ。いい先生だよ」 「とりあえず、見ておきたまえ」 「そうする」 ドアの前には洗面器に入れた消毒液が置いてある。中は静かだ。 「念の為、マスクをしてくれるかな」 準備している洗面器の横に、ハトロン紙に包んだ新しいマスクが準備して ある。 白いシ−ツに包まった小さな体は、あたかも薄汚れた蝋人形のよう・・・。 「着替えはあるのかい?」 「そのようなもの、全くない。どうしていいのかわからない」 「家に着替えはあるが・・・、取ってこようか?」 「いや、塙。ここに居てくれ。着替えはなんとかなる。この子は今、生死 を別けている」 「電話を貸してくれ。家に電話するから・・・」 「ああ、いいよ・・・。奥の廊下の突き当たりに電話があるから・・。使 い方わかるかな。受話器を取って、横のハンドルをまわす」 「ああ・・・」 指示通りにすると 「何番・・・?」 「電話番号はわからない。本町三丁目の山崎さんですが・・・」 「少しお待ち下さい・・・。おつなぎいたします」 呼び出し音の後に聞こえた声は、確かに山崎さんの声だった。 「奥の塙ですが申し訳けありませんが、家内を呼んでいただけますか?」 「珍しいですね。はい承知いたしました、少しお待ち下さい」 もしかしたら初めてかも知れない・・・。 暫くして、家内が出て来た・・・。 「事情は後で話すから、亜紀ちゃんの一年くらい前の下着と上に着るもの を河合君の家に持ってくてくれ。急ぎでお願いしたいのだが・・・」 「わかりました。一まとめしてあるのでそれを持って行きます」 「それじゃ、私も河合君のところにいるので・・・」 電話を切った。忙中間あり、そして静かな時間は直ぐに断ち切られた。 「お湯を沸かそう・・・」 おばあちゃんに話しすると、すでにもう充分沸かしてあると返事が返って 来た。何と言う気の利いたおばあちゃんなのだろうか・・・。 そうこうしている内に、玄関のベルが鳴る。 「松本先生がいらっしいました・・・」 「どうぞ、こちらの方へお通しして下さい」 河合君はいつもと違う、大きな声で答えた。 「遅れました。よく状況を聞いていないので・・・どのような状態なので すか?」 「今は寝ています。状態もわかりません」 「あ、これは塙さん。昨日帰られたばかり・・・」 「その節は、どうもありがとうございました・・・」 あちらこちらがグチャグチャに絡んでしまっているようだ。 「とりあえず、診察を・・・」 ドア−を開けるとそこには臭気も漂う、土気色の子供が・・・。 松本先生はためらわずにそこに近づく・・・、付き添った看護婦さんは一 瞬はたじろいだものの、それに従う。 何の恐れもなく、その小さき額に手を当てる。 「うん・・・」 自分で納得の声。 「すみません。お湯を準備してください。とりあえずはキレイにしましょ う。これでは病気も治りません。看護婦さん、体拭いてください」 「どのような状態なのでしょうか?」 「熱は確かにあります。この熱で昏睡しているようです。詳しくはまだ解 かりません」 「おばあちゃん、お湯持って来てください。入り口の戸まででいいです」 「入り口にある洗面器は消毒薬ですか?」 「そうです・・・」 「すみませんが、それここに持ってきてくれませんか?説明書に書いてあ る通りの原液を薄めてもらっているのですね」 「はい、そうです」 「使いたいと思っていますので、お願いします」 看護婦さんは上の方から脱がせにかかった。いくらマスクをしていても触 る毎に臭気が鼻を突く。 二の腕の脇は爛れて、膿様の液体が染み出ている。それでも看護婦さんは その子の母の如く手際よく脱がせる。 「斑紋が見られますね。これはいけません」 「どうしたのですか?」 「これは少し重大な病気かも知れません。これ以上は人を近づけないよう にしてください」 看護婦さんの手が止まった。 「先生。オシメが新聞紙」 「・・・・手拭でも何でもかまいませんが、ありませんか?」 「オシメになるようなものだったらいいのですね」 「そうです」 彼は別の部屋に行ってしまった。 小さき体には赤班が出て、ほとんど意識もない。それどころではない陰部 を包んでいた新聞紙を解くと、糜爛した陰部が臭気と共に出て来た。 凄いものだ。人間はこのようになってもまだ生きている。 「うん。後はキレイに拭くだけだ・・・」 「はい・・・」 看護婦さんは躊躇なく、作業にとりかかる。 病院でも患者さんを清拭しているせいか、すこぶる手際がいい。 見惚れている時、玄関のベルが鳴った。 「あっ、家内だ。先生少し失礼します。子供の衣類持って来させたのです、 少しはお役に立つと思って・・・」 「そうですか、それはありがたい・・・」 「塙さん、奥さん来られましたよ」 玄関の方から河合のおばあちゃんの声がする。 玄関に向うと、おばあちゃんが待ちかねたように入れ替った。 「あなた、持って来ました」 「そうかありがたい。委細はまた後で話す。忙しいのでこのまま帰ってく れ」 「わかりました。何かわかりませんが全力で頑張ってください」 家中のクレオソ−トの臭いとおばあちゃんの雰囲気を察してか、それ以上 は聞こうとはしない。 「松本先来ているのだが、今忙しい。それじゃ、ありがとう」 「私も用事がありますので、これで帰ります・・・」 手に持てるくらいの風呂敷包みをその場に置くと、家内は帰って行った。 元の部屋に戻ると、臭気は漂っているものの、その子の姿は見違える程変 わっていた。 「先生、髪どうします?」 「出来るだけ短く切ってやってください。清潔にしてやらないと・・・。 今は頭、虱だらけですからよくありません。切ってください」 栄養不足の為か、頭髪は細く茶色に変色している。それをハサミで少しず つ落として行く。横にすれば耳の後ろも赤く爛れているのが見える。 「家から着替え持ってきました。丁度女の子用ですから都合がいい」 先生はこれに答えて 「この子もこのように洗濯されて、清々しいものを着せてもらえて運がい い」 風呂敷の中を開けると、肌着や少し外にも出られるものも入っている。 オシメがない・・・と思った時。 「大至急でオシメ作ってきました。私の浴衣ですが・・・、着ないものも たくさんあるので今おばあちゃんにミシンかけてもらいました」 「凄いものですね。何も準備しなくてもいざとなればなんとかなるものな のですね。事前に準備しても揃わない赤ちゃんだっているのに、塙さん所 は今、男の子なので丁度使わないし、都合がよかったですね・・・。河合 さん所は子育てのベテランおばあちゃんいるし・・・」 看護婦さんは頭を丁寧にハサミを入れ終わると、体を少し浮かすようにし て頭を洗い始めた。 「少し意識が戻ってきたようです。目は閉じていますが眼が動いています」 汚れた洗面器の水は何度か替えられて、顔もきれいに拭かれた。 見違えるように変わってしまったその子を見て、ホッと安心した。 快活に歩いている健康な子供に比べて、この子はなんと不憫な生活を強い られているのだろうか・・・。 「心配なことがあります。この斑紋からしてチフスだと思います。衛生状 態もよくない状態でしたでしょうから、当然と言えば当然なのですから、 河合さん・・。この子はどこにいたのですか?」 「海側の突堤の下なんですが・・・。その子のお兄さんが今日亡くなりま した。同じ状態でした。それで私が連れて帰ったのですが・・・」 「それは大変なことです。伝染する可能性が高い訳ですね・・・」 「そうです・・・」 「私は役所に申告しますが、勿論原因の場所も特定しなければいけません、 ここも消毒に来ますがいいですね」 「ここに来てもあまり意味がありませんが、別に構いません」 「たまたま、私は今日、突堤に行ったら役所の人がその子の遺体を入れて いましたよ。検死医も来ていたようですから多分それは解かっていると思 います。先に消毒しているのじゃありませんか?」 私は見てはいない、そこにいた子の耳伝を自分の言葉として伝えた。 「そうですか。それならいいのですが・・・」 「この子はどこの子なのでしょうか?わかりますか?」 河合から発した答えは意外だった。 「確実な所はわかりませんが、多田御殿の子らしいのですが・・・」 「多田御殿というと上の手の高台にある、仰々しい家ですか?当主は亡く なられたと聞きましたが・・・。奥様も行方不明でご家族の子供二人もい ないという話しを聞きました。今はその親戚がそこに住んでいると聞いて います。そのような訳はないだろう・・・」 わかっていれば、このような悲惨な目に合わずにすむだろうに・・・。 「世の中、理不尽だよね。この子の母親は町を歩いている内に、爆撃の直 撃に合いバラバラになって、この子の兄はそのショックで口がきけなくな って、着ていたもの本当に乞食のようになってしまった。それでも最後の 砦の妹を連れて歩いていたらしい。それがこの子なんですよ」 「それは間違いないのかな?・・・」 「今は確実と言える人はいませんが、いつかそれがわかる日が来るかも知 れない。だけどそのような事はどうでもいい事です。今はこの子の回復を 待っていたい」 「私もです・・・」 黙って治療していた医者は、手を休めてそうポツリと言った。 「先生、このゴミはどうしましょうか?」 「ここの庭で焼いてしまうのが一番でしょう・・・」 すっかりキレイになった子の寝顔は安らかだ。 「私はこのまま午後の仕事がありますので帰ります。役所には書類を書い て送っておきますので、消毒と検査がきますので受けてください」 「私はどうしましょうか?」 「塙さんは別に触ったわけではありませんから必要ありません」 看護婦さんは終始手を休める事もなく、体全体をお湯で拭いて、自ら待っ てきた消毒薬を脱脂綿に染み込ませてはその上をなぞっている。 鼻の臭気を次第に感じなくなったのか、それともなくなったのか注意しな ければわからない。 家から持ってきた肌着を付ければ、ほとんど普通の子と変わらなくもなっ た。 「世の中には、この子のように理由もなく。とんでもない事で命を落とし ているのがいる。これを誰もが見ても知らない顔をして通っている」 「同感です」 私は黙って聞いていた・・・。 「熱が続いている間は下げてください」 「わかりました。他に注意することはありませんか?」 「家庭ではそのくらいです。隔離する必要がりますので出入りは厳重にし てください。清潔にさえすればもう山は越えていますのでよくなると思い ます」 「そうですか・・・。山は越えているのですか・・・」 確かにあのお兄さんが亡くなった時が一番危なかったのかも知れない。生 死を別けるその境界線でさまよって、どちらに落ちてしまうのか微妙な匙 加減は運に近い・・・。 「河合さん、それではこれで・・・」 医者は立ちあがってこれが普通だって思わせるように振舞って、玄関に向 った。 「河合さん何かありましたら、電話してください。すぐ来ます・・・」 そう告げると、看護婦さんと一緒に出て行った・・・。 私もそれに続いて帰るようにした。家に子供もいるし、長居は無用だ。 「それでは私も帰ります。話しを忘れていましたが、司法書士の方には書 類等は全部引き渡しました・・・それだけです」 「そうですか、わかりました。概略は出来ているのですが、身一つで奮戦 しているのでなかなか前には進みません・・・」 「落ち着いたら連絡下さい・・・。それじゃ・・・。ここで・・・」 ドァ−の外にでると、まず消毒で手を洗い。マスクを外す。 新鮮な空気が肺に流れ込んで来る。 玄関まで行くと大きな声で 「おばあちゃん、塙です。帰ります」 声をかけた。微かに 「ハ−ィ」 と声が聞こえた。 家に帰ると身をキレイにしたかった。家内にお風呂の仕度をしてもらうよ うに話すと、そのまま自分の部屋に入るとサングラスを外した。 どうも好きになれない自分(?)の子供と知らない不憫さを持っている子 供。どこで秤を取り違えたのか、自分の感覚だけがその秤の軽重を狂わせ ている。 どちらも好きになれば良いのだが・・・。 ジッと目頭を押えるとあの子の兄の悔しさが私の心に蘇えってくる。 自分の死ぬほどの高熱にうなされながら、新聞紙のオシメを取りかえるそ の悲惨さを誰が思い返すことができるだろうか? もし本当に「多田御殿」の住人であれば、その落差をどう乗りきろうとし ていたのだろうか? 子供ながらもいろいろ考えたろうに・・・。 「お父さん、お風呂どうぞ・・・」 声が聞こえた。 現実に引き戻されると、この身も奮い立つ 「直ぐ、行く・・・」 サングラスをそこに置いたまま、風呂場に向かった。 外に着ていたものをそこに脱ぎ捨てて、そのモヤの中に入って行った。 その日は妻には大方の話しをしたが、あまり健著な反応を示さなかった。 只々、聞いているだけで頷いてはいたのだ。 次の日の朝、海側の事が気にはなっていたのでもう一度行ってみることに した。 外側からそれを取り囲むようにして様子をうかがったが、いつもと同じ光 景、何もかわった事はない。 久しぶりの東山の方の「多田御殿」の方に向ってみようと思った。 あれは空襲にも遭わずに生き残っているはずだ。少し街から離れている性 もあるだろう。少し高台に大きくはあるが空襲の意味がなったかも知れな い。 今、社会問題になっている結核の隔離病棟を左に見て通り過ぎると、そこ に大きな門が見える。 このような家は表札などはかかっていない。必要ではないのだ。 キレイな玉砂利が敷き詰められてはいても、中に人の気配はない。打ち水 をしているから誰かお迎えするのかもしれない。 本当にあの子は、ここの子だったのだろうか? 私はここには入ったことがない。自分の家とは離れてもいるし、知り合い もいない。個人の私宅でもあるから余程のことがなければ入る事もない。 丁度その時だった。 黒塗りの車が一台その中に入って行った。続いてもう一台。 私には関係がないかもしれないが、何かここでも話し合いがあるらしい。 グルリを廻ってみたが、かなり大きな家だ。河合さんの三倍はある。 中は樹ばかりで、ほとんど家をうかがう事ができない。塀も高い。 これ以上は何も出てきそうにないので、この足で河合さんの家に行くこと にした。 河合さんの玄関を入るとすぐ、消毒の作業をしている。昨日の今日にして は役所の仕事は速い。 あまり意味のないその外や庭までも、手持ちポンプで消毒をして廻ってい る。 「入れないのですか?」 「そのような事はありません・・・」 マスクの下から、その係員の声がする。 「おばあちゃん、居ますか?塙です・・・」 いつも元気のいいおばあちゃんの声がする。 「はい、塙さんどうぞお気兼ねなくそのままお上がりください」 次第に慣れて来たのか、家族同様に扱ってくれるようになった。 上に上がると、河合さんがこちらにくる。 「その後はどうですか?」 「順調です・・・。目もパッチリと開けて、今キョロキョロしています」 「自分でもどうなっているかわからないのですネ」 「子供っておもしろいですよ。見ていて飽きない・・・」 「そうですか・・・」 「そうです、何でも興味があるのです。私のところには大人が使う物しか ないでしょう。それをどう見ているのか、おもちゃでなくてもよく手で持 って遊ぶのです。これは私の一生の仕事にしても悔いがないと思いました」 私にも子がいる、しかしながらそのように思った事は一度もない。 「それにそれに、笑顔がとっても可愛い・・・」 なんたる事か。昨日来たばかりの子供にゾッコンの状態になってしまって いる。 「まだ熱はあるのかい?」 「あることはあるが、凄く良くなっている。もう安心だ・・・多分」 「松本さんは来るのかい?」 「お医者さんは午後に来るって言っていたよ」 「河合は女の子、好きだからなぁ〜」 「ああ、好きだよ。こよなく・・・」 「だけどあまり、女の話し聞いた事ないよね」 「背が低いし、華奢だし。子供だったら丁度合うよ。今はとても幸福な気 がしている。孤児院に全力っていうところかな」 「今はただ、この子の事だけだよね。まだ早い・・。ところでこの子に名 前は何っていうのかなぁ?」 「知らない・・・」 「いいか悪いか知らないけど、あそこの家の子の名前を調べてこようか?」 「それがいい、そうしょう・・・」 「この子が正式にはどこの子かわからない時はどうしたらいいのかな」 「司法書士に聞いたらいいと思うけど・・・」 「そうだね・・・」 「もし養子縁組ができるのだったら、その名前を使おうかな?」 「・・・・」 「私はまだ結婚していないのに、養子を取る事ができるのかな?」 「それは、私も知らない・・・」 彼はもう先の先まで考えている。それは生死を既に越した安著感から出て きたのかもしれない。 「一度、見たいのだが・・・」 「いいよ。入る時は手を洗って、昨日と一緒でマスクをして入って下さい、 もう少しすると先生が来られますので、その時に入るといいですよ」 「そうしますよ」 「朝はもう、消毒や検便やいろいろ大変でした。このように大変だとは思 わなかった。ところで連れてきた元の海岸の所は消毒したのかな?」 「用事で少し近くを通ったが、そのような気配はなかったけども・・・」 「なにかおかしい・・・・」 「ここだけ消毒しに来たのかな?」 「あの海岸はしなくていいという訳はないだろう・・・」 「もう少し時間がいるネ」 「確認していないだけかもしれないし・・・」 少し待つ間に全ての消毒が終わったのか、係りの人が書類を持って来た。 ハンコをついて、それを大事そうになおし込むとそそくさと簡単な挨拶を して帰って行った。 それと入替わるようにして、松本先生が入ってきた。 「消毒も済んだようですね。まだ消毒液が濡れているところがあるから、 今終わったのですか?」 「今、帰ったところです」 「様子はどうですか?」 「快適なようです。オシャベリはしませんが、よく大きな目を開けて見て います。見ていると言うより観察していると言った方がいいかと思います」 「そうなんですよ。赤ちゃんのその知識欲は並み外れているのです。大人 はそれが解かっていない。吸収の仕方も凄いものなのです。今は大切な時 期なのです」 「それでは診察をしましょうか?」 奥の部屋に向って歩き始めた・・・。 「私も入っていいでしょうか?」 「塙さん。いいですよ。自己責任いなりますが・・・」 中は昨日と違ってかなり明るい雰囲気になっていた。薄いカ−テン越しに 柔らかな木漏れ陽が零れ落ちてくる。 「ほうほう・・。元気なようだね」 中に入ると笑顔は帰って来た。 「そうだね。よくなったら床屋さんに行こうね。看護婦さん本職じゃない から、女の子のように見えない。もう大丈夫だよ。心配いらないからね」 先生は多弁に話しかけると、いつものように額に手を当ててから、診察を 始めた・・・。 私は呆然としてその場にいたものの、明らかに昨日よりは健康状態はよく なっている。微かに臭気はあるものの、後少しは必ずとれてしまうだろう。 「薬はもう必要ないようですね。ただ化膿しているところがありますから そこを良くする塗り薬を置いて置きます」 「お風呂はまだでしょうか?」 「とんでもない。まだまだです。私がいいと言うまで待ってください」 あまりにも快調な回復の仕方についつい、臭気の事が気になるのか先走っ てしまった。命は臭気より先行しているとは思っても目の前の臭いにはい たしかたない。 気持ちも解からぬでもない。 「今日は徹底してキレイに拭いておきますから・・・。看護婦さんここに 居て上から下までしてください。私の仕事はもうないようです。ところで この子のいたところは消毒したのでしょうかネ」 「どうもしていないようなんですが・・・」 「ここだけ・・・?」 「それはゆゆしき事です・・・。本当はそここそしなければならないので すよ。帰って電話します。看護婦さん、お湯沸かしてもらって、ここに消 毒液置いておきますから、いつものようにお願いします」 「わかりました」 いつも黙っている看護婦さん、きれいな澄んだ声で答えた。 「このチフスは子供は軽くて済むのです。大体の病気はそうなんですよ。 風疹もはしかも大人は命を落とす事もありますし、罹ると治りが遅い」 「それで回復が早いのですか?」 「それだけじゃあありません。劣悪な環境と栄養不足からくる体力の自然 治癒力の減少などが原因となります。普通は食べ物を食べられる大人は栄 養失調になる事はありません。後進国などは大抵赤ちゃんや子供が栄養失 調になりますよ。だからここのお兄さん本当は芯の強い子供で、この子を 残すために、自分の命を賭してまで凄い事をしたのですよ」 「そう言えばそうです・・・」 「ひもじいと言う言葉は体験を通してしかわかりません。食べられるのに 食べないのと、食べたいのに食べるものがない。その違いがわかりますか ?時々、病院にもそのような子が運びこまれてきます。この子と一緒です よ。私は全力でしますがそれでも半数が亡くなって行きます。骨と皮にな って、その頃はもう食事を受けつけないのです」 「世の中は戦後成金もでてきているのに・・・」 「この子は今日の朝から牛乳を飲んでいます」 「そうですか。欲しがれば固形物もあげてください」 「それでは私は先に病院に帰ります。役所に話しをしなければなりません」 「早めに問い合わせをした方がいいです」 「看護婦さん、終わったら戻ってきてください」 「わかりました・・・」 先生は帰って行った・・・。 昨日は化膿していた所はなくなっていて、赤く爛れているようになってい る。人間の回復力の強さを目の当たりにしている。 「今日はお風呂はむりですから、頭だけお風呂に入りますよ。洗面器を持 って来てください。昨日もしましたが今日は本格的にキレイにしてさし上 げますわ・・・」 首に右手の掌を当てて持ち上げ、大きく左手でその洗面器からお湯を掬っ て二三度かけて、石鹸をゴシゴシと塊のままつけそれを何度もお湯をかけ て、石鹸分を洗い流す。 一度目よりも二度目と汚れが無くなってくる。 「キレイになりましたね・・・」 そう言った時、その子の眼からあふれた涙がこぼれ落ちた。 看護婦さんは 「この子ったら・・・、かわいそうに・・・」 そこに居た全員が気がついた・・・。 私はそれを見て、嗚咽を感じた。 黙って後ろを振り返って、目頭を押えた。その場を離れると便所に向った。 行くようにして木の戸を閉めると、立ち尽くした私は思わずも声を出して 泣いてしまった。 華やかな幸せの世界から、急に転落して兄を無くし、天蓋孤独の一人の子 は久々の手の温もりを感じて上向いた目蓋に、感謝と幸せ涙を浮かべてい る。 この場を早く出て、男の私に涙は相応しくない。 キリリと唇を噛みしめて、外の空気を吸おう・・・。 また、元に所に戻って見るとすっかり頭も拭かれて、清々しい感じさえも する。 白い長袖の肌着を着こむと、外見ではほとんどわからなくなっているほど 健康に見える。 「昨日有った、斑紋もほとんどわかりませんね」 「もう、心配いりません」 「よかったね・・・」 その子が初めて、頷いて反応した・・・。 次の日の朝。 家の赤ちゃんの菊虎は元気良く泣いている。近頃は少しづつ泣き声もただ ギャ−ギャ−から、本当の泣き声に変わって来ている。 毎日聞いているとそれには解からないが、ここのところ外出が多いためか その変化がよくわかる。 オシメも満艦飾よろしく、庭に張り出した竿に連なっている。 「元気になったな。一時は死ぬかと思っていたよ」 「そのような事はありません。私が何とかします。ところであの女の子は 元気なのですか?」 「順調に回復しているようだがね。まだ本格的とまでなっていない、時間 がかかるようだ」 「河合さん。子供を持った事ないのに食事はどうしているのでしょうか?」 「何とかやっているようだよ。昨日は牛乳飲んだって話していたけど・・。 あそこにはおばあちゃんもいて大丈夫だよ」 そのように話している間のも邪魔をするように、大声で泣き始める。 これがいつもの事だとでも言いたげに、赤ちゃんを片手でアヤシながら話 しを続ける。 「あの子の事。多田御殿の現在の当主は死んだって言っているらしいです の・・・。お母様が爆撃で亡くなって、確かにその肉片が電柱にぶら下が っていたらしいのです。それは間違いないのですが、二人の子供のことは 誰に聞いても、その辺のそれらしい遺骸を集めてそうだと言う事にしたら しいのです。五歳と三歳でしたから自分で言えるハズだっていう事だし、 その後にも誰もその子だって名乗る人はいなかったらしいのです」 「今の当主は誰がしているのだい?」 「少し縁も遠くなる、叔父さんに当る方がやっているらしいのですが、評 判はすこぶる悪いらしいのです。以前の多田の貴美子奥様はとても聡明で 誰からも好かれていたのに比べてとんでも無いことになっていますわ」 「美人だったのかい?」 コクリと頷いて・・・。 「私も昔。一度ご一緒した事がありましてよ」 「そうだろうね。今はここで生活で精一杯だけど、昔はお譲様だったしね」 「二人の子供と一緒に歩いていたと言う証言が、その死亡を推定させるっ て警察の方も言っていますし、今は今で当主はいるのですから曲げるのは とても出来ない相談だと思います」 「子供の顔は知っているのかい?」 「いいえ、知りません・・・。奥様は知っています」 「じゃあ、子供を見れば面影くらいはわかるかな?」 「わかると思います・・・」 「その内に連れて行くよ・・・」 それから暫くして、河合さんから呼び出しが来た。 例の会社の立ち上げが本格的になって来たと言う、一度細かく相談をした いと言う事だった。日程を調整して例の司法書士と落ち合う事になった。 司法書士との話しで無礼者と言った経緯もあるので、あまり合いたくも無 いけれども、仕事だと思えば何でもしょうがない。 「この前は失礼いたしました」 「高橋さん。わかってくれればいいのです」 横から河合が、 「何かあったのですか?」 まさか、自分のことでこの様な話をしているとは知らず、聞き返してくる。 「いや、何も・・・」 話しは早く反らさないと・・・。 「それじゃ、最終打ち合わせをします。会社の取締役は塙さんでよろしい ですね。発起人は後数名いりますがどうしますか?」 「わかりました。塙さんの奥さんもお願いしますね」 「誰でもいいのですがこれは、河合さんに一任して集めてもらう事にして 出資証明を銀行に行ってもらうこと、それは河合さんお願いします。公証 人役場と会社設立の登記は私が仕事としてやります」 「それでいいです」 「後は設立の日をいつにするかですが・・・」 「まだいろいろやらなきゃならないですが、春には完了したいですね」 その時、奥の部屋の方で泣き声が聞こえる。あれから元気に回復して今や そこにはいなくてはならない存在になっている。 「???」 「子供がいるのですか?」 「まあ・・・ね」 司法書士の高橋はいぶかった話しに直ぐ反応をする。 「どこの子かわからないのですよ」 「えッ、どこの子かわからない?!」 「いや、決してかどわかして来たわけじゃありません。本人のお兄さんが 亡くなって、天蓋孤独になったので私が引き取ったのです」 「本当にどこの子かわからないのですか?」 「いろいろ推定で話しがあったり、本当の所はわかりませんが多田御殿の 一番下の女の子だと言う人もいます」 「そのような事はないと思います。死んだって聞いていますし、お葬式も あそこの若奥さんと小さな棺が二つ同時に出たのを私が見ています」 「そうなのですか?」 「そうです。戦争で悲惨な最後を終えたらしいようです。皆の涙を誘って いました。二人の子は母親と一緒にバラバラになったと聞いています。 優しいきれいな奥さんでしたのに・・・」 「良く知っているのですか?」 「河合さん所と同じ、前の旦那さんからの付合いです」 「今は・・・?」 「以前と同じですが、どうも相続税が払えないらしいのです。それで現在 整理という事で私も大変なのです」 「相続税か?」 「河合さんのところは他に収益する所があるからまだいいですが、あそこ は当主が変わって、収益するところがありません。それに加えて前の当主 の相続が未分割になっていまして、そこからスタ−トしなければいけない のです。ややこしいのはその相続と今回の戦争によって若奥さんが亡くな られた相続を二回しなければいけない事です。その相次相続を解決するた めにはどうしても早く屋敷を売ってなんとかしなければならない事なので す。売るにしても山手の方ですから敷地が大きいだけでパッとしないので 買い手がいないのです。よかったら河合さんどうですか?」 「冗談でしょう」 「いや、河合さんだったら買えますよ。安い値段言ってました。それでも 売れないらしいのですよ」 「ちゃんと権利の譲渡はできるのかな・・・」 「書類的には、ほとんど完結しています。若干の問題がありますが時間の 問題です」 「いくらなのかい?」 「今度、正確なところ聞いてきましょうか?」 「参考のため・・・だよ」 「河合さん急いでやらなければないらい所からやりましょう。あまり手を 広げ過ぎると収拾がつかなくなりますよ」 「いや大丈夫ですよ。このくらいはわけない事です」 私は心配だった。 「高橋さんとの話しはよくわかりました。会社の商業登記は何も問題あり ませんから、後は粛々とするだけです。後はお任せ下さい」 「前にも話ました山の木を切る話しはその後どうしました」 「いや、まだやっていませんと言うより、途端に忙しくなった訳なのです、 子供もいるし、いろいろな事をしなければならないので、出来れば塙、君 一人で行ってくれるかい?勿論、事前に知らせもし紹介状は持って行く事 にすれば問題ないと思いますがね」 「以前に切った材木の確認なのですね。一体何本くらいあるのですか?」 「台帳を見なければわかりませんが、およそ200本くらいだと思います」 「今だったら、貴重品ですね。減っているのと違うのかな」 「それは、行かなければわからない。材木一本づつに合印がついています から、改ざんはできません。山に行く時はその焼印を持って行くのです」 「明日でも行きましょうか?」 「一応、連絡しますので週開けにお願いします」 「正確な本数と焼印と紹介状を、お願いします。その材木ももう運び込ん でもいいですよね。製材しておいた方がいいですか?」 「そうですね。ここでやる訳にいかないですから向うで製材してそれから 運んだほうが簡単だと思います」 「じゃ、そうしましょう。焼印はここの証明書みたいものなのですね。見 せていただきますか?」 「いいですよ。家に持って帰るといいですよ」 そう言って、彼は奥の方に行ってしまった。私と司法書士の高橋とは黙っ てその帰りを待った。 なんとなく気まずい雰囲気だった。 持って来た焼印は想像を絶する小さな物だった。一寸五分ほどの角のとれ た四角の枠に合の字が入っている鉄に、太い針金が付いている簡単なもの だった。 「どこに印が付いているのですか?」 「いつもは材木の根の方に押す事にしています。積む都合で逆の場合もあ りますので、そうで無い場合もあります。結構確認が大変なのです。積む とわからなくなります・・・。本数もわかりました。203本です。これを 包む紙に書いてありました」 「紹介状を書いておいて下さい。明日でも取りに来ます」 その時、廊下をトントントンと走る音がする。 「河合さん、名前付いたのですか?」 「いや、まだです。本当だったら自分でいろいろ話せるはずなんですが、 話ませんね。ここのところやっと走る気配を見せてきたのです」 「元気よさそうじゃあないですか・・・、安心しました」 「ところで、多田さん所にいた。女の子の名前はなんという名前だったの ですか?」 「奥さんの名前は貴美子さんで確か律子と言ったと思います。音楽が好き で調律の律から取ったと聞いています。私は子供には会った事はありませ んが、ご夫婦は音楽好きは有名でしたよ」 「それじゃ。その名前にしよう。リッちゃんか。いい名前じゃありません か・・・」 「ここに呼んできましょうか?」 私はそれに頷いた・・・・。 「あのね。今日からあなたのお名前リッちゃんにしますから、ハイっ て呼ばれたら返事するのですよ」 奥の方で諭してから、こちらに連れて来た。 「元気になってよかったね」 ただ、頷いているその子は、突っ立ったまま・・・。 「いくつになったんだい。三ッ?」 「話してくれないのですよ。何か都合があるのでしょう」 「もう、いいよ。またお布団に入っていいから少しお休み・・・」 そのまま、黙って立ち去って行った。 「今、聞いた話。多田さん所のご子息ではありません」 高橋さんは待ちかねたように話し始めた。 「目の雰囲気が全く違います。それに皮膚の色や髪の毛の色もかなり違い ます。もっと気品さえ感じさせるところがあります。子供でもそのような 所にいても、玉の様に光るものです。それがないと思います」 「そりゃそうでしょうが、今までが悲惨な状況だったものですから、その 感覚をとりもどすには、それだけの歳月が必要です。高橋さん、あなたご 子息見た事あるのですか?」 「いいや、ありません・・・。知っているのは旦那さんだけです」 「高橋さん、私には子供が三人います。その子を沢山の子供の中から探し だすことは不可能に近いものです。それと同じようにあの子がそうである と断定しているわけでもありません。髪も短く切られ、生死を乗り越えて 今ある魂は、その最後の灯火を頼りに残っているのです。きっとあの子は 光るものは輝きだすこと事は間違いありません」 「塙さん、いいじゃありませんか。高橋さんは素直にそう感じたのですか ら・・・」 「河合さん、あの子はどこも悪くはありません。ただ、そのような外見で 判断したりする事は止してほしいのです」 そう言って、自分の心臓がピクリと動いた。 高橋さんが河合さんの女装していると、私に告げ口した事を思い出したの だ。 話題を変えよう・・・・。 「歳は幾つくらいですか?・・・ネェ?」 「まだ、三歳くらいですか・・・?背も低いようだし・・・」 「高橋さん、多田さんの戸籍の謄本取ってきていただきますか?一応参考 という事で・・・」 「いいですよ。これも仕事ですから・・・」 私は河合が本気であの子を育てる気である事はわかっている。 その下準備で今は忙しいのだ。 「あそこの庭は少し変わっていて、春はとてもいい所なのです」 「どのように変わっているのでしょうか?」 「大体は芝で被われているのが普通ですが、日本庭園に芝がないのです」 「芝がない・・・?」 「石の配列も、山水を模したいいものですが、南面にはビッシリとそれは 見事なクロ−バ−が敷き詰められているのです。それもフカフカの状態に してあってとても心地よい場所らしいのです」 「何のために・・・」 「自家製の蜂蜜をとるためにと言う人がいましたが・・・わかりません」 「まさか、四ッ葉のクロ−バ−を集めるわけじゃあないですよね」 「日本名は白爪草って言うのですね」 「シロツメクサですか、やっとわかりました。そのような所で子供を遊ば せたいですね」 河合は白爪草で遊ぶ柔らかな日差しの春の子を夢見ている。

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