「花からたち」
[白爪草]
昨日のタバコの件は、後日にしても・・・。いや直接話せないのかもしれ
ないが、当面は彼の役に立つ事はやりたい。
私の役割は通訳で通るのかもしれない。
和製英語が繁茂している今、きれいな発音はとても喜ばれる。さすが王立
の先生だけの価値はあったものだ。
彼の探しているのは、心の優しい保母さんを探しているという事だった、
男性の私にとっては、進駐軍の通訳を通して考えてみたいと思っているら
しいのだが・・・。
いろいろな話しが飛び交う中に、司令官も次第に和やかな雰囲気になって
きて、本当に我が家に帰って来てるような心地になってきている。
「いつか、私の家にご招待しますよ。街の中心を真直ぐ行き止まる所の大
きな白い洋館が私の家です。玄関はいつも兵隊が立っていますが心配はい
りません。我が家にご招待するのですから大歓迎します」
彼もまだ一度も行った事も無いらしい。
その洋館は目立つようでそうでもない。シットリとしたたたずまいをして
いる。目をむいたような白亜の殿堂でもない。記憶にはあるけれどもそれ
が今ここに着任した司令官の私宅だとは誰もしらない。
一度は行ってみたい・・・。素直にそう思った。
彼は日本に来てかなりのカルチャ−ショックを受けたようだった。美的セ
ンスの位置付けもかなり違いがあるし、それが西洋の美とあるところでは
一致し、あるところでは全く反対の価値観を持っている。それを驚嘆とい
って良いほどのショックを受けているらしい。
一番解かっていないのは、今の日本人だ。街の中は次第に横文字の看板が
出始めたし、確かにそれの方がアメリカ兵は気軽に入ってきているらしい。
その混乱の中に生き残れる可能性が少ないその日本文化になんとかしよう
としても、とても一人の力ではどうしようもない。
今、河合君がやろうとしている。それと全く同じなのだ。
生きて食べる事と、思想との解離はこの混乱の時とても正確に見定めなけ
ればいけない。投げ出してはいけないのだ。
「今日のような日に逢えてとてもよかったです」
と、その司令官は私に告げると、玄関先に待たせてある車に向った。
最初も忙しかったが、最後も忙しい・・・。
私のように何もしていない人間と違うのだ。
人が一人減ると寂しくなる。
「コ−ヒ−入れようか?」
「えッ。コ−ヒ−あるのかい。本物かい?」
「勿論。本物だよ」
しばらくは喫んだことない。
「ちょっと待っていて、おばあちゃんに頼んでくるから・・・」
そう言って部屋から出て行ったと思うと、コ−ヒ−カップに白の角砂糖を
二個。それに透明な袋に入った茶色の粉を添えて、スプ−ンをカチャカチ
ャいわせながら入ってきた。
「後からお湯持って来るからと言っていた」
少しでも話したい気軽な仲間の意味で、水屋仕事こちらでという気持ちに
感謝した。
「それにしても長い間、逢っていないね」
「段々と戦争が激しくなって、生きる生き方も次第に変わっていったから
しかたがないけれど、塙君をとてもうらやましく思ったよ」
「なんでだい?」
「皆そう思っていたと思うよ。シッカリした方針もたっていたし、第一と
てもピリッとして格好も良かったし・・・」
「いやぁ〜。まいったね。格好がかい・・・」
「男らしかった・・・」
「ほう、どういう訳で?」
「私なんぞ、背は低いし、体付きも華奢だし、農業やっているわりには勤
まらないのは自分でもわかっているよ。生前の父がいつも悔やんでいたの
を思い出すよ」
「そりゃ、農業だって直接するのと、経営は違うからね」
「ところがそれが許せなくなってきている」
「私の兵隊と一緒かな?」
「やるせないね。どこに柱を持っていけばいいのか解からなくなる・・・」
「お湯を持ってきました」
おばあちゃんが入ってきました。
「塙さんのお父さん亡くなって、私の息子もなくなって、この世は一体ど
ういう事なんでしょうね」
「おばあちゃん、二人とも病気でしょう。しょうがありませんよ」
「あまりにも立て続けだったんで考えている暇も無かったですよ」
コ−ヒ−の準備をしながら、それとなしにする手際の良さは明治を思わせ
る。呆然と手元の美しさを眺めている私がいるだけだった。
息を継いで・・・。
「それにこのご時世。女中さんや廻りの人もいなくなるし、家の掃除もと
てもいけなくなってくるし、大変な時代になりました」
「女中さん。お給金はいらないから、置いて下さいって泣いていたけれど
それさえ大変になるのはわかっているから、無理やり帰したのは辛かった」
「そうでした。その人、他の家に女中さんで入ったらしいのですよ。時々
家に来るのですけれど、苦情ばかり言っています」
自分の所と一緒だなと、二人の会話をただ黙って聞いていた。
床の間の掛軸が目に入った。
「あれは・・・」
というだけで彼が口を開いた。
「それは父が書いたものなんで・・・少し恥ずかしい気もするのだけれど、
なかなか自分としては気にいってる」
「気の入った書だね・・・」
「たまたま、父の書斎を自分が使おうと思って整理していたら出て来たの
だけれど、新聞紙に挟んであったものなのでどうかと思ったのだが、気に
なってしかたがないので、表装してもらって見違えるように生き生きして
よかった」
「雲は青天にあり水は瓶にありか・・・」
「とても今の心境にピッタリなんだよ。孤児院のことだっていつも一人で
奮戦していると、気が挫けてしまうのだよね。だれもがそうだと思うのだ
けれども、なかなか自分の芯を持つことは大変なんだよ。いいとわかって
いながら・・・」
「そうなんですよ。なんとか止めてもらいたいのです。塙さんのおボッチ
ャンもなんとか言ってくださいな」
そばで聞いていた。おばあちゃんが水をさした。
おボッチャンも頭が痛いがおばあちゃんとは全く意見が違う。
「有る時に在るものが有る、心境なんだね、なかなか闊達できないものだ
ね」
私はおばあちゃんの言葉を無視して話した。
「世にはばかって生きている証を、父が残せと言っているような気がして
いるんだ」
「男には何か男としての仕事がある・・・」
そこまで言って、また心臓がドキッと音を響かせた。
昨日の彼は一体・・・?何の意味があったのだろうか。これがもう一つの
男の仕事なのだろうか?
彼はすまして聞いている。
「何かお手伝いする事があれば、声を掛けてくれればいいよ」
「あの司令官、元々は軍の出だから、塙君とかなり共通するところあるの
と違うのかな。私は民間人だから、彼みたいな強さがないよ」
そのような事ない。君にはポリシ−があって、今の私には全く何もないの
だ
「それに、一度家に招待するって言っていた」
「家族全員で赴任してきているのかな?」
「将校以上はそうらしい・・・」
「勝てば官軍とは良く言ったものだ・・・」
「そうだね。もしかしたら逆だって有得たかもしれない」
「不思議なものだ・・・」
本当に人生なんてそのようなものだと思う。
「お父さんの言葉も大切なことだけど、おばあちゃんの今の言葉も良く考
えてやらなければいけないね」
「それは考えているよ。家には空地があちらこちらにあるから、それを貸
して、主な収入源にしようと思っている。今まで通りの小作から少し生き
る方向を変えるわけだ。孤児院もその収入の範囲にしょうと思っている。
ただ、これは個人が出来る範囲を越えているので話しを詰めておきたいの
だ」
「貸地より、今住宅がないので家の方が良いのじゃないかな」
「確かにそうなんだ・・・。いろいろな物が不足して調達が上手くいかな
い・・・」
「人も物もっていう訳だよな・・・」
「今、食べるのが大変なんです」
おばあちゃんの切実な声が男どもの、背筋を凍らせた。
なかなか有意義な話しでもあった。今まで会えば考えてみればあまり内容
が無かったが、今回はその人生の外郭がわかるほどの重要な内容が沢山含
まれていた。
河合君の家を出たのは、かなりの時間がたっての事だった。もう一度街を
少し歩いてみたかった。
街の中心は華やかな電球の下で賑やかな声がする。
一歩その筋を変えると、激変する。ほとんど洗濯もした事もない学生服を
着た子供が路地で遊んでいる。
まだ遊んでいるのは良い方で、ボロボロの服をまとって呆然としている子
や、親さえいないで二人で手をつないで道端に缶を置いて、少しの施しで
生計をたてている子さえもいる。皆が一応にガリガリに痩せている。
「私は何をみていたのだろうか?・・・」
前は確かに、汚いと思った。タバコは吸うし、元気が良くて汚い子もいる。
しかしながら、今私の目に入るのは弱々しく、痛々しいこの世の現実その
ものだった。
「彼の言うのは正しい・・・」
何度も反芻させられた。
家に帰りついたのは、三時過ぎになってしまっていた。
今までの生活と違って、社会のいろいろな刺激にさらされてついつい食事
も忘れていた。
あちらこちらで見られた孤児達は少なく見ても20名ほどはいただろうか。
「ただいま・・・」
例によって、奥のほうから返事が聞こえる。
居間に向うとそちらの方に足音も近づいてくる。
「どうでしたか?・・・」
「ああ、とても大変なようだ・・・。河合君のおばあちゃんも随分歳をと
ってしまったね。びっくりしたよ」
「河合さんいかがでした・・・」
「元気だよ。今少しづつ話すから、簡単でいいから食事をしたい」
「ご飯と卵くらいしかありませんが・・・」
「それでいいよ。卵掛けご飯で充分・・・」
「ここでお食べになりますか?」
「そうしょう・・・」
あたふたと帰りついた主人はうるさい存在だろうなとは思う。
今までの事を中断して、他の事をするのは私は嫌いだ。
仕度された、その卵と冷ご飯をかきまぜ、少し醤油をたらすと出来上がっ
たまま、さっと口に運ぶ。あっと言う間に終わってしまった。
「今、河合さんどのような仕事をなさっているのですか?」
「いや、今まで通りだよ」
「あそこは大地主だから、社会の変化する時は大変なんですよね。幕末も
明治にかけて時の長州と上手いことかみ合って、転んだのですけれど、今
回は少し状況が違います。戦争に負けたのですもの・・・」
「進駐軍の事なんだけれど・・・」
話しを他からしようかなと思ってはいたものの、やはり中心からしなけれ
ばならない覚悟を決めた。
「今日、たまたまなんだけれど、この区域の司令官に河合君の所で会った
んだよ。いつものような雰囲気だったから良く来ているみたいだった。私
は一応はできる通訳をしてみたのだけれど、あれは通訳じゃなく。自分の
話しがほとんどだったのかな・・・」
「何か仕事に関わるような話しはなかったんでしょうか?」
「それがだよ。彼は昔から熱血漢だったよ。今、巷では戦争孤児などがた
くさんいる。それを何とかしたいと言っている、その交渉をその司令官と
しているらしい」
「それで、何か手広くアメリカと手を組んで仕事をしようという話しにな
っているんですわ」
「だけどどう考えても企業的な発想にはならない。収入にはならない・・」
「私は、河合さんの考えには賛成です。でも大局賛成。極論反対せざるを
得ない状態です」
「彼の頭の中にはもう、計画は実行されているのだ。それもスッキリとし
た青空の如くなっている」
「河合さんの家は土地持ちだから、なんでも出来る。私の家の少しとは桁
が違いますもの・・・」
「でも、なんとなくこれで没落するような感じはしている」
「何か他にお手伝いできる事は・・・」
「ああ、その司令官が通訳の発音がキレイだって言っていた」
「これからは、進駐軍と何かしていると何かと便利だし良いとおもいます
が、それが決まったわけではないのですね」
「当り前だよ。今日合って、すぐ決まる事など有得ない」
「そうでしょうね」
「そうだ。彼の家でその資金を集めるために土地を貸すと言っていたが、
それの手助けはできないだろうか?今、とても住宅難だからきっと上手く
行くと思うよ」
「河合さん所は山持ちでもあるわけだから、資材の方でも豊富ですから、
今は材木が無いらしいのですよ。古材でもとても貴重な存在になっている
らしいのです」
「事は早い方がいい。彼の頭の中には進駐軍の交渉と孤児の事しかないの
だ」
もう一つ女装の事とは頭の中には巡りはしたものの、話しはしない。
「それがいいと思いますよ」
「会社にいても、来るに及ばずでそれで終わりですから、話しだけでもし
てみる価値はありますよ」
「これからは自分で仕事をした方がいいね。お勤めだとまた前と同じ境遇
になる可能性もあるし・・・」
「あなたは出資するわけでもないのですから、一緒に働くといっても河合
さんの下で働く事になるのですよ。最初から勘違いしないようにしてくだ
さい」
「そりゃ、そうだが・・・」
その日の話はそれで終わった。
次の日もお天気だった。菊虎の退院も間近。なんとなく上手く行き出す時
は出足はそれに揃う。
昼を少し過ぎて、又彼の家に訪問しようとした。妻が少し待ってくれと言
うのだ。
「昼も食べたし、それでは行ってくるね」
「そうですね。それではこれお土産ですから、持って行ってください」
折箱に詰めた中身は知らない。
「ここに紐が掛かっていますから、ここを持って振らないようにして持っ
て下さい。横にしたりしないように・・・。私も出掛けますので一緒に出
ましょう」
「一体何が入っているのかい?食べ物と言うのはわかっているけれど・・」
「それだけで充分ですよ」
「今頃は何だって貴重のものだから・・・」
少し角を曲がると左右に別れる。彼女は病院を目指す道。
「それじゃ〜ね」
足早に去る姿は昔の恋人のような気がした。後髪が引かれる・・・。
玄関にたどりついた。
「こんにちは、居ますか?」
と言って、又気がついた。呼び鈴があるのだ。今度は躊躇せずに押せる。
「どなたさんですか?」
いつもと同じ、おばあちゃんの声がどことも無く聞こえる。
「塙です。すみません、毎日通っているようですが・・・」
「塙のおぼっちゃんですか、どうぞそのまま玄関にお通りください」
少しは減ったのか、樫の葉も底土が見える。
玄関を入ると、そこにはもうおばあちゃんが立っていた。
「お掃除なさったのですか?」
「いや、夜、風が運んでいったみたいです。掃除していません」
「それは私も知りませんでした。風吹いたのですか?」
「家の者が、箒を入れるなっていうものですから・・・」
「これ、家内から渡してくれって・・・、お土産なんですって」
「そうですか、それはご丁寧にありがとうございます。ありがたく頂戴い
たします」
「すぐ呼んで来ますから、少しお待ちくださませ」
そう言って奥の方に引き下がっていった。
「お待たせ・・。今、忙しい真っ最中なのだ。建物の線引きを考えている
のだよ。基本計画だからしっかりしていなければ、後で後悔することにな
るからね」
「裏に建てるといっても、どの辺りに建てるのだい?」
「西向きの道路に面した泥壁を壊せば、大きな広場ができる。そこに建て
ようかと思っているのだが・・・。あそこに大きな椎の木があるあれに苦
慮しているのだよ。出来れば切りたくない・・・」
「確かに大きな木だよね。樫の木系は成長が遅いから桁違いの樹齢かも知
れない。私もそう思う」
「あれはここに来る孤児達の、お父さんにしたいのだが・・・、何かいい
案出るかな」
「あの横に長屋があったね、あれを壊してそこを入口にしたらどうだい?」
「それも考えのだけれど、人も住んでいるし・・・」
「何人くらい住んでいる?」
「今は三家族くらいかな?」
「私が交渉しようか?」
「そうできると助かるのだけれども・・・」
「何か具体的な計画はあるのかな?」
「今の所は孤児院の事で精一杯なんだな・・・」
「昨今、自分の敷地に住まわせているのでなくしっかり独立させてしまう
のが一番だよ。河合君の所は山持だったよね。材木はそこから出せるから
まずその辺りから考えるにしても、とても大変だよ・・・」
「それはすでに考えていて、山から切り出すように指図はしてある。それ
は孤児院用だけど・・・」
「材木は切り出しても直ぐには使えないから、それ相当の期間が必要だよ
ね」
「以前、戦争が激しくなって来たときに、これはと思ってすでに切り出し
て保管してあるものもあるはずだが・・・」
「どこに保管してある?」
「父親がそのように言っていたのを聞いている。今どうなっているのかな
良くわからないが・・・」
「おばあちゃんだったらわかるかも知れない?」
「そう思うよ」
一体どうなっているのだろうか?今切り出している木材と、以前の木材と
切り出す必要があるのだろうか?
そうこうしている内におばあちゃんがやって来た。
「おはぎ、ありがとうございました・・・。こちらにお持ちしましたがよ
ろしいでしょうか?」
お皿に載せられて、お茶と手拭も準備されている。
「おう・・。これは大歓迎だね」
「私もここのところ、食べた事がない」
「おばあちゃんも水屋で食べないでこっちに持っておいで・・・」
「そうですか、そのように言われるのでしたら持ってまいります・・・」
やがて、おばあちゃんもおはぎをもって登場してきた。
キッチリと締めた帯が背筋をキリリとさせている。
「父親が切り出した木の保管してあるハズなのだが、どこに保管していた
のかな?紀州か信州だったかはっきりわからない」
「信州ですよ。今までは信州は遠いので山の切り出しはしなかったのです
が、今回は紀州の方がもう少し年数がいるというので、信州にしたのです、
ところが輸送事情がとても悪くなったのでこちらまでの搬送を止めただけ
なのです」
「そういう事だったのですか・・・。父から預けてあるとだけしか聞いて
いなかったので・・・」
「製材すれば良い木なんですが、もう80年くらいの丁度の木なんですよ」
「実際にあるのかな?」
「大丈夫だと思いますよ、あなたは興味がないから知らないとおもいます
が木に合の刻印をしています。お父さんキッチリ切り出しの立合いもして
いましたから自由に出来ないようになっていますよ」
「知らなかったけれど、結構親父も忙しかったんだな」
「そりゃそうですよ。あなたみたいに家ばかりにジッとなどしていなかっ
たでしょ。今は居るかと思えば戸を締めきって何かしているかわからない
し、居るかと思うと外に出て居ないし、お父さん等は必ず行く先を言って
出掛けましたからそれはわかりやすかったですよ」
「木の話しから話しが変わってきたね・・・」
私は話しを変えようと割って入った。
「河合君の信州の山は、私が確かめに行って来ようか?」
「そうだね。私も一度行かなければならないとは思っていたが一緒に行っ
てみようかな。とりあえずは手紙を書いておくことにするよ。いつ頃がい
いかな?」
「私は今、何もしていないからいつでも・・・」
「塙君の当面の生活はどうしているのだい?」
「妻の着物の仕立てと、若干の貸家で生活しているから食ってはいけると
いうところ・・・」
「当面の軍資金は必要だね・・・」
「そりゃ、あった方が助かるが・・・」
「やる以上は私の慈善事業と塙君の仕事と別に考えた方がいいと思う。絶
対に発展するものでないものを私がするわけだから、なんとかその経済基
盤をしっかり確定しておかなければ、全てが崩壊してしまう」
「私もそう思いますよ。行く末短い私もかかっているのですから・・・、
暢気な状態では困ります」
「おばあちゃん。暢気ではないのですよ、厳しいと言った方が良いと思い
ます。街は浮浪少年であふれています」
私はそう告げ足した。彼は毎日の如くにその苦言と付き合っているらしく
その反論もしない。
昔の土地持ちも今やその蝋燭の末期の炎の如く消え去ろうとしている。
何かの方法でその生き残りをかけて模索しているのだ。
「軍資金は明後日には準備したい。私の心積もりがあるからそれは私に任
せていただきたい。手紙も今日これから書こうと思っているので、早速行
動を開始したい」
「急に私も忙しくなるわけだ・・・」
「そういう訳かな・・・」
家に帰る道すがら、人生と言う不思議を感じた。
今までは国家の繁栄を望んで、それが唯一の心情で生きてきた。その国家
が崩壊してしまう、あの空に爆音と共に去って行った輩はそれを何とみる
か、本当は国家のためではなく社会に貢献するのが正しいのではないかと
思う。国家は時にしてその子の命を奪い、その財産をも奪う。
河合君のように、その路傍の石の命を救おうとしている。彼を敬服する。
その力になれるように私もなりたい。
これで私は人生の大きな曲がり角を迎えたようだ。彼の経済的な礎になる
ために、心を鬼にする事もあるだろう。心新たな明日が来る。
帰る家の中はホッコリとした温かさが漂っている。
今日一日の出来事を細かく妻に語る。黙って聞いている妻は一言
「よかったですね。就職おめでとう・・・」
と付け加えた。
自分の書斎に戻ると遠くの方で、仏壇のリンの音がする。
妻が仏壇に掌を合わせ、報告しているのだ。身が引き締まる。
今日もいつもの夜が来る・・・。これでいいのだ。
忙しい朝がやってくるだろう。
今日は張り詰めた冷たい外気を感じる。今のところは具体的にどうすれば
いいのかわからない。建物の事だって素人なんだ・・・。法律は少しはわ
かるけれどもどうすれば一番良いのか・・・。
学生の時はまず、本屋さんに行ってそれらしき本と巡り合わすことから始
めた。
今回はもう実践あるのみだ。実学として一番早いのはその専門家に話しを
聞くか、中間に入ってもらうのが一番。無理しないでその時は自然と現れ
てくるものだ。
「幸ちゃん、お父さんはね。今度仕事をすることになったのだよ」
「どのような、お仕事?」
「お家を建てるお仕事だよ」
「凄いね・・・。でもお父さん。カナヅチやノコギリしているのを見た事
ない。いつもお母さんだよ」
「ちょっと違うのだけど、そのような仕事だよ」
二人の子供の顔は明るい・・・。
菊虎もその内に帰ってきて、賑やかな泣き声で目が醒めるだろう。何故か
わからないが病院に引留められられている。
妻はこれで一応の毎日の生活の道筋が出来たらしく、上手くいっているら
しい。
今は具体的には私から動く事は全くない。ただ河合君からの連絡を待つば
かりだったが、それほどの時間は必要ではなかった。声がかかったのは三
日後だった。
行ってみると一人の知らない人がすでに座って私を待っていた。
「会社を建てようと思っているんだ。それで今日はその相談をしてみよう
と思っているのだけれど、どうだろう?」
「確かにそうした方が良いに決まっているが・・・出資金が・・・」
「出資金は一千万くらいで考えている。現在世の中インフレがひどくて、
お金の価値はドンドン低落して行っているから何かに変えた方がいいのだ
けれど、その方法が無い。農業主体だとこれが悲しいね」
「こちらの方は?」
まだ紹介してもらっていない人に声をかけた。
「ああ申し訳けない。最初に紹介すべきだったね」
「司法書士の高橋です」
自らが名乗りを上げた。
「異存がなければ、このまま直ぐに会社設立の手続きに入りたいのだが、
相談もせずに今来てもらったのは、全部話しを公開しながら進めて行きた
いと思っているからなのだ」
彼の生き方の一端が見えたようだった。
「私も異存がないが、お金の工面やどのようにして会社設立のことをすれ
ば良いのかわからない」
「資本金はこの私から、設立はこの高橋さんにお任せすればいい」
司法書士という名前は聞いたことがあるけれど、どのような仕事をしてい
るのか私は知らない。
「全部というわけにはいかないので、私も何らかの事をしたい」
「そりゃあ、ありがたいがそのような必要もない。今にわかる時がくるが、
実際はこの辺りでお金が廻っているだけなんだよ。それから先は本当に活
躍する事になるんだけれど・・・、高橋さん。基本的には進めてもらって
良いようです。お願いします」
これで全ては決まったようだ。
「まずは会社の名前をつけなければ・・・」
「私は会社運営には全く自信が無い。多分であろう自分の行く末は半分わ
かっている。これは塙君の世界なのだ」
「そのような事ありませんよ」
傍から高橋さんが付け足した。
「そのような事は後でわかるが、今は塙君の世界が開きかける時が来たの
だと思う。塙産業株式会社にしたらどうだろうか?だめでも後に書きかえ
る事だって可能だから・・・」
彼の頭の中にはもうレ−ルは敷かれてあるようだ。
「大体の所はわかりました。後は細かい作業に入りますので手続的な準備
がいろいろあります。相談もしなければいけません。印鑑証明や住民票な
ど準備するものがありますので、この次はそのお話をします」
「私も一度ここで家に帰って相談しなければ・・・」
「そうだよね。あまりにも唐突で私が少し走り過ぎているのかも知れない」
私と司法書士の高橋さんはその家から連れ立って帰る事になった。
「司法書士ってどのような仕事なのでしょうか?」
「弁護士などと違って、法律の実務的な仕事をします。例えば簡単な訴状
を書くとか、会社を設立するとか、登記をするとかです」
「そう言えば私の父が亡くなってまだ名義変更などをしていないですが、
あれもやっていただけるのですか?」
「やりますよ。今はどうしているのですか?」
「土地家屋の税金は先代の名前で来ています。払ってはいますけれどなん
となく気持ちが悪いですよ」
「やりましょうか?」
「それじゃあ。落ち着いたらお願いする事にします」
「塙さん、河合さんとどのようなご関係なのですか」
「学校の友達なんですよ・・・」
「そうですか、安心しました。何かあの人には謎めいた所があるのですよ、
もしかしたらそのようなご関係かと思いまして・・・」
「謎めいた?・・・・どのようなこと?」
突拍子もない事を、何の話しであろうか?
「彼はまだ独身でしょう・・・」
「そうですけれど・・・」
「私は河合さんのお父さんの時からの知り合いなのですが、いままではお
父さんとばかり話していましたが、お父さんが亡くなりましてから後、今
の河合さんが仕事の相手になります。河合さんの家にはあまり行きません
が、先日急用がありまして突然訪問したのですが合ってくれなかったので
す」
「何故あってくれなかったのですか?」
「おばあちゃんの話しだと居るという事でしたので、その彼の部屋までう
かがったのですが、その戸は絶対に開けてくれなかったのですよ」
「そのような時私でもありますよ。着替え中とか・・・。何か理由があっ
たのでしょう」
「彼女の話しは全く聞いた事がありません。それだったらまだいいのです
が・・・。お父さんが心配していましたから・・」
「何を心配していたのでしょうか?」
「いつまでも独身だって言っていました。彼女がいないのだって悔やんで
いました。あそこの家では跡取息子なので、とても大事な事なのですね」
「そうですけれど・・・」
「それとどのような関係があるのですか?」
「関係は無いのですが・・・」
話しはそこで途切れてしまった。
具体的な印鑑証明や住民票などの枚数を確認して、次回会う時に持って来
るように指図を受けた。
まずは銀行にお金を預けて、株式引受証明を出してもらう事。公証役場に
会社設立の手続きをしてさらに登記所に行って会社が初めて動き始めるの
だという事がわかった。
具体的には司法書士がやってくれるので、こちらとしては書類を揃える事
と実際にお金と印鑑だけ揃えれば、それで全て出来るのだけわかった。
「書類が揃えば今度は私の所の事務所に来ていただけますか?」
私は快諾した。暇なのだ・・・。
家に帰ってその話しを妻とした。良くは理解したらしいが今日はいつもよ
りひどく疲れているようだった。
「菊虎ちゃんが近々帰っていいそうです」
「そう・・・。いよいよだね」
それより答えるしかなかった。
「私は書類揃えで明日、出掛けてくるよ」
「はい、わかりました。ところで河合さんはあなたのお給料はいくらっ
て言ってらしゃいました?」
「そこのところは私もわからないのだが・・・」
「そうですか。今度お会いしましたらそれはシッカリ聞いていただかな
いといけませんね」
とても女性は打算的だなとは思ったけれでも、とても大切な部分でもあ
る。
「今はそこまで話す事ができない。用事は山程あるんだよ・・・。会社
がこれから誕生するのだからしかたないけど・・・」
「塙産業って、あなたが社長でやるのですか?」
「それもまだ・・・」
なかなか当を得ない答えしか言えなかった。まだまだ外郭しか出来ていな
い家にお風呂はどこ?玄関の表札はどうするの?と聞かれているようだっ
た。
「お前も疲れているようだし、私も疲れた。今日は早く寝て明日考えよう」
「わかりました」
朝は曇天。気分はそれに似ず元気なのだ。
「それじゃ、行ってくるね」
と出たのは十時頃だった。役所に行って住民票と印鑑証明を申請する。
相変わらず何故か時間がかかる。書類が揃うと役所の上で鳴るサイレンが
けたたましく鳴る。心理的には空襲警報だ。自然と身が引き締まる。
そのまま直ぐ近くにある司法書士の事務所まで行こうと思っていたが、お
昼のお休みを邪魔するには少し忍びない。
時間潰しに少し海側にも行ってみるか・・・宛のない散歩である。
海近くになれば潮の香が漂うはずだのにそれがない。静かな潮騒は確かに
聞こえて来る。
何か小便臭いのだ。その角を曲がるとすぐに原因だわかった。
今までは気がつかなかった。景色のいい海岸の防波堤の下に沿っておびた
だしい掘建小屋がならんでいるではないか。
このような所で暮らしている沢山の人々の汚物が、その溝に何のわだかま
りもなく捨て去られている。中は電気も何もない暗い部屋だけがうかがわ
れる。子供も無邪気に遊んでいる。
これが戦後なのか・・・。唖然として見ている内に私も涙がフッと沸いて
くる。勝てさえすればこのような事態にはならなかっただろうに・・・。
負けた私達にも原因があるのだ。
その時、私の目の前を横切るものがある・・・。あらああ・・・。
あの汚い壊れかかった家から出来てきたのは、紛れもない河合・・・。
一瞬の目を疑った・・・。確かに汚くどうしょうもない戸を押し開けて出
てきた。
本心なのだ・・・。
私には出来ない・・・。
この汚く臭い環境に中で自分を保つことさえできないのに、彼は他人の事
に奔走している。
この人達の過っての幸せを取り戻そうと本気考えているのだ。
私は角を曲がるまでこの事実を知らなかったばかりでなく、臭い汚いと感
じた。そしてそれは戦争を遂行してそれを破局に導いたそこにこそ問題が
あったのだ。負けたからではない・・・自らを恥じた・・・。
彼にできる事は私なりにそれを考えなければならない。
彼が動き易いようにその環境を整える事に、これからの人生の全てを投入
しようと考えた。
そのまま、私はその場を離れた。
彼は今私の中に中空に浮かんだ神の如くあった。
時計を見ると早、一時を過ぎてしまっていた。司法書士のところに行かな
ければ・・・。
「こんにちは・・・」
ガラス引き戸を開けると、そこは別世界だった。
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